2話 ことは
「はぁぁぁぁ……」
ひとつ、大きなため息をついた。
湯船に浸かった途端、緊張の糸がバッサリ切れた。疲れが一気に押し寄せる。
――何だかんだ言って、結局僕自身が体を急に温めてるな……。
医者の不養生。自分の事だけ詰めが甘い。
高校入学2日目から、大雨に打たれて風邪引きましたは流石に笑えない。
指先や足先が、急に温められたことによってジンジンと痺れてくる。肩まで湯船に浸かると、何とも言えない幸福感が全身を包んだ。
成り行きで家に上げちゃったけど、本当に大丈夫かなぁ……。
悪い人とかだったら色々と困るし。そもそも、彼はどうしてこんな山奥の何も無い田舎町に来たんだ?
それに、彼の傷……。何かに追われて? いや流石にそんな小説みたいな展開がある訳ないか。本当にあったら本当に困る。
まぁ、おいおい分かるかな。他人の事を不躾に聞くのはダメだけど、一応聞く権利くらいは……ないか。
僕は大量に漏れだしてくる考察を押し殺して、お風呂から出た。
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風呂掃除やらを終わらせて、僕はウトウトしながら資料を書き始めた。
入学式が終わったあと、色々と資料が配られた。なになにに同意するとか、なになにを希望するとか、そんな感じの資料に一通り目を通して、名前を書いて判を押す。
彼は僕の布団の上でぐーぐー寝ている。うわ言のように何かを呟いていたが、声が濁っていてよく聞こえなかった。
――それにしても、これから1人でどうにかしないといけない訳か。
保護者名。そう書かれた資料を見る度、フワフワとしていた予感が、実感へと変わっていくのを感じてしまう。
話すと長くなってしまうが、簡単に言えば、二人きりで過ごしていた祖父が2ヶ月前に他界してしまったのだ。
僕は、祖父が営んでいたこの古本屋と少しの遺産を引き受けた形になる。
――高校生にもなったし、古本屋は引き継ごうかな……。
そんな事をぼんやり考えていると、布団の方から、「う~ん……」といううめき声が聞こえた。
――目覚めた!?
僕はちゃぶ台に広がっているプリントを放置して、彼の元へ駆け寄った。
「…………」
彼は何かから逃げたいのか、体をもぞもぞと動かしては、「う~」と唸っていた。
傍から見ればコミカルな光景かもしれないが、その表情はあまりにも必死で、僕は彼の傍を離れる事が出来なかった。
「……大丈夫。大丈夫ですから」
思わずそんな事を言ってしまう。
彼が目を覚ましたのは、それから少しした後だった。
うっすらと、本当にうっすらと彼は目を開けた。ような気がした。
「……!!」
息を飲んで彼の顔を覗き込む。
彼の目は、微かにだかしっかりと開いていた。久々に目を開けたのか、彼はなんだか鬱陶しそうに顔をゆがめた。
僕はそっと手のひらで彼の目に影を作る。
「……こ、とは?」
その行動が目に付いたのか、彼はふと、そんな事を呟いた。
「……? ことは?」
僕がそう、彼に聞き返したのを皮切りに、彼はハッと目を覚まし、思い切り上体を起こし、僕の顔をマジマジと見つめた。
若干瞳孔が大きく、色が濃いその瞳が、僕の目を真っ直ぐと見つめる。
その瞳は僕のどこか、心の底を覗いているように感じた。
しかし、彼の口から飛び出してきたのは、お礼や謝罪などではなく、1人の女性の名前だった。
「こ、ことは!?」
「えっ?」
彼は突然、僕の肩に飛びついてきた。
あまりに突然の事で、僕は尻もちをついて彼の下になってしまう。
「えっ、えっと……?」
「ことは! ことはなのか!?」
意味が分からなかった。
僕は彼の行動も、『ことは』という名前、その名前を何度も呼ぶ理由がわからず、
「えっ? えっ?」と戸惑う事しか出来なかった。
「こ、ことは?」
そんな僕の様子が少し気になったのか、彼は困ったように表情を曇らせた。
「えっ、えっと……? ことは?」
僕がそう聞き返した途端、彼は僕から手を離し、痛々しいほどに悲しげな表情を見せて呟いた。
「どうして……。どうしたそんな困った顔すんだよ、ことは……」
僕も僕とで、この状況をマトモに整理出来る状態じゃなかった。
だから僕は、ただ、素朴な疑問を彼にぶつけるしか無かった。
「えっと……ことはって、誰ですか?」
彼はハッと、顔を上げた。
そして、困ったような表情を浮かべて言った。
「お、おかしな冗談はよしてくれよ。ことははお前だろ? な、何言って……」
彼はもう一度、僕に近づこうとゆっくりと足を動かした。
――近付いたら、ヤバイ。
とても失礼な事だけど、僕はそう判断してしまった。僕はゆっくりと1歩、後ろへ下がる。
「……ことは?」
彼は目ざとく、僕のその行動に気づいた。
「ことは? な、何を、何を……」
彼がその時浮かべた表情は、あまりにも恐ろしかった。
何かに縋るような、何かから逃げるような、そこで何か、大切なモノを落としたような。
とにかく、彼の目には正気と呼べるものを感じ取れなかったのだ。
僕は思わず、声を荒らげて否定した。
「ぼ、僕はことはじゃない! 貴方のことなんて知りません!」
僕の言葉は、深く、深く彼の心に突き刺さった。
「う、うそだ……」
最後の抵抗のように、彼は弱々しく僕の言葉を否定した。
「嘘じゃない! 僕の名前は熊谷和兎だ!」
僕はその言葉を、強く、強く否定した。
その途端、糸が切れた人形の様に、彼は意識を失って倒れた。
「え?」
僕は素っ頓狂な声を上げた。




