漉かれた思い出
しんと静まりかえった白い山。雪がちらつく中腹には川が流れ、傍には粗末な小屋がひっそりと建っている。
窓から窺えるのは、肩だけでがっしりとした体だと分かる男。濃く太い眉毛につぶらな目の、体躯のわりに若い印象の顔立ちだ。
近づくと、彼の頭の揺れに合わせて、ざぶざぶと派手な水音が耳に届く。男の前には、濁った水が張られた大きな木製の容器がある。彼はここに手を突っ込み、動かしていた。
木と糊の入り混じった独特の匂いや、積み重ねられた紙床が、ここが和紙工房だと伝えてくる。
「やっぱりここにいたのね、拓」
高くやわらかな声を聞いた男の表情に、灯がともる。
拓とよばれた男の目に飛び込んだのは、くりくりした目に麿眉が印象深いなじみの顔。一つにまとめた黒髪をなびかせながら、白い息を吐く少女だった。
彼女は、ほっそりとした手をすり合わせながら、勝手知ったようすで小屋の戸を開ける。
「照さま」
「もう、私は朱音だって。何度言ったらよんでくれるの」
朱音は頬をぷうっと膨らませながら、毛布のように大きなストールを肩から落とした。現れたのは、雪景色に溶け込みそうな白衣
と、対象的に映える緋袴。丈長を使ってまとめられた垂れ髪もあわせて、『照の巫女』と称される彼女の正装だ。
「照さまは、あなたしかおられないでしょう?」
早くに両親を亡くして、たよりない細腕で社を護っている朱音。
代々の照の巫女たちは、神の声をきいて周りに伝える『神凪』である。昨今の巫女に見られるような形式張ったものではなく、本物だった。
「またそんなこと言って。仮によ。私の他に照の姓の者がいたとしても、どうせ拓は私を朱音とよんでくれないでしょう?」
「そうですね。僕は古屋の者ですから」
朱音を照さまと敬う、拓の親たちを目にしてきたのだ。昔なじみとはいえ、よびかたに気安さをだそうとしない。
「まったく……照の血を引いてしまった『だけ』なのよ、私は」
巫女は嘆息し、丸い眉をわかりやすく顰めた。
今や唯一、照の女子である朱音だけれども、彼女は神の声を聞き取れない。血筋をたよりに、社に置かれているだけ。
朱音の事情を汲みながら、神の声なくとも照を主とみなして寄り添う七家。拓はその一つ、古屋の血を引いている。
拓は、朱音より一年遅く生まれた。幼い頃から朱音に気にいられ、何かと連れ回されている。屈託のない笑顔をうかべて野を駆け回るのも、七家の大人たちから手ほどきを受けるときにも、朱音はつねに拓を隣に置いていた。
「雪、ここ数日で大分積もりましたね」
「そうね。まだ柔らかくて下駄では歩きにくかったの」
今もそうだ。二人の距離感は変わらない。
呟く拓の背後にある木製のいすに、朱音が腰かける。
軋んだ音を立てるのも常。朱音は気にすることなく、身を預けた。
「まだ降り始めですから。これからさらに、深くかたくなるでしょうね」
「例年どおりよ。油断する気もないけど」
「最近やっと慎ましやかさを覚えてくれたというのに、例年どおり、ですか」
ストーブの上で、鉄製の薬缶がしゅんしゅんと音を立てる。それを合図に、朱音は戸棚から萩焼の湯のみを二つ取り出した。てきぱきと飲み物を用意していく。
「もうっ、言うわね……できたわ。いつもどおり、置いておく」
「ごまかしましたね。ともあれ、ありがとうございます」
余計なゴミを出さぬよう、紙工房にはインスタントの珈琲を置いている。案外胃の弱い拓には、砂糖とクリームを入れ、朱音用にはブラック。これもいつもと変わらない。
もうひとつ、拓は猫舌だ。だからこそ、彼の作業の合間に、朱音は珈琲を用意する。
「拓は図体も大きくなるし、お口も達者になって。憎らしいわ」
どちらが歳上なのやらと言外に匂わせつつ、朱音はかわいいふくれっ面を拵える。そして湯のみをふうっと吹き、珈琲を干していく。
「憎らしい男は隠れてしまいましょうか」
「だめよ。やっぱり私は拓といると、ほっとするから。ずっと一緒にいたい」
「そうですか」
二人が離れた例外は、朱音の進学時の一年間。小学校への入学時には、華やかな子ども用のスーツを着せられた朱音は、拓と一緒でないと通わないとべそをかいたほどだった。
泣きはしなかったものの、次の進学の折にも、真新しいセーラー服を身にまとった朱音は不機嫌そのものだった。
「新雪だから殊に、照さまの足元が心配ですね。帰りがけには、足をとられて転ばないでください」
窓をちらりと見やった拓が、念を押す。
「当然よ。あのときのように拓に引かれて起こされるのは、もうゴメンだわ。力加減を誤られて脱臼したのよ」
「照さまがセーラー服を雪で真っ白にしたのを見て、たまげた僕の身にもなってほしいものです」
拓は振り返る。互いに顔を合わせ、ほころばせた。
当時のことを笑い話にするほど、成熟した二人。少女のあどけなかったおかっぱ髪は、時を経るごとに艷やかに伸びた。そして、少年の棒のように細かった手足には、たくましい筋肉が纏われた。
漉き舟の水面から木枠が浮き上がる。拓が取手を掴んで引き上げたのだ。慣れた手つきで木枠、もとい簀桁をゆすると、ざぶざぶちゃぷんとリズミカルな音がたつ。こうして繊維をならし、水を落としていく。
沈黙も慣れたもの。むしろ朱音にとって水音が、拓の声の一部ですらある。意味が凝集された、雄弁なものでなくていい。鼻歌のように、この季節に彼の心持ちを如実に伝えてくる。
冬という時候に楮や三椏から紙を漉いて照の社に納めるのが、いにしえから続く古屋の役目。朱音の髪を束ねている丈長も、楮を使って古屋の家が漉いた檀紙を使っている。
拓は五年前に紙漉きを仕込まれ、その頃から朱音は拓の背を眺めるようになった。
彼の背は朱音を越して、今や頭ひとつ分ほど大きくなっている。首周りをはじめ、体全体がガッチリして、頼もしい。
「照さま、ここは寒いでしょう? 僕は動いているから平気ですが、あなたはそうもいかないでしょう? 古屋の仕事をさせるわけにはいかないから、せめて母屋に行ってください」
「構わない。もう少しここにいるわ」
古屋以外の七家にも、伝統的に照に対して奉納しているものがある。けれども、和紙に関していえば、古屋以外の者に手を出させたことはない。
ましてや、七家の盟である照の者になら、なおさらだ。
「今日は七家の会議で、照さまの婚姻について取り決めるのでしょう? そんな折に、あなたに体調を崩されてはこまります」
朱音の将来が決定づけられる大切な日。
七家が彼女に相応しいと考える男衆と顔を合わせ、選びとる。
照を知る、七家の年齢の釣り合う男は、意外といると聞く。
「私の意志はかたいのよ。拓以外を推されたら突っぱねるわ」
「照さま!」
朱音の潤んだ瞳が、強く切実に訴える。
一番近くにいたから。ほかでもない朱音の意志で、拓をそばに置き続けてきたのだから。朱音は、今更他の者に割り込ませたくなかった。
「……では、二人で社を去りませんか?」
水音とともに、拓の手が止まった。彼の口調は散歩に誘うような軽さなのに、眼光が鋭くて、ちぐはぐだ。
「ひらく? どうしたの? 唐突に」
「唐突なものですか。僕だって、少しでも長く、あなたと確実にともにありたいのですよ」
人肌よりはあたたかい、けれども大分冷めた湯のみが、大きな手に掴まれた。頬をわずかに染めた大男が、一気にあおる。
「拓なら大丈夫だよ。社内の古文書で見つけたの。一族皆で決めた相手でなかったとしても、七家の一員なら過去に結ばれた例があるから。他を推されたって、私が皆を説得する」
「ですが……」
拓は口をつぐんた。珍しく朱音に圧されたから。
幼さの残る目を見開いて、朱音はすっと息を吸う。
「私は皆に祝福されたいの! そして、神凪をもつ次世代の巫女を産みたいの」
神凪の能力がないことで、心を傷めてきた朱音。ならばせめて、七家の期待に応えたい。彼女の根底から、この一点だけは覆せない。心を許す男でさえも。
拓は湯のみから手を離し、顔の傍に上げてみせた。降参のポーズだ。
「わかりました、朱音。……あなたの意のままに」
少女はただでさえ大きな目を見開いた。拓が朱音の名を初めて口にしたから。
「ひらく、ありがとう」
感極まった声は、小さくよろこびに震えていた。
拓はまぶしいものを見るように、目を細めた。精悍な顔をわずかにゆがめながら、朱音の艷やかな黒髪に手櫛をとおす。無骨な指から繊細な髪に、ぬくもりが伝播していく。
「朱音」
「ひら、く……んぅ」
冷たくて、やわらかいものが朱音の唇にふれる。その後、じわりとあたためてきたのは、男のおなじもの。あとから、珈琲が甘く香ってきた。
触れるだけの、やさしい慈しみ。
「やっぱり、拓の珈琲は甘いわ」
「そうてすか? いれてくれてありがとうございます。いつもどおり、美味しかったですよ」
男のぱっちりした目が、眉より細められた。
「朱音。ぬくもりを手放すのは非常に惜しいのですが、ここからの作業は神経を使うので、一人にしてほしいのです」
「そう、じゃあ、またあとで、社でね」
男は微笑んで、手を軽く振った。
──何かヘンね。あとでって言ったら、いつもなら「はい」とか「ええ」とか、一言返してくれるのに。
朱音は、黙って手を振るだけの愛しい男を訝しんだ。けれども、そんな心の内を出すことなく、雪の上に点々と足跡を残しながら、遠のいていく彼に手を振って返す。
一時経って、会議を始める頃合いには、雪がすっかりやんでいた。
けれども、照の社で待機する朱音の顔は暗かった。集まった七家の面々の中に、幼さの残った顔の主がないから。
朱音は一段高い上座に座らされている。故に、見知った顔を見落とすことはありえなかった。現に、他の主だった者は確認できている。
──ここにいないなんて、一体どうしたの?
自分の相手に推したい男の不在に、朱音の心はあわ立った。
けれども、この場にいる者たちに不審がられたくない。
ましてや今は白衣の上に、亀甲の青摺が描かれた千早まで身につけているのだ。この場の朱音は、照の巫女の仮面をかぶらざるを得なかった。一段高い位置と彼女の丸い眉が、表情を隠すのに一役買っている。
朱音の感情を置き去りに、七家の会議は定刻通りに始まった。あらかじめ定められていた代表が進行し、話を進めていく。
今回の議題の主題は、先ほど会話に上ったとおり、朱音の夫選びだ。
それにもかかわらず、やれ鉄の某だ、水瀬の誰それだと言われても、朱音の頭にうまく留まってくれない。望む名が告げられないから。
朱音の脳裏は猫舌の幼馴染で占められて、他の入る隙がない。
七家が集う社の広間には、前から後ろから、がんがんにストーブが焚かれている。場に石油の臭いが充満して、朱音はクラクラしてきた。
例年の七家の集まりでこうなっていたが、今回は特に回りが早かった。
侍従を務める少女が朱音の様子にいち早く気付き、纏まらない議題の進行をそっと促してくれる。助かったと、朱音はそっと息を吐いた。
「巫女さまは如何お考えでしょうか?」
外野であれこれ討論しても、埒が明かないと判断されたのだろう。
朱音にとって悪くはないタイミングで、話を切り出された。
皆の視線が朱音に突き刺さる。
何度受けても慣れない刺激に、朱音は軽く目を伏せた。握りこんだ小さな手に、力がこもる。麿眉でなければ、ピンっとはね上がっていただろう。
「私は相手に……拓を、古屋の者を望みます」
水を打ったように、静寂が訪れた。というより、思わぬ攻撃を受けたかのように、広間の皆が硬直していた。
場に上がらなかった名を告げたからだろうか。それでもどこか異質な空気だった。
朱音の告げた名が、そんなにも意外だったのか?
そんなことはない。朱音は頭をふった。七家の中で誰よりも長く朱音と一緒にいたのだ。彼を望むのは、何ら不思議なことではないはずだ、と。
沈黙のあと、恐る恐る手を上げる者がいた。朱音がよく見知った中年男だ。皆が一様に、彼に視線を集めた。
これ幸いにと沈黙を破った進行担当が、彼に発言を促す。
「あなたの仰る『ひらく』とは、何者でしょうか? 照さま」
朱音は、文字通り青ざめた。顔色まで変われば、感情を隠しようがない。
七家の者すべてが、朱音の幼馴染を知っているわけではない。だから、この場にいる誰かから疑問が上ること自体は、朱音も想定していた。
けれども、朱音に問うた者が問題だった。
古屋大樹。名の示すとおり、古屋の者だ。しかも、他ならぬ彼の実父である。
二人の成長を、誰よりも間近で見た男だ。そして、古屋が照に納める和紙の製法を伝えた男だ。
下から朱音を見すえる大樹の表情は、真剣そのもの。凍てつくような空気の中、朱音の背につっと一筋汗が伝う。
──何かがおかしい。そもそも、どうしてこの場に現れないの?
さっき、男は朱音に対して『あとで』とは言ってくれなかった。朱音自身訝しんだから、はっきりと覚えている。
──彼はこの異変について、あの時点で何かを知っていたのでは?
一度襲われた思念を振り払うのは、無理な話だった。
「……今日はこれまでにしてください。思考がまとまらないので、返答は、後日におこないます」
えもしれぬ不安が襲い来て、朱音は声ごと震えている。
いつもなら会議のお開きに合わせて作れる笑顔も、ままならないほど。
「朱音さまっ!」
場にいた者の誰の上げた声なのか。悲痛さが、朱音の背を強く押す。
工房に、先ほどまで包まれていたぬくもりを求めて、転がるように駆けていく。広間の異様な雰囲気を、飛ばすような材料を掴むべく。
「ひらくっ!」
足をとる雪に抗いながら、朱音は和紙工房に近づいた。丈長が崩れたため、髪を雪の中振り乱している。他もぼろぼろだが、朱音には身だしなみな構う余裕は失せている。
男の痕跡はすぐに見つかった。朱音のより大きな足跡だ。ただ、工房から出て数歩先で途切れている。雪の中、神隠しに遭ったかのように。
「ひら……く?」
悲痛に彩られた少女の声は、しんしんと降り積もる雪にくるまれ、かき消される。
「いないの?」
文字通り転がり込んだ工房は、朱音が先ほど訪れたときと変わらない。ストーブの火が消されて、筋肉質な巨躯が見えないこと以外は。
否、もう一つ変化がある。作業台の隅っこに、つづらに折られた和紙が無造作に置かれている。几帳面な男らしくない所業。
「こんな上等な紙、見たことない」
触れて感じられたのは、ほのかに残るぬくもり。細かい金粉が品よく散らされた和紙だった。神社に納品されたシンプルなものと異なり、さらに凹凸で雪輪模様が描かれている。朱音には見慣れた千早のように映った。
雪輪に金粉、まぎれもなく慶事を願っての加工だ。
そっと開くと、なじみ深い繊細な筆跡が墨で描かれている。無骨な指ににあわず流麗に動く、彼の指先が朱音の脳裏にうかんだ。
「どうして……」
朱音の指先が震える。寒さのせいだけではない。文字を目が追っていくにつれて、眉間の皺が深くなる。
***
拝啓 照 朱音さま
七家の皆の記憶から僕のことが抜け落ちて、照の巫女は戸惑っていることでしょう。原因は単純で、僕が人ならざるモノだから。あなたは確かに照の巫女です。代々の巫女が持つ神凪のかわりに、無意識に神を具現化していました。それこそが、僕でした。
***
──かみ、さま……?
手紙越しの思わぬ独白に、朱音は震えた。普段なら飲み込めない話でも、先程、広間でのことを考えたら合点がいく。
つづらに折られた紙には、まだ文字が連なっている。巫女は手繰り寄せるように追いかけだす。
***
照の巫女はある条件で、能力を喪ってしまいます。代々の巫女たちの記録を見ているあなたには、巫女の死と純潔の喪失は言うまでもないでしょう。そしてもう一つは、神の正体を知ること。よって、巫女の能力で具現化した僕が存在し続けるためには、あなたに僕の正体を隠した上で、誰とも、もちろん僕自身とも結ばれない必要がありました。
***
朱音に告げなかった理由について、迷いなく書きつけられていた。
彼には神としての記憶があったのだろう。口が達者になっただなんて当たり前の事だ。しかも、神と口づけまで!
朱音は頭を抱えるしかなかった。
***
僕が消えたのは、あなたの唇を奪ったから。照の巫女にとっては、口づけも純潔に他なりません。完全に能力を喪うには時間差があります。あなたの能力の高さは、歴代巫女の中でも稀有だからなおさらです。書き終えることができる保証もありませんが、消えゆく中でもここまで手紙を認めはじめる程度のことは可能でした。
***
筆に揺らぎが現れた。時間がないことを焦っているのだろうか。それとも、彼が何かを迷っているのか。
筆跡を追うしかない朱音には、わかりようがない。
***
叶うはずもない、叶えられない僕の叫びをつづるなら、もう少しだけでも長く、自らの立場を忘れてあなたの傍にいたかった。あなたと交わしたかった。言葉を、視線を、笑顔を、そしてもう一度、唇を。
過去に、あなたと同じ能力により、何度か具現化したことがありました。ですが、特定のヒトに対してこんな気持ちを抱いたのは初めてです。
***
神である男の独白。口づけが彼が希ったもの。知らないうちに朱音は正しく巫女だった。神と語らい、触れ合いまで成していた。
けれども、これまた知らぬうちに朱音は巫女でなくなり、神が隠れてしまう。神の気持ちが傾こうとも、否、傾いたからこそ打破しようのないことになった。
***
あなたが照の末裔として次に繋げようとした時点で、僕は傍にいられなくなりました。もしもあのとき、あなたが僕の手をとってくれて、社や七家から離れたとしましょう。それでも結局は、少し永らえただけに終わったでしょう。あなたを得るための筈なのに触れようとしない僕を、他でもないあなたが不審に思わないわけがないのですから。
***
朱音の中に、先ほどの会話がよぎる。少しでも長く一緒に在りたいと言っていた彼に対して、朱音は何と答えただろうか。次世代の巫女を産みたい。もちろん彼との子を考えていたけれど、それが一番だった。
今の状態は、一緒に在ることを優先させなかった朱音への報い。
男が促したままにしておけば、口づけを交さずに社から離れさえすれば、まだ彼は朱音の隣にいてくれただろう。
***
直に、あなたも僕を忘れてしまうでしょう。
あなたが願ったように、皆に祝福されて次世代に繋げるように、ひとり思い出をもっていきます。
***
筆跡はまだ続いていたが、これ以上は読めなかった。朱音の視界が熱いもので滲んだからだ。
「他はもう望まないから! 思い出だけは奪わないで! おねがい……」
彼が何者だったとしても、朱音のそばに確かにいたのだ。失いたくない。せめて記憶の中でだけでも。朱音は焦燥感に駆られた。
巫女の視界の端が、不自然に煌めく。男の手で丁寧に漉かれた和紙が、繊細な筆跡が崩れはじめているからだ。
まだ読み終えていない続きを読もうと、視線が鋭くなる。けれども、もう一行を拾うのが精一杯だった。
***
さようなら。何よりも大切な、僕の朱音。
***
「僕のって、残酷だよ」
朱音が物心ついた頃から傍にいた男子だ。存在ははっきりと覚えている。彼に傾けていた想いも含めて。先ほどまで彼は、確かにここで紙を漉いていた。朱音のともうひとつ、彼が使った湯のみも片付けられていないままだ。
「残酷すぎるよ……えっ? あれっ?」
けれども唐突だった。存在は鮮明なのに、姿かたちどころか、仕草も声も名前でさえも、靄がかかったように思い出せない。呼び続けていた名が出てこない。
「う……うそぉ。どうして!? さっきまで確かに名前を呼んでいたのよ、私っ」
手紙はとうとう虚空に溶け、朱音は泣き崩れた。
紙に使われていた金粉だけが残り、風にゆすられながら余韻を残している。
神の声を聴けぬ巫女の、恋の顛末。彼女自身の記憶からも抜け落ちた神との、空虚なおわかれとなった。