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闇に生まれる

 通り慣れた舗装されていない道で立ち止まる。街燈はない。




 どこまでも澄んだ、暗闇の世界だ。どこからか、細径な音がひびき、わだかまっている。もしかしたらわたしの呼吸かもしれないし、鼓動かもしれない。一歩ごとに、数多の推測と予測が、泡沫のように浮かんでは消える。わたしは、果たして歩み出しているのか。わたしは、どこに居るのか。




 暗闇が、五感を、本能を、わたしという命のすべてを呑みこむ。この夜は、大洋とよぶにふさわしい深淵を湛えている。




 わたしは、もがくこともわすれて、なみを、うけいれる。さざなみが、あたまのなかではじけている。うつくしいひびき! なみだ! 




 ―――わたしという器は、あまりに小さく、わたしは壊れ、られなかった。瞳が力の限りに広がり、わたしから全てを吐き出した。よろめいて、わたしは、ふと、捉える。ぼんやりと揺らめく、ほんとうに微かな光を。あれは、水平の果ての、極楽か?




 違う、あれがなければ、と、わたしは呼吸をする。同時に、気がつく。胸をみたす、生温く、なつかしい安堵を。


 それは灯台。それは、わたしの道標、わたしの在るべき場所。




 しばらく、わたしは足元の大地に意識をやる。わたし程度ではびくとも揺るがない、確かな大地。わたしのなかには、わたしを括りつける重力があった。胸に手をあてる。鐘のような鼓動。拭った涙は、飛沫ではない。


 波の気配は去った。血管を、余韻が抜けていくのを、瞳をつむりながら感じる。




 ふと、思いだす。いつも感じていた、ある奇妙な奥行について。闇のなかの、五感をこえた、奥行の気配について。わたしの眼前にひそむ、次元とはなにか。




 潜行せよ、わが意識。わたしは、わたしの心に従い、ふたたび瞳を拡散させる。わたしの場所。わたしの現実。わたしのすべてが、逆転し、循環し、回帰する。




 脈動している。わたしの心臓が、世界が、恐怖と、異質な安堵が。これは本当の音ではないかもしれない、だが本当の音とはなにか。なにものが定めるのか。


 わたしは知る。こう思う、想えることこそが、闇の本領であるのだと。わたしに包括された幻想。わたしを包括していたはずの現実。闇夜に、わたしは潜っていく。霞んだ境界に意味などない。




 いまや、闇とはわたしであった。わたしの夜であった。余すことなく、わたしの裡にあった!




 ゆえにこそ、あり得べからざる者たちに、言祝ぎの鐘よ、あれ!






そよ風がうぶ毛を撫でる その一挙一挙に女神をみる


わたしの額に とじた瞼に 上唇に


服に隠された胸のみならず肉と骨層に包まれた


その奥の神経節までもに接吻し 脳に息を吹きこむ


すきとおる滑らかな腕が すらやかな動作でわたしを抱く


けれどそれは左腕だけの極楽


隠した右腕に小さく鋭い鎌をもっている 女神を




小さな 本当に小さな妖精が 羽虫とともに遊び


優雅な けれど粗野な速さで飛んでいる 


夢中になって 彼あるいは彼女が わたしの鼓膜に飛び込み


そして染みこみわたしの音となる




扉は開かれ、濃く深く、森が翳りを落とし、


わたしは覆われる         はずだった








 暗転。 呼吸を。




 酸素が満ちる。




 わたしは遡行する。どこまでも。








 なんの揺らぎもない月が、ただ爛々とあった。


 この刹那、刹那を反芻しながら、夜空は遠く、深く、どこまでも澄み渡っているようだった。闇に紛れた地平に、あとどれだけ隠れていられるだろうかと考える。




 ここはどこなのか。なにをしにここに居るのか。わたしとは、なにか。わからない。




 音も、風もなかった。わたしの鼓動さえ、わたしのうちから齎されなかった。


 この月灯りだけの、まさに静謐と呼ぶにふさわしき世界。どうしてか、立体的であるのに、瞳は奥行を見失ってしまう。




 のっぺりとした闇。スクリーンに照らし出された虚構に思えて、ふと、手を伸ばしてみた。磨かれた白磁のような肌が、そこにはあった。


 ゆっくりと翳され、月光のなかに透明な黒にぼやかされ、わたしは言葉をうしなった。わたしからは見えない掌が見える。大地をとおして。


 わたしは水の上にたっていた。貌のないからだで。




 夜空にわたしを浮かべる。雲も星もない。わたしと月だけだ。この、硯に満たされた墨のような闇に沈めないのは。


 うっすらと浮かぶ手相に、指で触れる。温もりはなかった。ひんやりとした感触が、神経を瞬く間にかけのぼり、わたしの体を突きぬけ、飛びだし、波紋となった。


 空間がゆれる。月が砕ける。黒洞々とした闇に、波が乱反射し、水平線が崩れる。


 幻のように、わたしが揺れている。指先から落ちた水滴に、月が映る。わたしの瞳にうつる。やがて、黒にうつる―――そして戻っていく。


 それは転生と表現するに値した。わたしは、ぼうっと眺めながら、指を舐める。冷たい味がした、すべてが冷たかった―――空間それじたいが。




 ようやく水面は凪ぎ、眼前の景色が悠然と、けれど薄く、あった。黒き天地は逆転しながらも交わり、そして溺れる錯覚を、する。


 それからわたしは、闇を占める月をしばらく見ていたが、ふと、わたしはその光のなかを下りるものに気がついた。あまりにも厚い本と、鋭いペンである。




 本は幾度となく捲られてきたのだろう、ページが草臥れて、黄ばんでいた。わたしは突き動かされるように、わたしの求めるものすべてを暴くかのように、捲った。ミミズ腫れのような文字が並んでいた。わたしには読めなかった。




 そうして半分ほどを捲ったところで、この文字列が突如として崩れ、ページから水面に落ちた。波紋はなかった。わたしの手元にある本は、白紙の束になった。そこでわたしは、ペンを腕につきたて、闇にさえ溶けない鮮烈な赤で、綴りはじめる。滴る血などは気にもならなかった。




 わたしの血は燃えた。あるときは地平を灯す火となった。―――数えきれないほど、光と闇のうつろいを眺め、過ごしたあと、わたしはようやくペンを置き、手をあそばせることにした。




 腕にうかぶ、赤黒く黒ずんだ筋をそっと舐めた。やはり冷たかった。ゆっくりと立ちあがり、もう、ずいぶん前に戻ってしまった水面と夜空、この暗闇と―――その頂点に座す月を眺め、わたしは、倒れふした。




 わたしは、わたしに顔のあることを認めた。皺のきざまれた、老人の顔を認めた。その次の瞬間、突如として夜空がわたしに覆いかぶさった。


 冷たい! この音! 久しく忘れていた。奔流となってわたしを駆け抜ける。驚いた血色のよい小さな体は、わぁっ、と初めて泣いた、のだった。








 暗転。 呼吸を。




 酸素が満ちる。




 わたしは充填する。ここまでを。








 ここに時間は意味をなさない。この夢現の路では、時はわたしの裡に隠されるのだ。だから、すべては、刹那で、現実だ。




 限りなく高められたわたしの五感が、時のまにまの変化を切りとっているだけだ。わたしの変化すべてを。闇の移ろいを。




 この空白。限りなく零に近似された現実の空白は過ぎるのみである。清らかな夜道にしずむ、わたしの幻想。わたしの体に降り積もる、マリンスノーのような、神経の発火光。わたしの瞳は、それに従い、眩いものをみるように開いた。




 遠くに、光が見える。霞んで、朧げで、けれど、わたしほど確かな輝きで在る光。


 あれほどわたしを魅了した闇は、もう質感も質量も、すべてを失って、去ってしまった。乾いた失望を抱くが、あの遠く届きえない欠落に心惹かれ、二つのあわいでぼうっとする心に、実際以上に冷たい風が、かすかに羽音を奏でる。


 そして、その冥々たる音と、小さな光へ向けて収束する、黒の波濤をかんじ、やはりこここそが万物の交差点であり、終着点であることを知った。




 もう、あの酔ったかのような乖離感はなくなった。瞳孔の闇を、遠く一点に絞る。わたしはふたたび、このなれた奇妙な奥行きへと、深く潜っていくことにした。

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