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短編小説

きっかけは偶然に

作者: きらと

 陽だまりの教室で支倉亜里沙は、そっと机に伏せていた。

 窓の外にはもうすぐ盛りを迎える校庭の桜が、春風に花びらを散らしている。

 目を閉じると枝の影がまぶたをすり抜け、遠い昔の夢のように思えた。

「……ねえ、支倉さんってさ」

 前の席の男子がひそひそと声を漏らすのが聞こえた。

 好きだから意地悪するなんて幼い残酷さは、亜里沙にとって慰めにもならない。

 机の中の教科書は落書きで汚されていて、給食の時間には椅子を引かれ、こぼれた牛乳を泣きそうになりながら拭いた日もあった。

 それでも母にだけは言えなかった。

 美しくて誇らしい母が、自分のために眉を曇らせるのが怖かったから。

 チャイムが鳴ると女子たちは集まって好き勝手に笑っている。

 誰も亜里沙を呼ばないし、亜里沙も呼ばれない。

 仕方ないと心のどこかで思う。

 こんな顔で生まれたのは、自分のせいじゃないけれど——

 それを口にしたらもっとひどい言葉を浴びるだけだと知っている。

 ランドセルを背負って校門をくぐると、母の姿が見えた。

 白いスカーフを風に揺らしてゆるやかに手を振ってくれる。

 誰もが振り返るほどの人目を集めても母はどこか堂々としていた。

「おかえり、亜里沙」

 母の声は春の陽射しよりあたたかい。

 そのぬくもりに包まれながらも、胸の奥に小さく棘のように残るものを亜里沙はまだうまく言葉にできずにいた。

「今日も頑張ったの」

 そう言うと母はふわりと笑ってくれる。

 その笑顔が亜里沙をいちばん苦しめていることを、まだ母は知らない。




 週末の午後、空はどこまでも透きとおり陽炎のように揺れる舗道を母と歩く。

 今日は、母の親友である綾子おばさまと一緒にショッピングモールへ出かける日だった。

「亜里沙、退屈してない?」

 玲子の問いかけに小さく首を振る。

 本当は少しだけ胸の奥がざわついている。

 綺麗な母とその隣で華やぐ綾子おばさま。

 ふたりが並ぶと、まるで光の輪の中に自分だけが置いていかれるようで。

 モールの中央吹き抜けでは週末の喧騒が風のように流れていた。

 その一角に、小さな本屋の看板がひっそりと見えた。

「あ……」

 足が止まる。

 平積みの雑誌や新刊の間、少し埃をかぶったような背表紙が亜里沙の目を引いた。

『きっと、誰も見つけていない——』

 そんな声がどこからか聞こえた気がした。

「ママ、お金……」

 ふだんはめったに欲しがらない亜里沙の言葉に、玲子は少し驚いて小銭入れを渡してくれた。

 レジに並んでみたけれど、若い店員さんは忙しそうに包装紙を切っていて順番が回ってこない。

 人波が横切っては彼女の小さな声をかき消していく。

 しばらくして亜里沙は本を棚に戻した。

 ——やっぱり私にはちょっと無理かな。

 そのとき吹き抜けの上階から、何やら騒がしい笑い声がした。

 見上げると、逆光の中に背の高い男と、髪をなびかせる女の人が見えた。

 ふたりは人目もはばからず、頬を寄せて笑い合っている。

 ……なんだか、遠い世界みたい。

 思わず立ち尽くす亜里沙に、男の視線がふいに降ってきた。

 陽だまりを割くような鋭さで真っ直ぐに。

「——君、ちょっとそこに立ってくれる?」

 声が降りてくると同時に、男が軽やかに階段を駆け降りてきた。

「あの……」

 戸惑う亜里沙に、男は人差し指と親指で四角を作りじっと覗き込む。

 その瞳に映るのは自分では知らない、自分の輪郭。

「……いいな、君。すごくいい。」

 息を飲むほど近い距離で、真剣な声。

 この人は私を——見ている?

 言葉にできないまま、亜里沙はまばたきを繰り返した。

「……お名前、なんていうの?」

 男は亜里沙の耳元で少しだけ声を落とした。

 人通りの喧騒の中で、その低い声だけが異質に澄んでいる。

「……あ、あの……」

 何か答えようとしたときだった。

 背後から風を切るような足音が響いた。

「亜里沙!」

 はっと振り返ると、母がいた。

 少し離れたところにいたはずの綾子おばさまを従え、息を切らせて立っている。

「お母様……ですか?」

 男が振り返り、いたずらを見つけられた子どものように肩をすくめた。

 玲子は亜里沙の腕をぐっと引き寄せ、その手の先で男をにらみつける。

「あなた——何をしていたの?」

 冷たい声だった。

 ふだんの穏やかな母とは思えない、誰もが息を飲むような迫力。

「いや、奥様……ちょっとだけ。この子の雰囲気があまりに素敵だったので、つい」

 男はわざとらしく手を広げてみせるが、玲子の目は一分たりとも笑わない。

「——亜里沙から離れなさい」

 低く、短く言い放つと同時に玲子の右足が閃いた。

 スカートの裾が空を舞い、次の瞬間、男の腰に正確な蹴りが入る。

「わわっ、待ってください!誤解ですって——」

 男は必死に弁解しようとしたが、背後から綾子おばさまに呼ばれたモールの警備員が小走りで駆けつけてきた。

「こちらのお客様、少しお話を伺います」

「ちょ、ちょっと!お嬢さんをスカウトしようとしただけで——」

 男の声は人波にかき消され、引き離されていく。

 ぽかんと見送る亜里沙の横で、玲子の肩が小さく上下している。

 怒りと安堵と言いようのない母性が混ざりあった気配だった。

「亜里沙、大丈夫だった?」

 問いかけに小さく首を縦に振る。

 心の中は、さっきの男の視線と母の強さとでぐしゃぐしゃだった。

「それより……ママ……本、買いたいの」

 ぽつりとこぼれた小さな願いに、玲子の顔から険しさがふっと消えた。

「——わかったわ。行きましょう」

 亜里沙の手を握る母の指は少し汗ばんでいて、どこか懐かしい匂いがした。




 玲子と綾子おばさまに手を引かれ、再び本屋の店先に戻った亜里沙は、さっき戻したばかりの小さなコミックをもう一度手に取った。

 くしゃくしゃの帯には、見慣れない作者の名前とたった一言のあらすじだけ。

『君だけが、この結末を知っている』

 指先が少し震えた。

 店員さんの忙しない声も、周りの人の笑い声ももう耳に入らない。

 ただその一冊が小さく息をしているように思えた。

「これ、ください……」

 今度は玲子が代わりにレジに並んでくれた。

 店員さんは手際よくビニール袋に包み、そっと亜里沙に手渡した。

「ありがと……」

 小さな声に店員さんが微笑んだ。

 それだけのことなのに胸の奥に柔らかいものが溶けていく。

「よかったわね、亜里沙」

 玲子の声はさっきまでの剣のような鋭さを失っていた。

 握られたままの手がどこまでも母のぬくもりだった。

 モールを出てからも亜里沙は、ずっと本を抱きしめていた。

 陽の光がページの縁にすべって、ふわりときらめく。

(あのお兄さん……)

 さっきの男の横顔が、ふと心をかすめた。

 母の怒声にすっかり消えてしまった言葉。

 でもあの一瞬だけは——間違いなく自分だけを見ていた。

「……亜里沙?」

 玲子が歩みを止め、しゃがんで視線を合わせてくる。

「今日のこと……嫌だった?」

 問いかけは優しかったけれど、どこか不安を隠しきれない母の顔。

 亜里沙は小さく首を横に振った。

「ううん、嬉しかった……ママが守ってくれたのも……本、買ってくれたのも」

 玲子の瞳がほんのわずか揺れた。

「そう……それなら……よかった」

 母と娘が肩を並べて歩く後ろでショッピングモールの吹き抜けを渡る風が、まるでどこか遠くの街へと続いていくようだった。





 それから数日後——

 あのコミックは、奇跡のように少しずつ売れ始める。

 誰が買ったのか、どこで広まったのか。

 そんなことは誰にもわからない。

 でも世界は時々、小さな偶然をきっかけに目を覚ますことがある。

 学校の空気は何も変わっていないようで、少しだけ変わっていた。

 いつものように教室の隅でノートを広げる亜里沙の耳にひそひそ声が混じる。

「支倉ってさ、あのモデルの娘だろ?」

「……なんか、テレビで見た人が声かけたんだって」

 誰が言い始めたのかもわからない噂は、花びらのように教室の中を舞い、いつの間にか彼女の机の周りの空気を柔らかくした。

 ——ほんの少しだけ。

 それだけで充分だった。

『誰も私を見つけてくれない』

 そう思っていた頃の自分は、どこか遠くへ行ってしまったみたいだ。

 ランドセルの奥には、あの日買ったコミックが入っている。

 休み時間になるとページを開いて、誰もいない物語の世界に潜り込む。

 それが小さな支えだった。

 放課後。

 昇降口の窓を抜ける風が制服の裾をくすぐる。

「——支倉さん!」

 声に振り返ると、いつも少し意地悪をしてきた男子が立っていた。

 目が合うと、彼は途端に視線を泳がせて上履きをもじもじと蹴った。

「……あのさ、この前……ごめん」

 それだけ言って恥ずかしそうに走り去った。

 何を謝られたのかすぐにはわからなかったけれど、胸の奥が少しだけあたたかかった。

(なんだろう……)

 ひとりきりじゃないって、こういうことなんだろうか。

 小さな花びらみたいな日々の欠片が、心に積もっていく。

 家に帰ると母が電話をしていた。

 楽しげに笑いながら時折真剣な声を混じらせる。

 受話器を置いた母が亜里沙に気づいて、いたずらっぽく微笑んだ。

「亜里沙、今度ね、ママのお仕事を撮ってくれてるカメラマンさんが……あなたに会いたいって言ってるの」

 胸の奥がきゅっと音を立てて縮まった。

(……あのお兄さん?)

 名前も知らない、でも一度だけ自分を見つけてくれた人。

 心がざわざわと波立つ。

「……会ってみる?」

 玲子の問いに、小さく頷いた亜里沙の髪を、窓からの光がふわりと照らした。





 約束の日の朝は梅雨の晴れ間のように澄んでいた。

 母の隣を歩きながら、亜里沙の心臓は小鳥みたいに胸を打っている。

 連れて来られたのは市の外れにある古いレンガの建物だった。

 中は白い壁と天井まで届く窓からの光だけで満たされていて、まるで別の世界に来たようだった。

「いらっしゃい、お嬢さん」

 背後からあの声がした。

 くるりと振り向くと、あの日、吹き抜けのモールで光の中から現れた男——黒瀬蓮がカメラを肩にかけて立っていた。

 相変わらず無造作な髪と、どこか人をくすぐるような笑顔。

 でもその瞳の奥だけが光をつかまえる鋭さを隠していない。

「先日は……失礼しました。お母様にも……痛かったですよ、あの蹴り」

 冗談めかした蓮の言葉に、玲子はわざと視線を逸らした。

 綾子おばさまが小さく吹き出す。

「ご挨拶がわりってことで許してあげて? 今日は亜里沙ちゃんをよろしくね」

 蓮は真剣な目で亜里沙を見た。

 初めて会ったときと同じ、誰も見たことのない自分を探すような目。

「緊張してる?」

 小さく首を振る。

 けれど手の中の指先が汗ばんでいるのを、蓮にはすぐに見抜かれた。

「大丈夫。君はただそこにいてくれればいい。僕が……君の今の光を全部撮るから」

 カメラを構えた蓮が、ファインダーの奥から声をかける。

「——じゃあ、はじめようか」

 シャッター音が響く。

 光と空気が震え、何かが亜里沙の中でそっと目を覚ました。

「いいよ、そう。その目……」

 母がいつも見せてほしがる笑顔じゃなくていい。

 学校で作った強がりの顔じゃなくていい。

 ただ自分の奥にある小さな灯りだけを見つけてくれる人がいる——

 カメラの向こうの蓮の瞳が、それを教えてくれていた。

 カメラのシャッターが止まったとき、亜里沙の呼吸は少し乱れていた。

 でもそれは苦しさじゃなくて、胸の奥に空気をたくさん入れたあとのくすぐったい充足感だった。

「お疲れさま、亜里沙ちゃん」

 蓮がファインダーを外して、にかっと笑った。

 さっきまでの鋭い視線とは打って変わって、今はただの無邪気な大人の顔だ。

「君は思った通りの光を持ってる」

 どういう意味かわからないけれど、その言葉だけで十分だった。

 そばで見ていた玲子は、少しだけ息を詰めているように見えた。

「……どうだった、亜里沙?」

 控えめに問いかける母に、亜里沙は迷わず頷いた。

「楽しかった。……怖くなかった」

 それを聞いた玲子の肩が、わずかにほぐれる。

 それでも亜里沙は知っている。

 母はずっと怖いのだ。

 自分の過去が娘を縛るのではないかと。

「ねぇ、ママ」

 着替えを済ませて控え室を出るとき、亜里沙は小さな声で呼んだ。

「私……もう少しだけ……頑張ってみたい」

 玲子は立ち止まり、しばらく返事をしなかった。

 やわらかい光が廊下に満ちていて、その中で母娘の影が並んで揺れた。

「……そう。わかったわ。ママは——あなたを、信じる」

 母の指先が亜里沙の頬をそっと撫でた。

 泣きそうになって、でも泣かないと決めて亜里沙は小さく笑った。

 廊下の先で待っていた蓮が、亜里沙と玲子を見てくしゃりと子どもみたいに笑った。

「これから忙しくなるかもね、お嬢さん?」

 何を言われても今日はもう怖くない。

 自分で選んだ小さな一歩だから。

 レンガの外へ出ると、夕方の光が胸いっぱいに降りそそいだ。




 撮影の日から何かが変わった。

 教室の空気が、少しだけ柔らかくなった気がする。

 噂好きの女子たちがひそひそ話をしては、ちらりと亜里沙を見る。

「支倉さん、雑誌に出るんだって……」

「え、あのカメラマン、超有名だよね……?」

 小さな囁きが窓辺の光みたいに亜里沙の背中をくすぐる。

 以前なら怖かった。

 目立つのが息苦しかった。

 けれど今は違う。

 あのレンズの向こうで自分だけを見てくれた蓮の視線が、どこかで勇気に変わっている。

(……大丈夫)

 ノートに走らせる鉛筆の音もどこか軽やかだ。

 窓の外には、もうすぐ夏の匂いを運ぶ風が吹いている。

 放課後。

 いつものように帰り支度をしていると、男子たちがそわそわと近づいてきた。

「なぁ支倉、昨日の雑誌、家にあった。お前、載ってたよな?」

 思わずランドセルの肩紐を握る。

 けれど、その顔は意地悪じゃなく、どこか不思議そうに見つめていた。

「……うん」

 素直に頷くと、男子は顔を赤くして、無理やりな笑いを浮かべた。

「……あのさ。オレ……お前のこと、変なふうに言ってごめん……」

 口を尖らせて走り去っていく背中に、亜里沙は小さく「ありがとう」と呟いた。

 届かなくてもそれでいい。

 昇降口を出ると、夕日が傾いていて、あの日のモールの光を思い出す。

 小さな偶然は、さざ波みたいに広がって、知らない誰かの心に触れていく。

 ランドセルの中の、あのコミックの帯が少しだけ擦り切れていた。

 でも心の中では物語はまだ終わっていない。

(私も……私だけの物語を……)

 静かに思いながら亜里沙は真っ直ぐ家路を辿った。




 週末の午後、玲子のマンションのリビングはいつもよりも賑やかだった。

 テーブルの上には紅茶の香りと小さな焼き菓子の皿。

 玲子と綾子、そして蓮が向かい合わせに座っている。

 ——亜里沙はキッチンの入口の影に隠れて、それをこっそり見ていた。

「……で、黒瀬さん。本当にうちの子に声をかけたのは偶然なの?」

 玲子の声は柔らかいが視線だけは鋭い。

「ええ、誓って。……まあ、運命とでも言いましょうか?」

 蓮は悪びれもなく肩をすくめた。

 綾子が呆れたように笑う。

「玲子、いい加減に信じてあげなさいよ。あんたがモデル始めた頃だって似たようなもんだったじゃない」

 玲子の唇がわずかに結ばれる。

 小さく吐息をついて紅茶を一口含んだ。

「……あの子はまだ、何も知らない。光の強さも、その影も」

 蓮は静かに頷いた。

 子どもみたいな笑顔の奥にカメラマンとしての誠実さだけが光っている。

「だからこそ、僕が撮ります。……あの子自身のままでいられるうちに、ちゃんと記録に残す。約束します」

 玲子は視線を落とし、テーブルの木目を指でなぞった。

「……あの子を商品にはしないで。母として、モデルとして……それだけはお願い」

「もちろんです。僕だって、誰かの飾りを撮りたいわけじゃない」

 はっきりとした声で言い切る蓮に、綾子は満足そうに紅茶を口にした。

「これで決まりね。玲子、あんたもいい加減に腹をくくりなさい。あの子はあんたの写し鏡だけど、別の人生を歩くんだから」

 玲子は目を閉じ、小さく笑った。

 それはどこか少女だった頃の玲子の面影を思わせる、弱くてそして強い母の顔だった。

 ——キッチンの影で聞いていた亜里沙は、こっそり胸の前で手をぎゅっと握った。

(ママ……ありがとう)

 声に出す代わりに静かに心の奥で誓う。

 小さな勇気を少しずつ重ねていくことを。

 紅茶の湯気が午後の日差しに溶けて消えていった。

 次の撮影の日。

 前回よりも少し大きめのスタジオの入り口に立った亜里沙は小さく息を整えた。

(大丈夫……)

 ランドセルを置いて、白いブラウスに着替えると蓮がカメラを抱えて近づいてくる。

「来てくれてありがとう、亜里沙ちゃん」

 その声はあの日モールの吹き抜けで聞いたのと同じで、でも今は少しだけ優しい。

 玲子はスタジオの隅に座って、黙って見守っている。

 綾子おばさまは椅子に脚を組んで、雑誌をめくりながらちらちらと視線を向けていた。

「今日はね、前よりも……君のことを少しだけ教えてほしいんだ」

 蓮の言葉に亜里沙はきょとんとして、小さく首をかしげた。

「教えるって……どうやって?」

 蓮は笑った。

「簡単。笑いたいときは笑っていいし、泣きたくなったら泣いていい。ただそのままの君を見せてほしいんだ」

 カメラのレンズが向けられる。

 前は怖かった、あの黒くて大きな瞳みたいな機械。

 でも今は違う。

 レンズの向こうにいる蓮の目を、ちゃんと信じられる。

「……お願いします」

 亜里沙の声は小さいけれど、確かだった。

 シャッターが切られるたび、何かが胸の奥から剥がれていく気がした。

 昨日まで怖かったこと。

 学校での小さな嘘。

 母の笑顔に息をひそめて合わせていた自分。

 全部、全部、光の中に溶けていく。

「いいね……いいよ、亜里沙ちゃん……その顔……!」

 蓮の声が遠くで揺れる。

 眩しいライトの向こうで、玲子がそっと笑っているのが見えた。

 その瞬間、亜里沙の頬を一筋の涙が伝った。

 でも恥ずかしくはなかった。

 ——私は私のままでいいんだ。

 シャッター音が、夢のように響いた。





 次の撮影は、春の終わりを告げる風の中で行われた。

 場所は市内の小さな公園。

 まだ人通りの少ない朝の芝生に、やわらかい陽射しがゆれている。

「おはよう、亜里沙ちゃん。今日は空に君を預けるつもりだから」

 蓮がいたずらっぽく言うと、亜里沙はほんの少しだけ笑った。

 ——外で、しかも人がいる場所で撮られるなんて、前の自分なら絶対に無理だったかもしれない。

 でも今日は大丈夫だと思えた。

 母と綾子おばさまは少し離れたベンチに腰かけて見守っている。

 緊張したらあそこに戻ればいい。それだけで心が軽くなる。

「よし。じゃあ、ここに立って。風に任せてみて」

 蓮の指示で芝生の真ん中に立つ。

 首もとにそっと触れる風が、髪を揺らして頬を撫でた。

「……目を閉じてみようか」

 亜里沙は言われるままにそっとまぶたを下ろした。

 まぶたの裏側に広がるのは、ほんのり温かい赤い世界。

 鳥の声、遠くの子どもたちの笑い声。

 全部が一つに溶けて、胸の奥に小さな泉みたいに満ちていく。

 ——カシャ。

 シャッターの音が、風のざわめきにまじって響く。

「すごくいいよ……今の君、まるで空とお喋りしてるみたいだ」

 蓮の声が遠くで笑っている。

 目を開けると、広い空が真っ青だった。

 自分の背中に翼が生えたみたいに、どこまでも行ける気がした。

「——もう少し、そのまま」

 亜里沙はそっと頬を上げて、少しだけ唇に笑みを乗せた。

 カメラの向こうで蓮の息がわずかに止まったのが分かった。

(大丈夫。私はここにいる——)

 公園の青い空の下、小さな背中が確かに光をまとう。

 風は春を連れて行き、亜里沙の物語を次の季節へ運んでいった。

 屋外での撮影が終わった午後、亜里沙と玲子は久しぶりに二人きりで公園のベンチに腰かけていた。

 蓮と綾子は撮ったばかりの写真を離れた木陰で確認している。

 さっきまで芝生の上を駆けていた亜里沙は、少しだけ顔を赤くして、汗ばむ髪を指で耳にかけた。

「……楽しかった?」

 玲子の問いに亜里沙は静かに頷く。

「うん。……怖くなかった」

 玲子の横顔が柔らかい風に触れて、どこか遠い日の少女のように見えた。

「ママもね、あの頃、怖かったのよ」

 ぽつりと漏れた声に亜里沙は目を見張った。

「きれいだねって言われるのが、嬉しいのに苦しくて……それが、いつまで続くんだろうって……」

 玲子の指がベンチの木目をなぞって止まる。

「だから……亜里沙には、怖くなったら逃げていいって言ってあげたいの」

 亜里沙は小さく笑った。

 その笑顔は、玲子がいつも見せてほしかったものとどこか違っていた。

「……大丈夫。ママがいるから、大丈夫だよ」

 玲子の頬がふっと緩み、小さく亜里沙の頭を撫でる。

 その手のひらはいつもよりもずっと優しく、ずっと遠くまで亜里沙を包んでくれる気がした。

「おーい、名コンビさん。そろそろお開きにしようか?」

 木陰から蓮の声がして、二人は同時に顔をあげた。

 蓮はカメラを片手に、綾子と並んで立っている。

「亜里沙ちゃん、今度の撮影の相談してもいいかな?」

 そう言いながら笑う蓮の背後で、綾子おばさまがウィンクをした。

 いつもの公園の夕方なのに、今日は風景が少し違って見えた。

(この場所から、私は少しずつ……遠くへ行くんだ)

 握りしめた母の手が離れても怖くない。

 そんな自分を亜里沙はほんの少し誇らしく思った。

 春が終わり、少女の物語は次の季節へとゆっくりと歩みを進めていた。

このジャンルはなんだろう。なんとなく書いた作品です。

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