意外な侵入者
住宅街のなかの小さな一軒家。
その家の二階に、一樹の部屋がある。
寄り道をしなければ、すぐに自宅に着く。
当たり前だ。
けれど、そんな当たり前のことが面倒事を引き起こした。
「ここは俺の家だよね?」
「……うん」
「やあ、奇遇だね。とでも言えばいいのかな?」
「ごめんなさい」
「どうして、白川さんが俺の部屋にいるの?」
知香は何も答えなかった。
うつむいて、床をじっと見つめている。
六畳間の入り口に、一樹は立った。
知香を逃がさないためだ。
「狙いは、パソコンかな。中に入っている写真のデータを消去しようとした」
それは間違いない。
けれど、どうやって侵入したのか?
「合鍵か。郵便受けのなかにあるのを使った?」
「……不用心、だと思う」
「不法侵入の現行犯が、防犯の注意喚起をするの?」
「ごめんなさい」
「鍵を返してくれる?」
知香は右手に握っていた鍵を差し出した。
その右手を、一樹はつかんだ。
知香が、怯えたように後ずさる。
「白川さんは、この家に俺しかいないことを知っていた。宇佐美さんとの会話を聞いて、それを知った。俺は用事でしばらく家には帰らないはずだった。だから、そのあいだにこの家に忍び込もうとした。合ってる?」
「うん」
一樹はため息をついた。
「やっぱり、警察に連絡するべきかな」
「お願い! なんでもするから……それだけは、やめてください」
「白川さんは大胆だけれど、バカだ。何もしなければ、それで済んだのに」
「ごめんなさい」
「謝って済むと思う?」
「ううん」
「わかっているだろうけれど、住居侵入は立派な犯罪だ。それに猫を殺したことも、ついでに警察に話す」
「やめて」
「それはできない」
一樹が携帯電話を取り出した。
知香はそれを奪おうと、左手を伸ばした。
とっさにそれを避けようとして、一樹はバランスを崩した。
「っと……」
繰り返すが、ここは一樹の部屋だ。
だから、壁際にはベッドもある。
「あー……白川さん、大丈夫?」
「へ、平気」
知香は瞳をうるませ、頬を赤らめていた。
事故とはいえ、知香をベッドの上に押し倒すような形になってしまった。
第三者が見たら、きっと誤解する。
でも、その第三者は決して現れない。
誰も来ないからだ。
一樹が何をしたとしても、リスクはない。
「白川さん」
「な、なに?」
「さっき、何でもするって言ったよね?」
「う、うん」
「本当に、何でもする? 何をされても、かまわない?」
知香は短く息を呑んだ。
スカートの裾がめくれ、綺麗な白い脚が見えている。
知香は目をそらし、顔を真赤にしながら、それでもうなずいた。
一樹はじっと知香を見つめた。
どうするべきか。
もちろん、何もしない。
相手の弱みを握って、相手を傷つける。
そんなことをするほど自分は卑劣な人間ではない。
そのはずだ。
本当は卑怯で下劣な人間だとしても、少なくとも、ずっと温和でまともな人間として振る舞ってきた。
いまさら、そのポリシーを曲げるわけにはいかない。
それ以前に、知香を傷つける勇気なんて一樹にはなかった。
けれど、一樹は知香のセーラ服の上着に手をかけた。
そして、学生服のポケットの中から、ある物を取り出した。
カッターナイフだ。
それを知香に突きつける。
知香の瞳が恐怖で見開かれた。
「な、何をするの……?」
「白川さんに怪我をさせる」
「なっ……」
「ひょっとしたら、消えない傷が残るかもしれないけれど」
「わたしが……猫をたくさん殺したから?」
「自業自得だ」
知香は目をつぶった。
「本当にいいの?」
一樹の問いかけに、ふたたび、知香はうなずいた。
「うん。……秘密にしておいてくれるなら」
「怖くはない?」
「怖いよ。すごく、怖い」
しばらくのあいだ、二人は黙っていた。
やがて、一樹はため息をついた。
それから、知香から離れた。
「俺は、何もするつもりはないよ」
「え?」
「ただの脅しだよ。ごめん」
「本当に?」
「うん」
「ほんとのほんと?」
「本当だよ。それに、警察に連絡なんてしない」
少しぐらい、怖い目に合わせないと、知香はまた家に忍び込むような無茶をするかもしれない。
だから、カッターをちらつかせて脅した。
それだけだ。
「……よかった」
知香は、ベッドに横たわったまま、つぶやいた。
そして、静かに泣き始めた。
小さな子どもみたいな、そんな泣き方だった。
大きな瞳から、ぼろぼろと涙が流れてくる。
「そんなに泣くくらいなら、最初から何もしなければいいのに」
「っ……。でも……」
「自分が傷つくのが嫌なら、他人を傷つけちゃいけない。相手が犬や猫でも、同じだ」
「撃っていいのは、撃たれる覚悟のあるやつだけ」
知香がかすれた声でつぶやいた。
「ことわざ?」
「ううん。レイモンド・チャンドラー」
「アメリカの小説家だっけ?」
「知ってるの?」
「読んだことはないけど」
「そう、なんだ」
「持ってるなら、今度、貸してよ」
いつのまにか、知香は泣き止んでいた。
知香はベッドに腰掛けて、不思議そうに一樹を見上げた。
「藤村くんって、変わってるよね」
「そうかな」
「うん」
「どのあたりが?」
「だって、わたしだったら、猫を殺しちゃうような……危ない人から本を借りようなんて、普通は思わないよ」
「それ、自分で言うの?」
「おかしいよね」
知香はうなずいた。
「どうして、藤村くんは、わたしをかばってくれるの?」
「かばったつもりなんてない」
「でも、警察にも学校にも、秘密にしてくれているよ?」
「まあ、それはそうだけど」
「わたしのこと、不気味じゃないの? 気持ち悪いと、思わない?」
「それは理由によると思う」
「理由?」
「理由がわからなかったら、判断できないよ。どんなことでも。白川さんは変質者には見
えないし、猫を殺して楽しんでもいない」
「なら、どうしてだと思う?」
「ひょっとして、誰かに強要されているんじゃない?」
いじめや脅迫の結果として、知香に猫を殺させている。
そういう人物がいるのかもしれない。
一樹はその可能性がもっとも高いと考えていた。
けれど、知香は首を横に振った。
「わたしが猫を殺したのは……わたしが自分で決めたことだから」
「本当に?」
「うん。わたしは……絶対にあの生き物を殺さないといけないの。それが必要になる理由
があるの。……信じてくれないかもしれないけど」
「信じるよ。だからさ、教えてくれないかな。理由を教えてくれれば、白川さんの力になれるかもしれない」
知香は一瞬、迷ったようだった。
けれど、結局、知香はもう一度、首を振った。
「ごめんなさい」
「わかった。でも、話してもいいと思ったら、話してよ。それから、猫を殺すときに制服を着るのは、やめたほうがいい。リスクが大きいからね。もっと、周りのことを警戒しないと」
一樹の言葉を聞いて、知香がくすくすと笑った。
「えーと、何かおかしなことを言った?」
「言ってないよ。でも、やっぱり藤村くんは変わってるな、と思ったの」
「それ、褒めてないよね?」
「ううん。褒めてる。優しいんだね」
「優しくなんて、ないよ。白川さんを泣かせたし」
「わたし、泣いてなんかいない」
「さっきまで泣いていたくせに」
「そうだったっけ?」
「そうだよ」
知香は微笑んだ。
これで一件落着。
少なくとも、今日の件については、一樹が気にしなければ、それで済む。
そのはずだった。
「何をしているんですか?」
ぎょっとして、一樹は後ろを振り返った。
「一樹兄さんは、何をしているのですか?」
少女が、腰に手を当てて、部屋の入口で仁王立ちしていた。
知香と同じセーラー服。
背は高いけれど、華奢な感じ。
ロングの髪に、意思の強そうなまっすぐな瞳。
桜井二葉だった。
一樹の従妹。
一樹はおそるおそる尋ねた。
「えっと……修学旅行はどうしたの?」
「旅行は今日までです! どうして覚えていないんですか!」
「明日までだと勘違いしていた」
「そうですか、そうですか。わたしがいないからといって、部屋に女の子を連れ込んで、押し倒して、泣かしていたんですね?」
「連れ込んだわけじゃないよ」
「押し倒して泣かしたってところは、否定しないんですか?」
「それはたしかに否定できない」
「否定してください!」
「二葉が言ったんじゃないか」
「ああ、もう! 冗談です! わたしは、全部、聞いていました。この人が猫殺しの犯人なんですね」
二葉はびしっと知香を指差し、知香は凍りついた。
「それにわたしたちの家に不法侵入? 信じられない。いますぐ警察に通報します」
「まあまあ、二葉もちょっと落ち着こうよ」
「わたしが冷静じゃないって言いたいんですか!」
「俺には、冷静に見えないな」
「そうですね。冷静ではいられないです!」
「はい、深呼吸」
二葉は深く息を吸い込み、息を吐いた。
顔はまだ真っ赤だけれど、二葉は少し落ち着いたみたいだった。
「お客さんが来ているから、俺が紅茶でも淹れるよ」
「客って、この人のことですか?」
「クラスメイトの白川知香さん」
「猫を殺す変質者でしょう?」
「二葉も疲れているよね? 紅茶、飲まない?」
二葉は目を伏せ、しばらく黙った後、小声で「いただきます」と言った。