第三王女の影の武者
これは、のちに大陸七剣の一角"影の剣姫"と謳われた王女の物語――。
――ウェルゼ街道。
草原の緑に一本の線が引かれたような長閑で優しい陽光の道を、一人の男が果実を齧りながら歩いていた。
東の国の傭兵のような無造作な風貌に加え、腰には長い剣を佩き。
重ね合わせた浅葱色の上着を纏い、かすかに焼香の香りをさせた彼の名はキュウキ。しがない旅人だ。
何日かの野宿を挟んでの今日。
この調子なら、夜には目的地である首都ランデルに到着出来るだろうか。
期待と不安を無い混ぜにした感情を胸に、こぼすように呟いた。
「このペースを保てるのなら、の話だが」
今回の旅路は順調だ。夜盗に狙われることも、突然の嵐に見舞われることも、はたまた誰かが凶報を持ってくることも無かった。そんな当たり前の平穏な旅が、キュウキにとっては珍しい。
というのも、この男。不運に遭遇する回数が人よりも遥かに多いのだ。
あまりの運の悪さに易道術を身につけたほどにだ。習得してより欠かさず毎日、朝の日課と称して易道術を扱うのは朝食よりも当たり前となってしまっている。
今日も今日とて執り行った。その結果は――
「今日ばかりは誰かに助けを求められても無視しなければ、必ず不運が訪れる……か。頼むから、何も起こってくれるなよ……?」
黙っていれば精悍なその顔を怯えの色に染めながら、少しだけ歩調を早めた。
事件が起こるにしても道中は御免だ。出来ることなら首都に入ってからにしてくれ。
そう心底で願いつつ。キュウキは人気のない街道をただ一人、そそくさと歩むのだった。
――キュウキを知る人々は言う。『キュウキは鶏だ。自ら間抜けな顔をして油に飛び込み、それを良しとする』と。
――『お前は自ら不幸に飛び込む性格だ』
生まれ故郷でも、旅の先々でも。呆れるように、心配そうに、そして慮るように告げられた想いに、キュウキはいつも自らの後ろ髪をくしゃくしゃとやりながら申し訳なさそうに苦笑いを浮かべるばかり。それがキュウキなのだと、半ば周囲から諦められてもいた。
とはいえこの時キュウキは、今日は助けを無視するぞ。と小さく意気込んでいた。
小銭を恵んでくれと頼まれた結果、文無しになってしまったことも一度や二度ではないのだ。今日ばかりは。今日ばかりは心を鬼にするのだと、自らに言い聞かせるようにキュウキは旅路を急ぐ。
その、時だった。
傍のくさむらをかき分けて、美しい翡翠色のドレスを泥に汚した少女が目の前に飛び出してきたのは。
「助けて!」
「あ~いや、今日はちょっと」
「今日はちょっと!?」
まさかそんな断られ方をするとは思わなかったのか、大きな美しい瞳を見開いて驚く彼女。
だが次の瞬間には気丈にも首を振り、救助要請を諦めたのか、彼の脇を通って走っていく。プリンセスラインの広がったスカートのまま、大事そうに何かを抱えながら去っていく姿をキュウキは少しの間見つめていた。
しばらくしてそのキュウキの眉が僅かに反応する。同時、黒のローブに身を隠した十数人の集団が同じように茂みから現れた。
そして、こちらをちょうど振り返った少女が怯えたように肩を揺らせたのが遠目にもはっきり見えた。
「居たぞ! 殺せ!」
「玉を奪え! それで仕舞いだ!」
玉。さて、命タマのことか?
思案するキュウキには目もくれず、ローブの一団は少女を追う。
必死に先を走る彼女がスカートの裾を踏んづけて地面に倒れこんだところで、キュウキは舌打ちした。
「あーあ、まったく」
結局、彼女を助けるために動いている己の足に。
「俺のバカ!」
その足が地面を蹴った瞬間、キュウキの姿は掻き消えた。
地面には足の形に凹んだ跡だけが残り、風と共に彼らの目の前に飛び出す。
「っと、そこのローブの皆さま方。不幸な彼女を見逃してやるわけにはいかんのかい」
「誰だ貴様は! ……さっきまで、我らの背後にいたはずではっ!!」
その時既にキュウキの身体は、少女を己の背で庇える位置に移っていた。警戒するようにローブの集団が杖や剣といった得物を取り出す。それぞれを軽く一瞥しながら、キュウキはぼやく。
「易道術の言うにはな。俺ぁ今日、誰かを助けたら不幸になるらしくってよ。極力人助けはしたくない。一番いいのはここでお前さんらが引いてくれることなんだが……どうだいそこのお兄さん」
「貴様もろとも死んで貰う。その軟弱姫にこれ以上生きていられると、あの御方が迷惑するのでな」
「ああそうかよ……勘弁してくれ」
軟弱姫。確かこの国の第三王女がそんな蔑称で呼ばれていると、噂があったか。
脳内で言葉をかみ砕きながら、キュウキはすらりと長剣を抜いた。
殺せ、とのリーダーらしき者の合図。
ローブの一団が身構えるよりも先に、キュウキの唇が僅かに動く。
「働け、影舞刃」
その少し後。
長剣を納める静かな金属音とともにキュウキが後ろを振り返ると、軟弱姫と呼ばれていた少女が金の髪を不機嫌そうに払いながら彼を見つめていた。踊るように波打つその髪が、彼女の怒りをぼんやりと感じさせていてキュウキの頬が少しひくつく。
「……わたしの命、占いに負けそうだったのかしら?」
「い、生きていて良かったじゃねえか」
「ええそうね! 助けてくれてどうもありがとう!」
ふん、とそっぽを向いた彼女。舞い降りる沈黙。どう対応したものかと思考を巡らせるキュウキだったが、意外にも次の言葉を放のは彼女の方だった。
「強いのね。たった一合すら交えることなく――この人数を無力化するなんて」
「度重なる不幸の賜物ってとこかねえ。我が事ながら嫌になるぜ。……まあでもこの程度で済んで本当に良かった。早く首都に行って美味いもんでも食いたいなぁ」
言葉の尻に込められた、早くこの場から立ち去りたい意志をくみ取ってくれたのか違うのか。
「そう」と返事なのか独り言なのか分からない一言を落として、少女は足元を見やる。
あちこちに転がった武器と、魔法の痕跡らしき穴や焦げ跡。そして、積み重なったローブ達の身体。
「殺したの?」
「まさか。単なる気絶、寝てるだけだ。戦争じゃあるまいし」
「……戦争になるのよ」
「おっと予想外の返し。――どういうことだ?」
訝しげに眉をひそめて問いかければ、彼女はその小さな手で口元を抑える。
ついでキュウキを上から下まで眺めるその瞳に、すぐに答えをくれるような優しさはなさそうだった。
「わたしとしたことが失言ね。……貴方、旅人?」
「ああ。ちょいと首都に待ち合わせ相手が居てな。今日の夜には着きたい……っと。そういや名乗ってすら居なかったか。俺はキュウキ。公国の出身で、諸国をふらふらしてる風来坊だ」
「キュウキ? ……ふぅん、なるほどね。わたしはアリエス・ゾフ・ウェスタリア・フォルトーナ。第三王女……軟弱姫のアリエスはわたしのことよ」
「噂じゃ確か頭ばっかり良くて身体の方が、その」
「わざわざ本人の前で言わなくていいでしょう!?」
「あいや、すまん」
ペースを崩された少女――アリエスは咳払いしてキュウキを睨む。
「でもさっきの剣技。噂の七曜騎士、公国最強とも名高い剣士だけあるわね。騎士のわりに少し礼儀が落第点なのはいただけないけれど――待って。そうだわ。わたしったら良いこと考えたっ」
「……おいおい、俺はただの旅人さんなんだが?」
「今更隠さなくてもいいわ。七曜の"影"を司る騎士キュウキが出奔中なのはわたしの耳にも入っているのだから。その代わりにさっきの質問に答えてあげる。北の霊国が密やかにこの国に仕掛けてきていてね。あいつらの狙いは――この玉。龍景玉」
そっと懐から取り出したその玉は、まさしく珠玉だった。
キュウキも一瞬見惚れた虹色の輝きを放つこの宝物は、いかなる原理からか中心を光源として確かに光を放っている。エネルギーも無しに、どこから……?
それを考えるよりも先に、アリエスは続けた。
「この玉には色々な使用法がある。それを知るのは国でも限られた人だけ。そしてね、その一つが――」
「うお!?」
小さく魔力の反応を感じた刹那、キュウキの身体が縛られたように動かなくなる。
玉を差し出す彼女の手から放たれた魔力の属性は不明。くらりと視界が歪んだ。
「人と、人の意識を入れ替える力。ねえ、公国最強の剣士さん。美味しいものは幾らでも出してあげるから――しばらく軟弱姫になってくれないかしら」
「お……前……!」
「もちろんわたしは貴方になって、影から貴方を支えるわ。愚物の王族と、他国の侵略からこの国を守るために……軟弱姫は強くならなければならないの。あとで謝礼なら弾むから、お願い」
「こ……とわ……る……!」
「まあそう言わずに。わたしが軟弱なんて言われてることから分かるように、この国は強い人は歓迎するわ。それが王女なんて言ったらもう、人気者間違いなしよ?」
「嬉しく、ねえ……!」
必死の抵抗もむなしく、吸い上げられるように意識は遠のく。
リフレインする友人の言葉。
『お前は自ら不幸に飛び込む性格だな』
――魂が、不幸へと飛び込んだ。
その少し後。ゆらりと身体を起こした第三王女は、目の前に倒れた男を視界に入れて。
空を仰いで呟いた。
「この不幸は流石に予想外だよクソったれ」
――これは、のちに大陸七剣の一角"影の剣姫"と謳われた王女の物語。