3−05
ふと、せっちゃんが私から片腕を離して、獣人の方へと向ける。何をするつもりなのだろうか、と伺っているとつい、と宙を滑らせるように指を動かした。途端に獣人が浮き上がり、抑えていた魔族は事前に察知していたのか少し離れた位置にいる。空中でもがく獣人だが、その効果は全くと言っていいほどになさそうだ。
せっちゃんは一体何がしたいのだろうか。留めておくのであれば宙に浮かせる必要もないだろうし、命を奪うのも同様だ。せっちゃんがニヤリと笑う。
「お前を買おう」
「何言ってんの」
つい、と言えばいいだろうか、尖った声で突っ込んでしまった。自分をめちゃくちゃ嫌ってる相手を買うって訳がわからない。ある意味最上級の嫌がらせなのかもしれないが、その行動に嫌がらせ以外の有用な意味はあるのか。普通の無駄な行動であれば別に咎めるつもりはないけれど、実害がありそうだから、いかがかと思う。私の言いたいことに気がついているだろうに、せっちゃんはまるで気に入りの画家の絵を一心に見つめるファンのような一途さを持って無視する。
色々と面倒になってくるのと同時に、精神的にも落ち着いてくる。ゆっくりと周りを見回せる状況になると、刑務所の面会室のようだが、その実、非常に高級な室内がなかなかの被害に遭っていることがわかる。まず、ガラスは鋭い爪に切り裂かれているし、暴れた獣人を捉えるために魔族たちもなりふり構わなかったようで、ふかふかの絨毯が見るのも痛ましいような有様だ。あと暴れた時に爪がぶつかったのか、魔族たちが結構な流血をしている。少し考えて、魔法の練習にもなりそうだ、とせっちゃんと同じように手を伸ばす。
人差し指を伸ばして、杖に見立てて軽く振る。心の中で有名な魔法を唱えながら、傷だらけの魔族へと回復魔法をかける。感覚的には何も変わらないが、目的の人物の傷は治っているようだった。ついでと言わんばかりに生活魔法の一種で、その服装を整える。もう一人の魔族にも同じように魔法をかけてから、最後にガラスへと視線を向ける。戻すことはできるだろうか、と戻るように魔法をかける。音を立てて組み上がっていくガラスはまるで逆再生しているようで面白い。最後まで戻ったのを見て、ガラス全体に強化をかけておく。物魔攻撃耐性とかでいいだろうか。きらり、と一度全面が光ってガラスの強化が終わる。
「ああ、ありがとう、せっちゃん。では、彼を連れて帰ろうか」
「え、あー…わかった。せっちゃんがそれでいいなら」
最終的に何を言おうとせっちゃんの決定に私は逆らえないし、逆らわない。被保護者の考えに疑問は呈しても、決定には従うのが普通だろう。
自分ごと私の体の向きを変えて、出入口へと向かう。入ってきたのが数時間も前のように感じるが、実際ここにいたのはきっと1時間にも満たない。それくらいに濃い時間だった。
「…せっちゃん、浮かせたまま連れていくつもりなの?」
「ああ、忘れていた」
この世界の魔族的な言い回しで言えば、“魔法が使えない人間を追い払うよう”な動きであっさりと解放する。どさっ、と明らかに結構な体積のものが落ちる音がしたのだが、せっちゃんに阻まれて確認することはできない。そのまま建物から出て、ナディアと合流する。せっちゃんが奴隷を買った、と告げるとナディアがわかっていたというようにマリア様に報告してあります、と返していた。このメイドすごい。仕事のできるメイドだ。知ってた。
名前も知らない虎の獣人を引き連れて、私たちは浮遊車に乗って、来た道を帰る。
5人でなぜか私の部屋に戻ってきて、私はしみじみと虎の獣人を見た。やはり、せっちゃんに対しては非常に強い憎悪を浮かべているのだが、私に対しては何も思っていない。面倒な相手だとつい眉をしかめる。
私を利用してやろうというような意志も、悪意を抱くこともない。ただ一心にせっちゃんへの憎悪だけを糧に生きている獣人なのだろう。詳しくは聞かなかったが、彼の恋人だった女性はきっと、せっちゃんのあのステータスの数字の一部になっているに違いない。
優雅な動きで片膝をついたのに、ギラついた視線をせっちゃんへと向け続ける獣人の視線に割り込んだ状態でしばらく考え込んでから、まっすぐと驚いた顔をしている青い目を見つめた。
「お名前は?」
「グラジリオス=ガンテック=ルティーネ=ルーオルー=ティガ、と申します」
「ぐらっ…ティガさん?」
「どうぞ、グラジリオスと」
「グラジリオスさんですね。せっちゃん」
「獣人の名前は、親を尊ぶ性格から本人の名前=父の名前=母の名前=貴族の場合は領地の名前=家の名前の順で名乗る。つまり、その男は元貴族だ」
長すぎて理解できないでいたら、あっさりともう一度名前だけ名乗ってくれた獣人さんはとても優しいと思う。ついでにどうして名前が長いのか聞こうとせっちゃんに呼びかけたら質問を口にする前に答えられて、一緒にいた時間的な問題なのか、せっちゃんが教師の真似事をしてくれているからなのか、それとも恐怖を感じるべきかと一瞬悩んだ。素直に感謝しておくことにした。
けれど、まさかのグラジリオスさんは貴族だという事実。確かに、片膝ついての行動が様になっていたから、慣れているのだろうとは考えていたけれど、まさかの貴族。そして、彼女を寝取られ(せっちゃんにその意思はなかった)、奴隷落ちというなんという没落人生なのか。それはもうせっちゃんに当たるしかないね。
ナディアが紅茶を淹れてくれて、困惑したように私を見る。グラジリオスさんにお茶を入れるかどうか、という質問だと判断し頷いておく。思った通りにナディアは紅茶を淹れて、片膝をついている彼の前へとおいた。一息つく。
「雪白、男奴隷を買ったって本当か」
つけなかった。ノックもなしに扉を開けたヴィクトール様にマリアさんが苦言を呈する。聞いてもいないようで、彼は自身の髪をかき上げながら、グラジリオスさんの瞳を覗き込むように腰を屈めた。すごく絵になる動きだったので、ちょっとキュンとした。私相手じゃないことは関係ない。少女漫画だって、相手役の主人公に対しての行動でキュンとするのだ。一体何が違うのか。閑話休題。
ヴィクトール様はしばらくグラジリオスさんを見つめてから、体を起こして、なぁんだ、とホッとしたような声をあげた。
「雪白のボディガードを買ったのか」
「え」
「ああ、そうだ」
「は?」
「俺とクレインスと…頼みたくはねぇがあの典医もいるが、それぞれ忙しいからな」
「聞いてほしいな!」
「私も、ダリアに呼ばれることがないわけではない。ダリアに貴族に抱き込まれるような可愛げがあるとは思わないが、保険は必要だから」
私をすっかり無視した二人の会話に、ブスッとふてくされてナディアの紅茶を口に運んだ。
狼にしようか獅子にしようか悩んだ結果、虎になりました




