「藤村先輩」と「正義の味方」
時間はぴったり四時だった。
築三十年ほどの旧校舎は、暗くて不気味な雰囲気だ。
そのなかにある生物準備室に、一樹は来ていた。
生物準備室というと聞こえはよいけれど、つまり、物置だった。
狭いし、埃っぽい。
部屋のなかを覗くと、知香はすでに来ていて、窓の外を眺めていた。
「待たせてごめん」
知香は振り返り、つけていたイヤホンを外した。
音量が大きめだったからか、部屋のなかに小さく音楽が流れる。
ピアノの音だった。
「ゴールドベルク変奏曲。グールドの、五十五年の演奏」
一樹は思わずつぶやいた。
「藤村くん……知っているの?」
「ああ、まあね。白川さん、クラシックなんて聴くの?」
「うん。えっと、あの……藤村くんも?」
「まあ、そんなところだよ」
正確ではないけれど、嘘ではない。
知香は不思議そうに、それでいて、少しだけ嬉しそうに一樹を見た。
でも、一樹としてはあまり触れたくない話題だった。
知香は何か言いたそうにしていたけれど、それを一樹は無視した。
「ごめん。俺はこんな場所しか思いつかなくて」
「ううん……いいよ」
「さっそく、本題に入ろう」
ほかの人間に話を聞かれない場所。
話し合いには、そういう場所を選ぶ必要がある。
だからといって、知香は無警戒すぎる。
こんなところで二人きりになるのは、リスクがあると思わないのだろうか。
相手に秘密を握られているというのに。
一樹が心配することではないのだろうけれど。
「藤村くん、椅子が一つしかないよ?」
「ああ、そのパイプ椅子なら使っていいよ」
「でも……」
「俺は立っているほうが楽だから」
知香は遠慮がちに、椅子に座った。まるで小さな人形みたいだ。
「さて、手短にお願いするよ。このあと、大木と会う約束があるからね」
「ええと、あの……藤村くん。お願いがあるの」
「昨日のことなら秘密にしておくよ」
「ありがとう。でも、それとは違うの」
「まあ、たいていのお願いなら聞けると思うけど」
「写真を……消してくれない?」
写真?
昨日、知香が猫を殺しているところをとった写真のことか。
一樹は苦笑いした。
「それはできないよ。そういう約束のはずだ」
「でも……」
「白川さんは理由も言わない。今後も動物虐待を続ける。なのに、写真は消してほしい。そんな要求は通らないよ」
「どうしたら、消してくれる?」
「どんな交換条件を出されても、消しはしない」
「そんな……」
「逆に聞くけど、どうしてそんなに写真を消してほしいの? 俺が信用できない?」
「だって、わたしは、藤村くんのこと、何も知らないもの」
「まあ、それもそうか」
「わたしのこと、怖くないの?」
「白川さんのことが、怖い?」
一樹は思わずくすりと笑った。
「なんで、笑うの?」
「白川さんがおかしなことを言うからさ」
「わたしのこと、バカにしているの?」
「おお、白川さんも怒るんだ」
「わたしは、ちっちゃくて、女子で……うまくしゃべれない。だから、藤村くんは、わたしのことを弱いと思ってる。……違う?」
「違う。自分より弱い動物を殺して喜んでいる奴なんて、まったく怖くないだけだ」
「喜んでなんかいない!」
知香ははじめて大きな声を出した。
よく通る声だし、それに綺麗な声だった。
でも、廊下に聞こえてしまわないだろうか。
「なるほど。愉快犯ではないわけか」
知香は、しまった、という顔をした。
「ともかく、俺のことを信用してもらうしかないね」
知香は、床に目を落として、じっとしていた。
「それに、俺は警察や学校にいつでも言える。そのことを忘れないでほしい」
「わたしを脅して、面白い?」
「仮にそうだとしても、悪いとは思わない。白川さんは猫を殺して遊ぶ。俺は白川さんを脅して遊ぶ。どう違う?」
「そう……だよね。わたしの方が、ずっと悪い人だよね」
「写真は、俺の家にある。パソコンのなかだけだ。流出する心配はないよ」
「うん」
「ほかに何かある?」
知香は首を横に振った。
これで話はおしまい。
そういうことだった。
☆
放課後に友人の大木と会うという約束は、急になくなった。
大木の方から言い出した約束だったのだけれど。
急用だそうなので仕方がない。
おかげで、一樹は学校を出ると、家に直行することになった。
地下鉄の駅まで、アスファルトの上を一人で歩く。
退屈だ。
黒猫が、目の前を横切った。
じっとそれを眺めていると、猫もこちらを見返した。
黒猫の瞳は妖しく光っていた。
一樹は、猫が好きだ。
猫を殺すなんて、そんなことは絶対にしない。
例えば、あの小さな首に、ナイフを当てれば、すぐに死んでしまうだろうけれど。
そんなことはしない。
そのはずだ。
猫は怯えた様子で去っていった。
一樹はため息をついた。
ポケットが急に震え出す。
電話がかかってきたのか。
番号は、非通知。
携帯電話を持ったまま、一樹はしばらく迷ったが、結局、通話ボタンを押した。
「藤村です」
「『特別な存在』と『変わった存在』との違いは?」
「え?」
「答えてください」
いたずら電話か?
きれいだけれど、かなり高めの声だ。
たぶん、相手は年下の女の子だ。
でも、従妹の二葉ではない。
知らない相手だ。
「答えようにも、どういう意味かがわからない」
「へえ、こんな電話を相手にするとは、やはり藤村先輩は、変わり者ですね」
「切った方がいい?」
「切ってもらっては、困りますね」
「君は誰だ?」
「『正義の味方』とでもお呼びください」
「変わった名前だね。本名?」
「本名だったら、私なら驚きますけどね」
「俺もびっくりするよ」
電話の相手がくすりと笑う気配がした。
「質問について、補足します」
「どうぞ」
「とてもピアノが上手な中学生。それと、猫を殺すのが大好きな女子高生。前者が『特別な存在』で、後者が『変わった存在』です」
「正義の味方さんは、俺のことを知っているな」
「いま、それは関係ありません。質問の答えは?」
「特別な存在には価値がある。ただの変わり者には、何の価値もない」
「そのとおりです。わかっているじゃないですか」
「何が言いたい?」
「猫殺しの女子高生は好きですか?」
「好きなわけないよ」
「それはよかったです。なら、白川先輩の件には、深入りしない方が身のためですよ」
「アドバイスありがとう」
「助言のつもりはありませんけれどね」
「正義の味方さんは、何者なのかな?」
「残念ながら、お答えできません」
「こっちは質問に答えた。君の番だ」
「すぐに、わかりますよ」
電話は切れた。
いったい、何だったのか?
わかったことは二つだけ。
一つ目。
相手は一樹のことを知っている。
二つ目。
相手は、知香が猫を殺していることも知っている。
面倒なことになってきた。
あるいは、面白いことになってきた。
退屈だとは、言っていられない。