73話 馬車酔い
「沢山ですか…」
シュリルディールの出した声には疑問と驚き、否定してほしい気持ちが見え隠れしていた。それに気付いているのかいないのかは分からないが、アーネスシス王女はにこやかなままだ。
沢山
あんな風に手紙で書いてくるくらいだ。元々軽く関わるだけだとは考えていなかった。しかし、アーネスシスから手紙が来てからディーが予想していた中で一番深く関わるものかもしれない。いや、この王女の表情を見るに、かもしれないではなく…
「僕も殿下と共に行く、ですか?」
「ええ、そうよ。」
絞り出したようにいつもより低めの声で告げたディーに対し、アーネスシスは変わらず朗らかに微笑む。
このにこやかに邪気も何もありませんという笑みが恨めしく感じてくる。
いずれ他国に嫁ぐアーネスシス王女だけが巡回し領地の経営直しをしている現状では国王派が力を強める要因となるには弱い。手っ取り早く分かりやすい手段として、その領地巡回に誰から見ても国王派と言える人物を加えようということだろう。
その簡単さと明確さは分かるが、良い手段であるとは思うが、それにディーが参加することを、ディー自身は喜ぶことは出来そうもなかった。
「…確かに、僕が共に領地巡回に参加することにより得られる利益は大きいでしょう。
しかし、僕には参加することのできない理由がありまして…」
「あら?何かしら?」
「乗り物酔いが酷い点でございます。」
それだけと思うかもしれないが、馬車以外の移動手段が徒歩か乗馬しかないこの世界ではかなりの重要事項である。
前のディスクコード領から王都に来るのにも通常より物凄く時間をかけたのだ。それと同様のことがこの巡回でも起こるだろう。
時間をかければそれだけ費用もかさむ。護衛侍女等に配る特別給料だけでなく、食費もかかる。それだけでなく、速く馬車を進められないということは魔物に遭遇する確率が高くなり、より多くの護衛が必要となるのだ。
「僕の参加により時間がこれまでの倍以上かかることになるでしょうし、それならば他に適任はいらっしゃいますでしょう?」
国内を巡る機会などこの出自だと中々厳しいことは分かっている。これを逃したら次にいつあるのか、もしかしたら無いかもしれない。
旅行には前世では修学旅行等しかなかったため正直興味はわくし行きたい気持ちもある。しかし、それと馬車酔いの気持ち悪さや増える仕事量と常に見られる立場として巡回をしなければならないことを天秤にかけると、どうしても行けないし行かなくて良いなら行きたくないという結論に達するのだ。
酷い馬車酔いを舐めてはいけない。
吐き気が酷い。
目眩がする。
苦しい。
頭もぐらぐらとする。
それらは目的地に到着しないと終わらない。
到着しても別に気分が良くなるわけではない。
帰りも同じ距離をかけて同じように帰る。
周りも気を付けてくれてゆっくりしてくれてるのも分かる。
それでも気持ち悪さは治らないどころか悪化していく一方。
吐いたらその処理で物凄く面倒なことになり、申し訳なさが天元突破する。
少し休んでも気休めでしかなく、同様のことがその後も待っている。
想像して顔色が悪くなっていくディーに、アーネスシスも眉を寄せて考え込んだ。
「そうね…派閥の対立という観点から考えれば他にも適任はいるわ。けれど、私と同じくらい問題解決を成せる人物である必要があるのよ。」
前世の知識も使って領地の問題を解決している。言外にそう告げている。
それが出来るのはディーだけだ。それは確かに前世の日本の知識を持つと分かっているのはこの2人だけなのだから納得できる。
この点から考えると適任はディーであるが、馬車酔いという点から不適任だ。ままならないものである。
「馬車酔いさえどうにかできれば良いのだけれど…その辺りは少々解決方法を探っていくわ。」
「僕も一つ解決方法として挙げられるものがあるかもしれませんのでそれは後ほど書いておきますね。」
解決方法とするには材料も足りず、本当に効果が表れるのかも分からないが試さないよりはマシだろう。
本音は行きたくないが、それが必要ならば仕方ないだろう。解決策が見つからなかったら別の人物が行くことになるだろうし。ディー自身が行くことが良いことは分かるため、もう一度酔い止めに関して調べることを心の中で決めた。
その時、アーネスシスが手を一回軽く叩いた。
これでこの話は終わりという合図だ。
「ところで、今回のこの2人の対談で親しくなったという証拠を見せなければならないのよね。」
そのアーネスシスの言葉にディーは目を丸くしたものの、すぐに察して提議する。
「証拠…呼び方が分かりやすく簡単な方法でしょうか。」
「ええ、私もそう考えているわ。私はディールと呼びますけれど…」
王女殿下では堅苦しすぎる。というか変わらない。明日香お姉ちゃんは日本語だから却下。アーネスシス殿下、アーネスシス王女…
頭の中でいくつか候補を挙げてみるがどれもしっくり来ない。
いや、一つだけある。多分それを目の前の人物から告げられるだろう。
「ディールは私のことをお姉様と呼ぶのはどうかしら?」
「流石に親しくなりすぎではないでしょうか…?」
「ディールはお父様のことを伯父様と呼んでいるのでしょう?弟のことをリアンと呼んでいるのでしょう?」
リアンと呼んでいるのは2人の時だけなのにどこから知ったのか…
アーネスシスの顔に浮かぶのはにこにこと今までで一番良い笑顔だ。
(あ、これは初めから狙ってたな。)
本当に公的な場以外では姉と呼ばれたかったのだろう。段々この人の嗜好が分かってきた。多分母シュリアンナと同類だ。気を付けていないとまた女装させられそうだ。
小さくため息をついたディーは降参とばかりに両手を上げた。
「分かりましたよ、アーネスシスお姉様。」
アーネスシスの要望通りに返したのだが、それは要望通りではなかったらしい。
アーネスシスは不満そうに唇を尖らせている。
「もっと親しみのある印象を持たせてほしいわ。」
そう言ったアーネスシスの口元は微かに歪んでいる。堪えきれない笑いを噛みしめているのがバレバレだ。
仕方ない。親しく呼ばれることが滅多にない立場だから呼ばれる機会があれば呼ばれたいのだろう。その気持ちは分かる。
ディーも様付けで呼ばれることが多いのだから。
「アスお姉様…?」
「ええ!それが良いわ!」
物凄い笑顔だ。リアンと短縮させて呼んでいることに対抗意識を燃やしたのだろう。
ディーは何だか微笑ましい気持ちになりつつ呼ぶ場所を気を付けようと心に決めたのだった。
次回は2月3日21時です。




