9話 ない、ない、ない。
帰り道。夕陽でオレンジ色に染められた草道を1人で歩く。
冬の名残が残る冷たい空気と暖かい光が混ざり、奇妙な温度になった帰り道は、なんだかとても寂しかった。
最近できたスーパーに行こう。帰ったら夕食を作って、洗濯物をたたもう。お風呂を沸かして、布団をひこう。
やるべき事を思い返すだけで、ここまで気が滅入るのはなぜだろう。小説の事を考えるといつもこうなる。
書く事自体は好きだけど、時々焦りで怖くなる。意味もなく時計を見て、ため息をつくんだ。
時間が無い。才能が無い。美しくない。面白くない。哲学、知識、思考……。
――だめだ、考えちゃだめだ……。
そうだ、矢原君がいるんだ、二人分買わないと。献立は何にしよう、服はどうしよう。
思考を脳裏に押し込んで、僕は帰り道を黙って進んだ。
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「ただいまー」
買い物と用事を終えて家に戻ると、そこには大量の小銭をちゃぶ台の上に広げている矢原君が居た。
「100円、100円……」
僕が帰った事にも気付かず、矢原君は出処不明の小銭を一心不乱に数えている。よく見れば、大量の小銭の中には千円札などの紙幣も混ざっていた。
「500、500……って、うわ!」
矢原君は驚いて声を上げた。
ようやく彼は、僕が帰ってきた事に気付いたみたいだ。
「ただいま戻りました、矢原君」
「お、おう、おかえり」
矢原君はキョトンとした顔で僕をみあげる。
「何をしてるんですか? というか、その小銭は?」
僕は矢原君に質問を投げかける。すると矢原君は、何かまずいことをしたのか、しどろもどろになりながら言い淀んだ。
「あの……、えっとぉ……」
「……窃盗」
「違う! 違うから! そういうのじゃない! ホントに!」
「じゃあ何を……」
矢原君は観念したように息を吐くと、バツの悪そうな顔をしてぽつりと言った。
「路上ライブ……。許可とってないし、とり方もわかんなくてさ……」
「路上ライブって、道でやるアレですか?」
「そう、それ」
――凄くない?
僕は少し気になって、ちゃぶ台に積み重なっている小銭を数える。
1円がえっと、いちにぃ、さん……
「1万と4782円くらいですか」
「はぁ!? なんでわかんの!?」
「いや、あの……」
「絶対適当だ! 俺が数えてやる……」
「えっと……そろばん要りますか?」
「使えん!」
矢原君は躍起になって小銭数えを再開した。
――けど、本当に凄いなぁ。路上ライブで一万円以上稼げるなんて……。
心の底から、なんだかもやっとしたモノが浮かんで、消えた。
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「クッソ! いくら数えても合ってやがる……!」
矢原君は計算を終えると、小銭を1箇所にまとめて、ちゃぶ台に突っ伏した。
「合っててよかったです。夜ご飯、そろそろ作り終えますよ」
「なんかムカつく!」
「なんでですか!?」
矢原君はなんだか納得いっていない様子だが、僕がなにか言っても神経を逆なでするだけだと分かったので、これ以上小銭については何も言わない事にした。
――けど、どうして急に路上ライブなんかを始めたんだろ。
なんだか無性に気になって、僕は作り終えたおかずを皿に盛り付けながら、矢原君に聞いた。
「なんで矢原君は急に路上ライブを? なにか思い出したりしましたか?」
「ん? いや全然」
矢原君はちゃぶ台に突っ伏したまま、ため息混じりに言った。
「ギターの弾き方は思い出したからよ、弾いたらなんか思い出せっかなぁ? って弾いてみたんだけど……」
「思い出せませんか?」
「家族、友達、学校、出身地。それは全然思い出せねぇ」
矢原君はそういった後、「ただ」とつけ足し、つづけた。
「誰かと何か約束したって事は思い出した。内容は忘れちまったけど、多分、ギターに関係する事」
「バンドメンバーとか?」
「いや、違う。多分だけど……彼女?」
僕は味噌汁をすくおうと手にしたおたまを落としかけた。
「は、早いですね。中2とかの時ですか?」
「いや、女ってだけで姉貴かも知んねぇし、母親かもしんねぇけど」
――早とちりは良くないぞ、変に急ぐな、和兎。
僕はそういいきかせる。ちょうどその時、炊飯器が「ピーッ」と、米が炊けたことを報告した。
「……食べながら、というか、食べ終わってからにしましょうか」
「……そうしようぜ」
僕らはいそいそと食事の準備を始めた。