その後輩は彼にナイフを突き立てた
玄関の鍵はかかったままだった。
明かりもついていない。
二葉はまだ帰っていないみたいだ。
もう夜の九時なのに。
心配しすぎだろうか
一樹は家の階段を上がりながら、考えた。
楽しかったかと聞かれれば、楽しかったと答えると思う。
知香と一緒に出かけるのは、楽しかった。
ああいう演奏会に行くことは、以前は多かった。
けれど、最近ではほとんどなかったし、意図的にそれを避けていた。
久しぶりに聞きに行って、もう、トラウマをそれほど刺激されないこともわかった。
知香が一緒にいたからかもしれないけれど。
一樹は自分の部屋に入って、明かりをつけた。
「猫を殺すことは、どんな意味があると思います?」
見知らぬ少女が部屋に立っていた。
一樹は少し考えた。
「意味?」
「前近代の西洋では、黒猫は悪魔の象徴として殺されていました。あるいは、南泉斬猫。高名な禅僧が猫を殺したエピソードです」
「勉強になったよ。ところで、最近の女子高生のあいだでは、不法侵入が流行っているの?」
「私、中学生です」
「ああ、そう」
「ちなみに、不法侵入は、流行の最先端ですよ」
「まさか」
「白川先輩も、同じことをしたでしょう?」
知香の知り合いか?
けれど、もう合鍵を郵便受けのなかに入れる、なんてことはしていない。
知香が使った方法では、侵入できないはずだ。
だとすれば、少女はどうやってこの家に入りこんだのか?
一樹は考えるのを中断し、少女に目を向けた。
「質の悪い流行だ。二度も同じことがあったら、たまったものじゃない」
「そうですか?」
「自分の家の自分の部屋に、見知らぬ他人がいる。それを喜ぶ人間がいると思う?」
「でも、私みたいな美少女だったら、嬉しくありませんか?」
「自分で言う?」
「でも、事実でしょう?」
たしかに、その少女は、文句のつけようのない、美少女だった。
一樹の部屋に立っている、セーラ服の少女。
制服を見るかぎり、同じ学校の生徒のようだ。
流れるような銀色の髪に、透き通るような白い肌も、日本人離れしている。
ハーフだろうか。
聡明そうな碧色の瞳は、不思議な明るさで輝いている。
誰がどう見ても、彼女は特別に見えるだろう。
一樹は少し考えた。
「まあ、嬉しいかもしれないね」
「へえ、正直ですね」
にやりと少女は笑った。
それから、彼女はすっと一樹に近づいた。
「こんなことをされても?」
一樹の首筋に、銀色に鈍く光る物が突きつけられた。
ナイフだ。
少女は愉しそうに一樹の瞳を覗き込んだ。
「どうですか、感想は?」
「びっくりしたよ」
「あなたが、白川先輩にしたことと、同じです」
「君は、『正義の味方さん』かな」
「はい。そのとおりです」
非通知の電話の相手。
正体不明だった相手だ。
そして、知香の秘密を知っている。
「あなたは藤村一樹先輩ですね」
「違う、とは言えないな」
「私は黒崎愛歌と言います。覚えておいてくださいね」
凛とした澄んだ声で、愛歌は言った。
「忘れろと言われても、忘れられないだろうね」
不法侵入者の女子中学生。
おまけにナイフを突きつけられている。
あまりにも普通の状況じゃない。
「怖くはありませんか?」
「べつに。単なる脅しだよね?」
「本当に、私が先輩を殺そうとしたら?」
「殺されるような恨みを買った覚えはないよ」
「白川先輩に殺された猫たちも、殺される理由はありませんでしたよ?」
「それはたしかにね」
「先輩はこの状況を楽しんでいるでしょう?」
「それは君が美少女だからだ」
「へえ、褒めてくれるんですか?」
「黒崎さん自身の表現を使っただけだよ」
「でも、先輩が楽しんでいるのは、そこではないと思いますね。部屋の中にいる不審者に殺されかけている、この状況そのものを楽しんでいる。違いますか?」
「どうしてそう思う?」
「そういうふうに、見えますよ」
「そうかな」
「そういう性格だから、先輩はあの日、猫殺しの犯人を探しにいった」
たしかに、否定はできない。
知香が猫を殺しているのを見つけられたのも、それが理由だった。
あんな人通りの少ない路地裏にいたのは、猫殺しの犯人を探していたからだ。
本当に見つけられるとは思っていなかったし、相手が同級生だとも思っていなかったけれど。
「電話でも言いましたけれど、先輩は変わり者です。むしろ、『異常者』かもしれません」
「ずいぶん、俺のことをよく知っているんだね」
これは、皮肉のつもりだった。
けれど、黒崎愛歌は碧色の瞳を光らせ、にやりと笑った
「はい。私は何でも知っていますよ。事前に十分に調査しましたから」
「例えば、何を知ってる?」
「そうですね。藤村先輩が、とてもピアノの上手い小学生だったこととか」
「それで?」
「でも、今はピアノを弾かない。そうでしょう?」
一樹は深呼吸をした。
「そうだ」
「音大に行って、プロのピアニストにだってなれていたかもしれな」
「そういう勘違いをしたこともあったね。だけど、今は何の取り柄もない高校生だ」
「だから、その喪失感を埋めるために、白川先輩を利用したんですよね?」
「利用?」
「はい」
愛歌はナイフを握った手をおろした。
そして、ポケットのなかに刃物をしまう。
「もし、白川先輩が残酷なことをしない、優しい性格の女子高生だったら、どうします?」
「そうだったら、いいなとは思っている」
「嘘ですね。藤村先輩は、白川先輩が『おかしい』から惹かれているんです」
「どうしてそう思う?」
「だって、先輩は特別でいたいんでしょう? 他人とは違った存在でいたい。それ自体、悪いことだとは思いません」
「だけど、動物を殺す女子高生は、ただの犯罪者だし、それをかばう男子高校生もただの変質者だ。特別なんかじゃない。黒崎さんは、そう言いたいんだね?」
「ご明察のとおりです」
「黒崎さんは、変わった口調で話すね」
「それは先輩も同じだと思います」
「たしかにね」
「ところで、藤村先輩は白川先輩の弱みを握りました。それを使って、白川先輩に交際を強要している。客観的にはそう見えるかもしれませんよ?」
「そんなつもりはないけれど」
ただ、一樹自身、気がかりではあった。
知香は、一樹に好意的に見える。
けれど、もし、猫殺しの一件がなかったら、どうだろう?
知香は、弱味をバラされないために、嫌々、一樹と関わっている。
そういう可能性も、否定できない。
「でも、その心配はないかもしれません」
「どうして?」
「だって、先輩は、脅す側ではなくて、脅される側ですから」
そう言った愛歌は、スマートフォンの画面を指差した。
そこには、写真が表示されていた。
知香が猫を殺している、証拠写真だ。
「俺のパソコンからデータを抜いたのか」
「はい」
「パスワードは?」
「ツールで破れます。簡単でしたよ」
「犯罪だ」
「お互い様ですよ。写真はパソコンから消去しておきました。バックアップは……その顔色からすると、ないみたいですね」
図星だった。
まるで、心を見透かされているみたいだ。
厄介な相手だ。
不法侵入の目的は、写真にあったのだとは思う。
そこは知香と同じだ。
ただ、愛歌はずっと手際が良い。
たぶん、不法侵入そのものも、問題とならないように手を打っている
「これで藤村先輩と白川先輩は、私の言いなりです」
「知香はともかく、俺も?」
「はい」
愛歌の青い瞳が、淡く輝く。
じっと見つめられて、一樹はしばらく考えた。
やがて、一樹はうなずいた。
「そうかもしれないな」
「猫だって三日も飼えば、情が移ります。それが人間なら、なおさらです。白川先輩を見捨てられないでしょう?」
「そのとおりだ。知香にどんな事情があるかは知らないよ。だけど、俺は知香の味方をする。だから、黒崎さんにその写真を表に出してもらっては困る」
「心配しなくても、私はこのことを秘密にしますよ。少なくとも、しばらくは」
「なら、黒崎さんは何がしたい? 俺か知香を脅迫する?」
「いいえ。私が目指すのは、たったひとつ。問題の最終的な解決です」
「最終的な解決? どういう意味?」
「文字通りの意味ですよ。先輩は、これからどうするつもりですか?」
一樹は答えをためらった。
次の瞬間、愛歌がナイフを横に振った。