膝枕
愛歌が玄関から出ていったのを確認した後、一樹はその場に座り込んだ。
台風が通り去ったような感じだ。
安堵と疲労のあまり、動けない。
ナイフを突きつけられたり、嫌なことをいろいろと言われたせいか、一樹は自分で思っていたより、緊張していたのだった。
一樹はしばらくして立ち上がった。
二葉をほうっておくわけにはいかない。
正気に戻った二葉と、どんな顔をして話せばいいのか。
けれど、一樹が自分の部屋に戻ると、二葉は一樹のベッドに勝手に入って、静かに寝息を立てていた。
夜も遅かったし、酒も入っていたのだから、寝てもおかしくはない。
さいわいおかしな眠り方でもないし、急性アルコール中毒とかそういうこともなさそうだった。
でも、風邪をひくかもしれない、と一樹は思った。
毛布が床に落ちていて、二葉は眠りながらも寒そうにふるえていた。
一樹は腰をかがめて毛布を拾い、二葉にかけた。
そのとき、愛歌に言った言葉を思い出した。
二葉は美少女で、魅力的な女の子だ、と。
いまこうして間近で見ると、そのとおりだった、
肩にかかったつややかな黒い髪。きめ細かく白い肌。整った顔立ち。
二葉の母、つまり一樹の義理の叔母はとても綺麗な女性だったという。
母親譲りの美貌なのだろう。それは一樹と血のつながっていない部分でもある。
ごくり、と一樹はつばを飲んだ。
二葉は一樹のことを好きだと言った。
いま目の前では、自分のことを好きな可愛い女の子が、無防備に眠っている。
しかも、それは自分が望んで手に入らなかった力を持っている少女だ。
可愛い猫を殺してしまうように、いま彼女を傷つけてしまうこともできる。
愛歌に、二葉が大切だと言ったのは嘘ではない。
でも、大切で綺麗なものだからこそ、自分の手で壊してしまいたいという衝動にもかられる。
一樹は首を横に振った。
誰がその仕草を見ているわけでもないけれど、それは必要なことだった。
ともかく、問題は愛歌と知香のことだった。
愛歌はどうやって問題を解決するつもりなのか。
誰にも危害を加えないといっていたけれど本当か。
ナイフを持って不法侵入した子の言葉を信用しても良いのだろうか。
考えなければならない。
一樹は床に座った。
いつのまにか眠ってしまっていたみたいだった。
不思議と寒くない。
毛布も布団もなしに座りっぱなしで寝たはずなのに。
目を開けると、二葉が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
なんだか頭に柔らかく暖かい感触がする。
「ひ、膝枕……?」
「はい。わたしの膝枕ですね」
二葉はこくりとうなずく。
一樹は慌てて起き上がろうとしたが、その瞬間、額に二葉の指が押し当てられた。
「まだ起き上がらないでください。わたしの話が終わるまでは」
「この姿勢でなきゃいけない理由がある?」
「わたしがそうしていたいから、じゃダメですか?」
「いや、恥ずかしいし……」
「恥ずかしいのは、わたしもです。でも、恥ずかしいってことは、わたしのこと、女の子として見ているってことですよね?」
「二葉のことを異性として意識しているつもりはないよ」
「嘘つき。兄さんは昨日、わたしのこと、その、可愛くて素敵な女の子だって言ってくれました。あれは何だったんですか?」
「あー、うん。そうだね。ごめん。そうかもしれない」
「はっきりしてください。……もう一度、昨日言ったことを言って」
「二葉は可愛いよ。綺麗だと思う」
そう言うと、二葉が顔を真っ赤にした。
もうアルコールの影響はないだろうけれど。
「兄さんがそう言ってくれて嬉しいです」
「だからこそ、この体勢はまずいんじゃないかな」
「わたしはこのほうがいいんです。兄さんだってそうでしょう?」
二葉はなんと言っても、譲るつもりはないらしい。
もう日曜日の朝10時。時間がない。
一樹は膝枕に頭を沈めたまま、切り出した。
「昨日のことだけど……」
「ごめんなさい。わたし、兄さんを裏切りました」
「写真を盗られたことなら、仕方ないよ。もともと俺と知香が悪いんだし。二葉に迷惑はかけないって言ったのに、結局、二葉を巻き込んでしまった」
「でも、アルコールなんか飲まされて、兄さんの部屋に黒崎なんかを入れて、大事な写真を盗ませたのは、わたしです」
「大丈夫。俺はそんなことで二葉を嫌いになったりしないよ」
一樹は手をのばして、二葉の頬に触れた。こくりと二葉はうなずいた。
問題はそこではなく、別にある。
「黒崎さんはあの写真をもとに、知香になにかをするつもりはないと言った。二葉の目から見て、その言葉は信じられる?」
「信じられません。見てればわかったと思いますけど、黒崎は危ない人です。勉強もすごくできますし、あのとおりの美少女ですけど、学校でも腫れ物扱いです」
「そうなんだろうね」
過剰な自信と、人を傷つけることをためらわなさそうな無鉄砲さ。
そういうタイプの女子中学生が、周りから受け入れられるかといえばそうではないだろう。
一樹はそういうタイプの人間がきらいじゃないけれど。
「それに、去年の話ですけど、一学年上の女子に怪我をさせてます。カッターナイフを振りかざして」
「へえ、つまり、その上級生って俺と同学年か」
「はい。しかも兄さんのよく知っている人です」
「え?」
「相手は白川知香先輩ですよ」
一樹はぞくっとして背筋を震わせた。一方、一樹が急に動いたので、二葉はくすぐったそうにしている。
それを見て、一樹は気分が落ち着いた。
「なるほどね。知香と黒崎さんのあいだになにがあったかわかる?」
「それがわからないんです。事件そのものも何もなかったように処理されたみたいです」
「そうでなかったら黒崎さんは退学だったかもしれないし、俺だって事件ぐらいは知ってるはずか」
「わたしがこの話を知っているのは、黒崎から聞いたからです」
「黒崎さんとは仲がいいの?」
「ぜんぜん。兄さんが白川先輩と関わってるって知ったから、向こうからわたしに近づいてきたんです」
「となると、黒崎さんと知香の関係は不明のまま。知香が安全とはとても言えないな」
「白川先輩のこと、心配ですか?」
「そうだね。だから、なにか手を打たないといけない」
「……ねえ、兄さん。もうやめましょうよ」
二葉は真剣な眼差しで、一樹の手をぎゅっと握りしめた。
「白川先輩にかかわらなくてもいいじゃないですか。どうして兄さんが危険を背負ってまで、あの人をかばうんです? だって悪いのは……」
「知香だよ。それでも、俺は知香のことをほうっておくことはできない」
「兄さんには宇佐美先輩がいるじゃないですか。大木先輩ととかほかに友達だっている。それに……わたしもいます! どうして白川先輩にこだわるんですか?」
「こだわっているつもりはないよ」
「白川先輩のことが好きなんでしょう?」
「俺はね、知香のことがたしかに心配だよ。でも、それ以上に知香がなんであんなことをしているのかが気になる。それに黒崎さんが何を計画しているのか、この後どうなるのか。それが知りたいんだよ」
今度こそ、一樹は起き上がった。
いつまでも、二葉の膝枕の上というわけにはいかない。
「大丈夫。あと少しで決着をつける」
実際、問題の真相にはあと一歩のところまで来ている。
手がかりは愛歌が残してくれているのだから。