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《アイ》  作者: 百里芳
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 目覚まし時計よりも先に目が覚めた。5:16。いつもより大分早い。

 まるっきり音がしない。家人は誰も目を覚ましていないようだ。

 よくよく耳を澄ませると、遠くの方でキジバトが鳴いているのだけが聞こえる。

 静止した音空間を一瞬乱して、朝刊を配達しているのであろうスーパーカブのエンジン音が家の前の道路を通過していった。

 僕の部屋に一つだけある窓のカーテンの隙間から、細く光が差し込んでいる。

 光芒の中で踊る塵と、僕の静かな心臓の鼓動以外、この部屋で動いているものは無い。

 ――清々しい気分だ。

 これから僕は初めて仲違いした10年来の幼馴染と仲直りする方法を考えなければならないのに。その目途もまったく立ってないのに、憑き物が落ちたみたいに頭の芯からすっきりしている。

 思えば結と顔を合せなかった一週間、僕はろくに食べもせず寝ず、結のことを悶々と考えていた。寝不足でお腹がへってりゃ、そりゃネガティブな思考にもなる。三大欲求って、大切なんだなあ。なんて、変に感心してしまった。

 カーテンを透過した光と、隙間から洩れる光線だけがこの部屋の壁を照らしている。淡い光に照らされた僕の部屋はセピア色の写真みたいで、僕の涙腺をくすぐった。今日はなんだか自分の部屋が柔らかく見える。

 そういえば一昨日も同じようにベッドに横たわりながら、同じように薄暗い部屋の壁を、同じように眺めていた。その時の部屋は淀んだ、冷たい、硬いものに見えていた。

 同じ配置の同じ部屋を、同じ僕の同じ瞳で見つめているのにも関わらず、まったく違うものに見える。それは僕の目の問題じゃない。僕の内側にあるもの。もしかしたら、脳のシナプスの配置のほんのわずかな違い。それが引き起こしている。

 目をつむってもそうだ。耳に届く音。心臓の鼓動。骨や筋肉のきしみ。肌と布とが擦れる音。家鳴り。家の外で空気が流れる音。

 昨日までは、その全てが僕を責めている様な気がしていた。圧の無い圧力で、僕の体が押しつぶされそうだった。でも今日は、音が僕の体を何気なく通過していくのが分かる。ただただ穏やかだ。

 まるで別人に生まれ変わったような気分だった。でも、僕は生まれ変わってなんかいない。涼太さんが励ましてくれて、姉ちゃんが叱ってくれて、母さんの惚気話を聞いて……。僕は僕のまま成長することが出来た。ただ「昨日の僕」が、「今日」の僕になっただけだ。

 「昨日の僕」が「今日の僕」になったように、きっとみんなも成長している。「昨日の姉ちゃん」は「今日の姉ちゃん」になったし、「昨日の涼太さん」は「今日の涼太さん」になっているはずだ。

 人と接する、誰かを友達と認める、恋人になる、ということは、「昨日の君」から「今日の君」へちょっとだけ変わってしまった相手を、ただ静かに受け入れて、また「明日の僕ら」を目指すことなんだと思う。

 僕は、そこで躓てしまった。「ある日の結」がWPRDを装着して「その次の日の結」になった時、それを受け止めてやることが出来なかった。出来なかったから、結に「前の日の結」になることを押しつけようとした。僕も一緒に「前の日の僕」で居続けるからさ、という意味の無い対価を支払って。

 きっと結はいつだって「明日の結」になりたいと思っていたのにだ。多分それも、僕のために。

 

 僕は布団から静かに抜け出す。ベッドに腰掛けたまま携帯端末を手に取り、結に送るメールを制作し始めた。


********************

From:KAGEYAMA Arata

To: KUMOMITSU Yui

日付: 2039年8月28日 5:34

件名: 【無題】

本文:

結、この間はごめん。

ちょっと暴走してた。


また、会いたい。

結の見た世界の事、教えてください。


新 

********************


 多分、たくさんの言葉はいらない。もし結が完全に僕を見限って一人で「明日の結」を目指していたとしても、「今日の結」が「二週間前の結」の連続体であるならば、言いたいことは伝わるはず。

 一日で仲直り出来なくてもいい。もし「今日の僕」が失敗すれば、「明日の僕」がする。「明日の僕」が失敗すれば「明後日の僕」が頑張ればいい。昨日までの僕みたいに、「一ヶ月前」の結を取り戻そうとして暴走しない事、それだけを心がければ良かった。



 爽やかな気分で目を覚ました僕は、自分の頭がハッキリ廻っている様な気がしていたが、気のせいだったみたいだ。早朝五時半にメールを出して、すぐに返ってくるはずが無かった。そんなことすら失念していた。結局僕は、結が目を覚まして、メールに気付き、それに返信するまで悶々とした気分で過ごすしかなくなってしまった。

 仕方が無いので、朝食を作って時間をつぶすことにする。今日は日曜日なので、恐らく母さんもしばらく起きてくることは無いだろう。気まぐれに親孝行をして罰が当たることもあるまい。

 パジャマを脱ぎ棄て、動きやすい部屋着に着替える。たとえ休日であってもパジャマで過ごさないのは、僕の信条だ。

 顔を洗って、一階へ降りる。

 誰もいない居間は、空気がゼラチンで緩く固められたみたいになっていて、その場を乱すのが少しためらわれるくらいだ。出来るだけ空気をかきまぜないように静かに歩いて台所に向かう。

 最初に御飯を炊いておこう。とりあえず二合でいいかな。米櫃から2カップ、炊飯器の釜に直接取り出す。家庭科の教科書的には、ボウルの曲面を使って優しく米を研いで、ざるにあけて乾かしてから……なんて面倒くさい手順を踏まなければならないことになっているけれど、そんな質面倒くさい事、してたまるもんか。手早く研いで、炊飯釜の線の所まで水を入れて、スイッチオン。家族で食べるだけなら、これで十分。

 ご飯を炊いているので、おかずは勢い和風と言うことになる。家の台所に設置されているコンロは三口。その内ひとつでみそ汁を作るとして、残り二口で何品か作ろう。

 冷蔵庫を開ける。この茄子、良いツヤだな。茄子で一皿作って、それから、オクラでおひたしにしようかな。茄子と豚肉の味噌炒め、オクラとみょうがのおひたし、常備采のきんぴら、豆腐の味噌汁! 野菜とタンパク質、脂質も入っているし、今日の朝食はこれで決まり、かな。

 まず、冷蔵庫で保存してあっただし汁を、鍋に入れ温めておく。

 オクラは塩でもんで産毛を取ったら、シリコンスチーマーに入れて電子レンジへ。その間にみょうがを刻んでおこう。レンジにかけ終わったら、冷水に取り、オクラの色が変わるのを防ぐ。刻みみょうが、小口切りにしたオクラ、鰹節を薄い出汁醤油であえて完成だ。冷蔵庫に入れておこう。

 続いて、フライパンに少し多めにごま油をひき、刻んだネギとショウガを投入。香りが移ったら、一口大に切った豚肉を入れる。豚肉が焦げないように気をつけながら、茄子を乱切りにしておく。

 ……そう言えば茄子、僕も結も子どものころは大っ嫌いだったな。僕は茄子のあの見た目が嫌いだった。なんだかカブトムシみたいで恐かったのだ。一方、結は食感が嫌いなのだと言う。小学生の時、結に茄子を食べさせたら、口に入れた途端しかめっ面になり、飲み込むことも吐き出すことも出来ず困っていたっけ。口に茄子が入っているから、声を出して助けを呼ぶことも出来ず、おろおろしていた……までは覚えているんだけど、結局どうなったか思い出せない。 

 今まで意識していなかったけど、嫌いな食べ物が同じでも、その嫌いな理由はまったく違ったんだな。以前の僕は、よくもまあ「僕は結と同じ世界を見ている」なんて恥ずかしげもなく言えたもんだ。

 昔のことを思い出しながら調理していたら、茄子と豚肉の味噌炒めに火を通し過ぎる所だった。豚肉が硬くなってしまう。

 ――もしWPRDを付けた状態で料理をしたら、どんな風に見えるのかな。肉のちょうどいい火の通り具合とか分かるんだろうか。今度、結に手料理とか、作ってもらえないかな。

 もうすでに結と仲直りが出来ることを前提していることに、自分で自分に苦笑い。今は料理に集中しよう。

 最後にみそ汁を――味噌、かぶっちゃったけど、まあいいか――作る。温めて置いただし汁に味噌を入れる。味見した時に、少し薄いかな、と思うくらいがちょうどいい塩梅だ。小皿にとって味見した時にちょうどいいと感じる濃さは、お椀で飲んだ時にはしょっぱすぎる。味噌が溶けたら、火を止め豆腐を投入。最後に豆腐を入れることで、豆腐が崩れるのを防ぐことができる。

 よし、完成。皆あとどれくらいで起きてくるかな、と考えながらポケットの携帯端末の時計を確認する。6:32。そして、新着メール、有り。結からだ。

 僕はあえて大袈裟に、一つ溜息をつき、体面だけでも冷静になったふりをしながら、メールを開く。


********************

From: KUMOMITSU Yui

To: KAGEYAMA Arata

日付: 2039年8月28日 6:20

件名: 結です

本文 

あーちゃんへ


おはよう。

私の見た世界、本当に教えて欲しいの?

知って、どうするの?



>結、この間はごめん。

>ちょっと暴走してた。

>

>また、会いたい。

>結の見た世界の事、教えてください。

>

>新 


********************


 ――結、漢字打てるようになったんだ。

 僕の心が小さくえぐられたように疼いた。でも、気にしない。

 僕は、少しだけ文面を考えて、でも考えすぎないようにして、返信した。


********************

From: KAGEYAMA Arata

To: KUMOMITSU Yui

日付: 2039年8月28日 6:37

件名: 【無題】

本文


結が何を見て、何を感じたか、ただ知りたい。

それが僕の望むようなものでなくても。


この前の僕は、結が、僕の知る結で無くなることに耐えられなかったけれど、今度は大丈夫だと思う。多分。

もしだめだったら、お尻けっとばしておくれ。


********************

 

 僕は、携帯端末を持ったまま、ただ黙って待った。

 しばらくしてから、結からの返信があった。


********************

From: KUMOMITSU Yui

To: KAGEYAMA Arata

日付: 2039年8月28日 7:02

件名: 結です

本文

あーちゃんへ


分かった。

じゃあ、デートしよう。私、安全靴履いていくから。


今日と明日、どっちとも午後から空いているけど、どっちがいい?



>結が何を見て、何を感じたか、ただ知りたい。

>それが僕の望むようなものでなくても。

>

>この前の僕は、結が、僕の知る結で無くなることに耐えられなかったけれど、今度は大丈夫だと思う。多分。

>もしだめだったら、お尻けっとばしてくれ。


********************


 よかった。ちゃんと返事、帰って来た。

 僕は、あまりの安堵にその場でくねくねと怪しい動きをしながら、返信をした。今日の午後1時、駅北口に集合で、あと、安全靴はしゃれにならないからやめてね、と。 

 後ろのほうから、階段を下りてくる音が聞こえる。姉ちゃんが起きてきたみたいだ。僕はポケットに携帯端末を隠し、無駄かもしれないけどポーカーフェイスをして、姉ちゃんを迎え撃つ態勢をとった。

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