武術の交錯
「………。はあ?」
彼に敵意を示して立ちはだかった私に対して、予想していなかったようで僅かに沈黙したが、すぐに敵意を返してきた。
「過剰防衛すら超えて、それは単なるリンチです。私は看過できません」
「お前、仮にも俺が助けてやった形なのに、それを否定するのか?」
「客観的に見ても、あなたの暴力には正当性が認められない。だから、これ以上するというのなら――」
「立ち塞がると」
「はい」
躊躇いもなくそう答えた。
正直なところは、かなり恐ろしいと思っている。
実力の彼我は、私が圧倒的に不利だ。
あの一瞬では正確に量れないが、彼の技量は私と同等以上なのは間違いない。それなのに手の内は全くわかっていない。手の内を一切見せていない私もその点では同条件だけれど、相手へのダメージを配慮しない容赦のなさは、そのまま攻撃の苛烈さを表すだろう。
初見で彼の猛攻を凌ぎきるのは厳しいに違いない。
(だとしても、退くわけにはいかない)
ここで立ち向かわないで、いつ立ち向かうのか。
積み重ねた経験が意思として、闘志としてこの恐怖を上回る。
「はっはっは」
私の意思をバカにするかの如く、彼が、嘲りが多分に含まれている笑い声をあげた。
「女だてら気概のあるやつだ。俺に明確な敵意と闘志を見せたのはあの二人以来だな」
しかし、眼は笑っていなかった。
声は笑っている。だけど眼はすっと細まり、顎も引いている。
本気にはなっていないが、油断もしていない。負けるはずがないと絶対的な自負を抱えていると同時に、私が実力者であることを見極めている。容易な戦いではないと思っていたけど、付け入る隙が減ったことで、一層厳しいものになるのは間違いない。
それでも、私は絶対に勝たなければならない。
「たしかそれは、柔術だか空手だかの系統だったな」
私が取った構えを見て、彼は私の武術を予想した。
その予想は半分ずつ正解だ。私が母に教わった武術は、正当な流派ではない。だけど柔術を中心に、相手の力を流しながら無力化することに長けている。
見抜く洞察と知識は驚くところだけれど、見抜かれた所でやることは変わらない。
「じゃあ――」
彼が足を前後に開き、構えを取った。
(日本の格闘術ではない)
私も、構えで相手の武術を予測する。しかし、この構えの時点では私が知ってる範囲で引っかかるものはない。
(読ませない為に敢えて型を崩している? いや、わからない以上、先手は譲る)
元々防御からの返しに重きを置いた技術ばかりの私は、情報を求めて相手からの攻撃を待つことにする。
「先手行くぞ。啖呵切ったなら、これくらいは捌いてみせろ」
そして示し合わせたわけでもないのに、行動の選択が偶然にも噛み合った。
右拳を前に突き出した状態で、後ろで縛った髪を風になびかせながら一気に突っ込んでくる。
(拳法。八極)
腕の動きで当たりを付けた直後、アスファルトを踏み込む重い音が響き渡った。
「……俺に喧嘩売るだけはあるな」
「元々、当てるための攻撃ではありませんでしたね」
「避けるか腰抜かすか、そのあと追撃で終わりという算段だった」
耳朶を打った程の震脚を伴った一撃は、私の左耳を掠める軌道を貫いた。
それを読みきった私は、その手首を右手で掴んで押さえ込んでいる。思い描いた流れを初手から遮られたことに彼は驚いた様子を見せているが、まだ声に悦が含まれている。想定の範囲内という態度だ。
とはいえ、初手を捉えてイニシアチブを奪った。腕力で拘束を解かれる前に反撃を行う。
捉えた手首ごと右手を戻して引き寄せる。震脚を伴う突きのため、彼が左手で追撃するには間合いが遠い。ここで上体を崩せば足技も出せない。
そのまま引き倒し、肩関節を極めて私の勝ち――となるはずだった。
「!?」
その初動が目について、背筋を駆け抜けた悪寒が防御行動を取らせた。それが正解だった。
「あいにく、一発ネタで生きているわけじゃない。だがこれは素直に驚きだ」
私の反撃よりも早く放たれた彼の右の膝蹴りは、私の左脇腹を狙っていた。
私がそれを察知して挿んだ左手のガードが、間一髪インパクトの直前で押さえこんだ。
行動に移った直後に、予感させる動きが見えた。いつのまにか、彼の背後にあったはずの左足が胴体の位置にまで戻っていて、重心がそちらに移る寸前だった。それが彼の二の矢を察知させ、左腕をガードに使うことを優先させた。
(振り幅なんてほとんどなかった筈なのに……!)
軸が左足に移っても、右足が前にあった事実は変わらない。それでは溜めが作れず威力が出せない。その上、私は受け流す形の防御を取ったため、受けた手も直撃はしていない。
そのセオリーをあざ笑うように、大腿筋と僅かな腰の回転のみという最低条件で、これだけの威力を出せると自慢しているかのように、受け止めた左腕の痛みが痺れに近い感覚を引き起こさせる。
(遊ばれてる)
痛みに顔をしかめながらも集中を切らさず、感覚的に現状を判断する。
今のは確実に自慢したいだけの一撃だと思い直した。本気だったなら、今の一撃は膝へ目がけての関節破壊をされていたはずだから。
あの時の私に、それをされて対処する能力はなかった。それは彼もわかっていたはずだ。
(ダメだ。このままじゃ負ける)
悔しいことに今は左腕が使えない。ガードに使っても踏ん張れないので威力で突破される。この距離で再び勝負するには、手の痺れが抜けるまでの時間が必要だ。
以前、右手は私が押さえ、蹴り足も二発目を出せるほど位置が整っていない。
今のうちに、彼の手を掴んでいる右手を押し出すように動かしながら、足では跳ぶようにして後退を試みる。手から重い感触が伝わったのを察知した瞬間に手を離し、反動を利用してさらに距離を作る。
「おっ、とぉ」
彼も右手を突き動かされて僅かに体勢を崩し、追撃し損なった。
そしてせいぜい一歩半の距離を作ることが出来た。
(強さも容赦のなさもわかっていたけれど、勝ちの目が見えない……!)
ただ防御するだけでも受け方に繊細さを要求され、誤ればダメージが残る。その上、組んだ時の攻撃の苛烈さは私の力では対処しきれないかもしれない。
(組めば分が悪いなら、手繰りから極めて押さえつける)
先手を取ろうにも、私には攻め手の択が少ない。その上リーチでも負けている。アウトレンジでの勝負は挑めないなら、向こうから私の間合いに入ってもらって、確実に後の先を制する。
(その為には、確実に相手の出だしを読みきらないと)
構えと間合いで相手の攻撃の選択肢を絞り、動向からさらに絞り込む。出来るかどうか怪しいけれど、出来なければ勝つことなんて到底無理だ。絶対に成功させなければならない。
(一歩半は、危うい)
動き出しから攻撃までが短すぎて読み切れないと判断し、摺り気味で後ろに退いて距離をさらに半歩分空ける。
「おいおい、正義の味方が逃げてちゃダメだろ」
その私の必死の行動を、彼は嘲った。構えすら解いて、これ見よがしに私へ伸ばした右手の自分に向けて仰ぐ。あまりにもテンプレートな挑発だ。
これが油断によるものでなく、私から攻撃してくることはないと見極めた上でのふるまいだとわかっているけれど……いや、わかっている分憤りが募る。
「どうして、そんなにも強いのに、相手を傷つけることにしか使わないんですか?」
その憤りが衝動として表れ、問わずにいられなかった。
体得した武術の腕も、それに伴う観察眼も、彼の達者ぶりをわからせる。彼が同世代で屈指の実力を持っているのは間違いないと悟らせる。
だからこそ、どうしてそれを悪と断じる以外にない道でしか奮えないのかと、怒りが沸々と沸き立ってくる。
その力を正しいことに、人を守るために使うことは難しいことではないはずなのに。
私にはあまりにも理解しがたくて、自分のことのように胸を痛めると同時に、そうさせる彼への怒りが収まらなくなる。
だから、この怒りを彼自身からの回答によって、納得に変えたかった。
それがどのような答えであっても、私に失望を与えるとわかっていながら。
「それ、前にも聞かれたな」
彼の声のトーンが変わった。今までの挑発混じりな声色が消え、気怠げというべきか胡乱げと言うべきか、真摯さはないが、今まで感じさせ続けてきた不快感も消し去った声。
率直に言えば、初めて人間味を感じさせた声色だった。
「答えは、俺の目的の過程に含まれているから」
そして素直に答えてくれた。その答えがどことなく遠まわしなのも意外だった。
「過程……?」
「俺が、少なくともこの界隈で『最強』だと証明するための過程。誰よりも強いと証明したけりゃ、必然的に歯向かうやつは全員ボコるしかない」
「………」
絶句するほど、呆れるしかなかった。
「呆れたって顔してやがるな」
「実際呆れてます。少年漫画じゃないんですから」
思わず彼から視線を外して顔を覆いたくなったほどだ。想像をはるかに超えて馬鹿らしくて。
「俺だって本位じゃないんだぜ。口で言っても信じてくれない奴しかいないから、わざわざ手間と労力を惜しまずに披露しているだけだ。有言実行は、信用を得るには最高だからな」
「都合のいい大義名分ですね。そう言いながら、あなたは戦意のなかった彼らを追ってまでして叩きのめした。少なくとも彼らは、あなたを絶対に勝てない相手だと認識していた。違いますか?」
結局、本位じゃないと言っても抵抗はない。むしろ、嬉々としてその力を暴れることに使っている。
「なに、躾だよ。はっきり言うのもなんだが、俺は不良と呼ばれる人種だ。でも暴力と無縁に生きてるやつにまで手を出すほど、下卑てもない。だがな、同類がむやみやたらとこういうことしでかしてくれると、俺も同じ目で見られるんだよ。愛せる部分もない糞な連中と同じ扱いは御免だから、二度とするなと釘を刺して回る草の根運動も行っている。そして、釘を打つのは言葉じゃ無理じゃないかな?」
「………」
尤もらしい言い分を返してきたが、興が乗ってきたようで喋っている内に、抑えていた悦がだんだん含まれるようになっていった。
釘を打つためと称して、力を振るうことを正当化する。
多少の自浄作用はあるかもしれない。
暴力による恐怖政治。独裁者による統治。相手が相手なので、人によっては是とするかもしれない。
「随分と怖い目をしてるぞ」
「そういうことです」
そんなことが許されるはずがない。達成までの道中も、そして達成の後も、彼の凶行が延々と被害を出し続ける。
有害な種族だからと、不良と呼ばれる人を蔑視する人は私の周囲にも多くいた。でも彼らだって同じ人間だ。だから迫害されるのではなく、歩み寄って改心させることこそが、私が、私たちが取るべき選択だ。
そのためには、彼が回避できない障害となる。
この地域では誰よりも強く、誰よりも恐ろしい。不良に属する他の人たちは、常に彼の脅威に晒されている。
「その目的のために、どれだけの人に危害を加えたんですか?」
単純な暴力ではなかったが、過程だというのなら、今までの前科が溜まっているはずだ。
「覚えてない」
呆気からんとしていた。
「覚えてる限り、最も深いキズを負わせたのは?」
すでに寺門さんがどれだけの重傷を負わされたかは判明している。それを超えるようなことがあるのか。
「骨格の変形とか軽度の後遺症にしてやったのはいくつかあったな。あの時は加減が出来なかった。躾の範疇を超えてるから、これは反省すべきだな」
反省すべきと言いながら、古い思い出を語るように懐かしみさえ感じている声。
「最後です。いわゆる、善良な市民に危害を加えたことは」
私の中で、彼の見方が変わってしまう最後の境界線。
「……ああ。結果的にだがな」
逡巡する素振りはあったけれど、易易と踏み越えてきた。
それで決定づけられた。
「わかりました。あなたは、私がここで負かしてみせます」
「滾った目をしてるぞ。その綺麗な顔には似合わない」
「ええ、わかっててやってますので」
絶対に負けられない。引き分けも許されない。
ここで勝って、彼に私が上だと思い知らさなければならない。そうしないと、彼以外の方々の心を改めさせることが出来ない。
「熱心だな。後でどういたぶるとかの皮算用しか出来ない連中とはその時点で違う」
褒めるような口ぶりで、剣呑さをぶつけてくる。
話が続くうちに失せていた彼の戦意も、私の闘志に呼応して、鉄に熱が籠るように高ぶっていくのがわかる。
彼なりに、私を敵と認識して意識を集中している。
私もすでに態勢を整えた。目の前の敵に対する集中以外の一切をそぎ落としていく。
緊張が張り詰めていく。
視線は交差し続け、その時間が長くなるほど、精神の高ぶりを感じ、感覚も研ぎ澄まされていく。
「……あ? おい待ててめぇ!」
「え?」
しかし、唐突に彼は声を荒げた。一転してドスの利いた声だった。それによって全てが霧散した。
それは私に向けての言葉じゃなかった。そもそも、彼の目は私の肩越しを見ていた。
その不審な行動につられて、私も背後を見た。
「あっ」
そもそも私と彼が戦うきっかけになった五人組の最後の一人が、私達から全力で逃げていく姿が見えた。
彼の目的は、元々は止めを刺すこと。それに対して私が立ちふさがったためにこれが後回しにされていた。
しかし彼の意識的には、優先順位はそちらが上だったはずだ。私と戦うことになったのがイレギュラーで、本来の予定にはなかったのだから。
そして最後の一人は、今から追いかけても見失う可能性が高いほどに離れてしまっていた。
その結果――
「……白けた」
彼が完全に戦意を失った。明らかに声が投げ槍で、溜め息までついている。