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「ヒト堕ちのアレッタ」

 足が滑る。


 なぜなら足裏の皮が剥け、肉が裂けて血があふれているからだ。


 あまりに小さな足は地面を蹴ることに慣れておらず、さらに裸足であるのだから仕方がない。身につけた服も布切れに近く、体を守ることなどできないため、擦り傷にまみれてしまう。


 鬱蒼と茂る身の丈ほどの草木をかきわけながらヒトの体の脆さを体感し、さらに痛みという苦痛に耐えながら、どこか頭の先で『ヒトはこんなに苦労しているのか』と感心する気持ちもある。


 だが4歳程度の幼女の体は思った以上に体力がない。すぐに肩が大きく揺れ、息がつまりそうだ。すみれ色の髪が汗で頬に張りつき、額を伝う汗は止まらない。




 それでも走らなければならないのは、生きなければならないからだ。


 7日間。7日間を生き抜かなければならない。




「……生き抜いてやるっ……!」




 吐き捨て言った彼女は、琥珀色の瞳を木々の隙間の空に向けた。


 深い群青色に染められた空のさらに先に、彼女の故郷がある。




 ———天使の羽を()いだ罪にて、アレッタ、君をヒト堕ちの刑に処する」




 体を屈め俯く女性にそう告げたのは、熾天使(セラフィム)の最上位・神の右手と呼ばれるドゥーシャだ。


 6枚の羽を揺らしながら彼はアレッタに「最後の言葉はあるか」顎先で声を放った。


 彼女は立ちあがり、背筋を伸ばす。彼を捉えた瞳は威厳にまみれる彼以上に威圧感があるようだ。胸元に立つ彼女の目から逃れるためかドゥーシャは静かに視線をそらしたが、その視線すら握り掴み自分へと向けるように、彼女は美しくも鋭く目を見開いた。




「私はここに宣言する。


 この罪は冤罪である。


 私、アレッタは、ヒトとして7日の寿命を全うし、汚れなき身であることを、この天の地に戻ることで証明する」




 ドゥーシャの眉が歪むと同時に、容赦なく手が振り下される。


 それを合図にアレッタの美しい4枚の羽は羽斬り(はねきり)(かま)で切り落とされ、天からヒトの地へ、ヒトの身となるために堕とされた———








 ———堕ちて最初に見つけられたのがオークであったが、実際、それは幸運だったのだろうか。


 彼女は引きずりはじめた足をかばいながら走り考えていた。


 オークは鼻が利くが視力はヒト並、さらに足が遅い。ただ体力は底知れず、いずれ距離が縮み捕まるのも時間の問題だろう。




 細い野道に入り、彼女は足を止めることなく運び続けるが、後ろを見ると血の足跡がしっかりとついている。これではあとをついて来いと言っているようなものだ。


 服といえるのかわからないそれを無理やりさいて足に巻き、さらに地面の土をふりかけた。


 途端に激痛が足の裏から痺れとともに這いあがってくるが、少しでも血の色が目立たないようにするためだ。




 短くなった服の裾を伸ばし息を整えたとき、背後から迫る気配に、彼女は横へと咄嗟に飛び転がった。


 受け身を取って地面を見ると、彼女の顔ほどの石が地面にめり込んでいる。




「当たってねぇぞ! しっかり狙え!」




 予想よりも近づいていたようだ。投石で足止めを考えついたらしい。


 マズい。彼女はもつれる足を動かそうとしたとき、再び石が投げ込まれた。




 視界をあげると前方に歩く影がある。黒いローブを纏い仮面をつけた男だが、まっすぐにこちらに進んでくるではないか。


 彼女は無理やり足を振りあげ、仮面の男に飛びついた。地面に倒れた男の頭に素早く覆いかぶさったとき、石は彼女の右肩に当たった。それは鈍い音ともに小さい体に痛みとして響き渡っていく。彼女は思わず体を仰け反らせるが、地面に寝転がる男を見て怪我がないことを確認すると、体を強制的に持ちあげた。




 そのまま彼女は走りだそうと足を踏み出すのだが、空を切るだけで前に進めない。


 離れていく地面を掴もうともがくが、眼前にいたのは彼女を片手で掴み、肩で息をしているオークの姿だ。




「逃げられねぇぞ」




 そう笑うオークの出張った鼻穴に、彼女は思いっきり指を突っ込んだ。


 怯んだ隙に「自分の腕が、短い……!」彼女は叫びながら自身を掴むオークの腕に、両手で組んだ拳を振り下ろす。




 彼女の不意打ちに力が緩み自由になるが、鼻血を流すオークはまだ諦めていない。


 捕まえようと振りまわされる太い腕をかいくぐり、彼女はオークの腰に下げられた棍棒を奪い、素早く背後について膝に向かって撃ち込んだ。片膝が崩れたところで腱に向かって叩き、そのままうつ伏せに倒れ込んだオークの首下に力一杯振り下ろす。




 ピクリともしないが、息はできているので死んではいないだろう。それに安心しながら右に視線を飛ばしたとき、もう目の前に残りのオークが追いついていた。


 だがアレッタの意思に反して手は棍棒を手放し、さらに腕も持ちあがらない。せめてもの足はメデューサの目で固められたのか、微塵も動く気配がない。




 アレッタは迫り来るオークを睨んだ。




 これが絶望か———




 歯を食いしばり、力の入らない拳を握り、


「悔しい」


 アレッタの小さな声はオークの雑踏で打ち消される。


 彼女はこれから受けるであろうことを走馬灯のように思い巡らせながら、固く目を閉じ、小さな体を強張らせた。




 次の瞬間、腰に手が回され、アレッタは小脇におさまった。


 この位置であれば届くだろうと、最後の抵抗に渾身の力を込めて顔面に向けて拳を突きあげる。


 だが思ったよりも硬い顔に驚き、そっと目を開くと、そこには小さな波形に凹んだ仮面がある。


 さきほど庇った仮面の男は、逃げずにその場に残っていたようだ。




「逃げるよ、子供」




 オークの手から間一髪ですり抜けると、男は一気に走り出した。


 身なりが整っていることから貴族か何かなのは察しがつくが、これほどに逃げ足が早いとは。普通の貴族であれば乗馬を嗜む程度で子供を抱えて崖は登れないだろう。だが仮面の男はアレッタを小脇に挟んだまま、軽々と崖を登り終え、すぐ近くの納屋へと身を潜めた。




「巻き込んでしまってすみません」


 頭を下げたアレッタをまじまじと見つめ、




「……天使だね。元だろうけど」


 男はぶっきら棒にそう言った。




 すでに男の仮面から彼女の拳の型は消えていることから、男は魔術師か何かなのかもしれない。アレッタは彼の仕草を観察しながら小声で答えた。




「よくわかりましたね」




「天使はヒトと(なり)は一緒でも、この琥珀色の目と、この香り……は、誤魔化せない」




 男は顔をついと寄せると、仮面越しにアレッタの髪をすくいあげ、匂いを嗅ぐ仕草をする。




「汗臭くてすみません」




 アレッタは慌てて体を撫でてみるが、男は声を立てて笑い、




「違うよ。ヒトの世界でいうなら君から漂う香りはワインの香りに似ている。最上級のワインの香り。気品にあふれた繊細な香りだよ。だから狙われるんだ。


 ……そうだな、君からはラズベリーのフレッシュで甘い香りと、さらに汗が混じるせいかスパイシーな森の下草、あとなめした革のような深い香りがするな」




「……ロリ変態仮面……?」




「ちがぁぁーーーーう!!!!」




 男はひとつ咳払いをし、


「私は君の血など興味はないが、魔力を多少とでも必要とする者は君のようなヒト堕ちの血が欲しくてたまらないんだよ。極上の香りと味が楽しめるからね。


 それにヒト堕ちなど、そうそうあることじゃない。しかもうまく生き延びても、たった7日で死ぬ。


 だから死んでいても高値で取引されるんだ」




「では、逃げる際、オークに差し出してください」


 まっすぐ向いた瞳に濁りがない。




 腹を括った幼女の声に男は鼻で笑うと、


「危なくなったらそうさせてもらうよ」


 その声にアレッタは微笑み、お願いしますと付け加えた。




 木々の倒れる音がする。オークが近くまで来ている証拠だ。彼女は納屋の木の壁に耳をつけて外を探るが、なかなか掴めない。そんな中でも男は余裕の雰囲気で、積まれた藁によりかかりながら、


「手持ちぶたさ?」彼女の手を指差した。


 アレッタも気づき、自分の手を見てはにかんだ。ちょうど柄を握るように手が丸まっている。




「剣があれば、少し違うのですが……」




「君、智天使(ケルビム)なの」




「よくご存知ですね」




「そこに鎌がある。使えないの?」




「彼女と約束したのです」




「彼女……?」




「私の大切なパートナーで親友でもあります。


 彼女はネージュ。氷の聖剣です。彼女が私を神の左手として選びました。


 その時に彼女が言ったのです。『私以外の武器は持たないで』と。


 ……私はヒト堕ちし、もう神の左手ではない。それでもネージュとの約束を果たしたかった。


 ですが先ほど棍棒も使ってしまいましたし、あなたを守る義務がある。


 この約束はもう守れそうにありませんね……」




 アレッタは草刈り鎌を手に取った。柄が長く、刃も長い。死神が持つ鎌と同じ形をしている。構えてみるが、彼女の身長には大きすぎる。


 だが聖剣(彼女)であればこんなことにはならない。




「……会いたいよ……ネージュ…」




 隣の納屋が壊される音を聞きながら、これからの絶望をかき消すように呟いた。




 ──もう、すぐそこにいる……!




 彼女は彼の盾に少しでもなれるよう前に立ち、鎌を構えて、ただオークが来るのを待つ。




 埃の舞う空気を斬るように、勢いよく扉が斬り壊された。


 その土埃の奥から声がする。




「ようやく見つけた」




 アレッタは血の滲む足に力を込め、腹に響くその声を睨んだ。


 眼光はあの神の左手と謳われた戦士そのものだ。

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