7話 とある日常の小さな朝
【和兎の日記】
結局、矢原君が思い出したのは、自分の身の振り方、約束があるという事、ギターをやっていた過去の3つだった。
親や地元。バンドの話や、ここに来た理由なんかは今でもわからない。
彼にそれらしく質問してみても、
「いやぁ……? 覚えてないし……」
と、微妙な反応をされるだけだった。
正直僕は、大事になる前に矢原君に記憶を取り戻してもらい、帰ってもらった方がいいと思っている。
別に居候が嫌という訳ではなく、彼は今行方不明の身。大事になり、地元の人達に迷惑をかけてしまったら申し訳ないし、彼の親御は今でも心配しているはずだ。
いま僕にできることは、矢原君に衣食住を提供し、記憶の復活の手伝いをする事。
祖父が死んでから少し寂しい居間が、矢原君が来たことにより、少しだけ賑やかになった気がする。
そういえば結局、矢原君は「約束」について何も話してくれなかった。「ことは」についても同じ。
きっと、約束と「ことは」は矢原君の記憶を取り戻すには大切な鍵になると思う。
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小鳥が鳴く声で目が覚めた。
薄い色の朝日が射し込んでいる居間の中で、横になっている小さな背中がひとつ見えた。矢原君だ。
小さな寝息をたてて、静かに眠っている彼の背中を見ていると、なんだかやり切れない気持ちが浮かんだ。
僕とほぼ同い年の彼が、大切な人も家族も、慣れ親しんだ土地も忘れてここに居る。
彼は今どんな気持ちなのだろう。明るく振舞ってはいるが、本当はどうなのだろう。他人の気持ちは分からない。……分からないことを考えても、意味は無い。
――変なこと考えた。やめよ。
僕は小さく頭を振って、朝ご飯を作る為、ゆっくりと体を起こした。
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矢原君が目を覚ましたのは、僕が朝食をちょうど作り終えた頃だった。
「んぁ……おはよ」
「おはようございます」
短い挨拶を交わし、矢原君は顔を洗うために洗面所へと姿を消した。
「カゴに入れておいてください。後で洗濯機を回すので」
「うぃー」
矢原君にそう伝えて、僕はフライパンの上に卵を落とした。
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「僕が学校に行っている間、矢原君はどうするんですか?」
目玉焼きをつつきながら、僕はふと、矢原君に聞いた。
矢原君は少しだけ考えて答えた。
「うーん……。今日はまだ家に居ようかな。まだ本調子じゃねぇし」
「分かりました。今日中に合鍵を作っておきますね」
「頼むわ」
会話が途切れる。
カチ、カチ、と茶碗に箸が当たる音だけが聞こえる、
「というか和兎は学校行ってるんだ」
「……まぁ 」
「一人暮らしだし、働いてんの?」
「そうなります」
「へぇ……」
矢原君はそう零して、
「は? 働いてるって?」
もう一度聞き直した。
「まぁ、はい」
「あいや、どこで」
「……ここで」
僕、熊谷和兎は、古本屋の店主である。祖父から継いだ形にはなるが、本格的に営業はしておらず、学費は殆ど祖父の遺産だよりだったりする。
「一人暮らしできんの?」
「まぁ、大変ですけど」
「すげぇな……」
矢原君は素直に感心した様な声を漏らした。