5
結と一緒に制服を取りに行ってから一週間。僕はバイトに精を出したり、大学の課題を片付けたりして過ごした。
あれから僕は、結とまともに会うことが出来ていない。
二日に一度は顔を合わせているから、一般的な感覚からすると、顔を合わせる機会が少ない、とは言えないんだろう。でも結の目が見えなくなる前、一日中結と一緒に過ごしていた頃と比べたら圧倒的に独りの時間が長い。
それに結と会うたびに、なんだか結が結じゃない気がしてならなかった。結の代わりに知らない大人が結を演じています、と言われても僕は信じてしまうかもしれない。結は発見した美しい物、感動した出来事、面白かった発見、何でも僕に教えてくれる。でもその結が語る内容は、なんとなく納得できないことばかりだった。カマキリが想像していたのよりずっと可愛かったとか、嫌いだった雨の日が好きになったとか、僕の知っている結は絶対に言わなかっただろう。「綺麗な模様のお花を見つけたの、あーちゃんにあげるね!」と結から渡された花が、真っ白で模様が無かったのを見た時、僕は卒倒してしまいそうになった。結が僕の手の届かない、得体のしれない何者かになってしまった気がした。
現実の結と話していても、ただ心が締めつけられるだけで全然楽しくなれなかった。仕方ないので僕は、一週間ぽつぽつと空いた時間に結の写真をぼんやり眺めることで自分の心を鎮めた。
購入してすぐ制服を試着した結を、僕は携帯端末のカメラ機能で写真に収めた。濃紺のブレザーとチェックのプリーツスカート。まっしろなブラウスに、控えめなリボン。一歩だけおしゃれの方向に踏み出しているその制服は、結にとても良く似合っていると思う。振り向いた瞬間にふわりと舞った黒髪は、指で梳いたらさらりと爽やかな匂いを振りまきそうだ。卸したてのかっちりした制服は、相対的に結の柔らかさを引きたてている。
写真の中の結は、目が見えるようになる前と同じようにはにかんでいる。眼にWPRDが埋め込まれてはいるけれど、たしかに僕の良く知る結の顔だった。
僕はベッドの上で横たわり、しばらくのぼんやりと間、携帯端末の中の結を眺めていた。
視線を画面の左上に滑らせる。19:40。天気:晴れ。そろそろ出掛けようかな。
今夜は、結と夜空を眺めに行くことになっていた。少しくらい時間がずれたって星は逃げたりしないけれど、結を迎えに行く時間を考えると、そろそろ出発したほうがよさそうだ。
身体を横たえていたベッドから起き上がり、クローゼットから薄手の上着を取り出す。八月も中旬とはいえ、夜はそれなりに冷える。それから、携帯端末と、財布と―― あとは何が必要だろうか。
階下でチャイムの音がした。こんな時間に来客とは珍しいな、お隣さんだろうか、なんて考えていると「あらたぁー、降りてきなさーい」という姉ちゃんの声が聞こえた。よくもまあ、あんな気の抜けた喋り方で大声が出せるもんだ。僕は身支度を手早く済ませ、そのまま外出できる格好になってから一階へ降りて行った。
「なに、姉ちゃん?」
「結ちゃん、来てるよ」
何を馬鹿な事を。結が独りで家に来るはずがないじゃないか。
「あーちゃん。……待ちきれなくて、きちゃった」
結がいた。悪戯っぽく「きちゃった」とつぶやく結は、やけに大人っぽくて、まるで結じゃないみたいだ。
「……結、よく独りでこれたね」
「あーっ、あーちゃん、わたしの事子どもあつかいしてるー。わたしだってもうひとりで出歩けるよ。文字通り眼を瞑ったって来れるよっ!」
へー結ちゃん良かったわね―、ありがとうございますー、と姉と結が仲睦まじげに話している。僕はなんだか窓際に追いやられ仕事も与えられない閑職にまわされたサラリーマンみたいな気分になった。
「……まあ、良いや。ちょっと早いけど、行こうか」
うん! と笑顔で返事をする結は、まるで普通の女の子みたいだ。
八月の夜道は涼しかった。青い星の光が、僕らの火照った肌を冷たい手で撫でた。
幸いにも雲ひとつない快晴だ。住宅街の真ん中でも綺麗に星がみえる。
結はもう待ちきれないと言った感じで、いつもよりも大分早足で歩いている。結の歩く速さを考慮してタイムスケジュールを組んだけど、大幅に巻きで進行していた。
「ねえ、あーちゃん。これから行く場所は、どんなところ?」
結がはずんだ声で聞いてくる。僕の正面に立って、後ろ向きに進みながら、まっすぐ僕の目を見ながら。
「僕の通ってた小学校の裏手にね、神社があるんだけど、そこからさらに裏山の方に進んで行くと斜面に少し開けた場所があるんだ。街の光も届かないような所だから、きっとここよりももっと綺麗に星がみえると思うよ。……それより、そんな歩き方しているとまた転ぶよ」
大丈夫大丈夫ー、なんて言いながら結が僕の、右側に、来た。
「そんなことより、あーちゃん。じゃーん! これどう?」
結はそう言って、薄手のパーカーを着た両腕を広げて見せてきた。
「結、そんな服持ってたっけ?」
「この前、お母さんと一緒に出かけた時に買ったの! 色も手触りも気に居る服を選ぶの大変だったんだからね」
そう言う結の顔は、混じりっ気なしの笑顔だった。
結のパーカーは、パステルピンクの、微妙なシルエットの、なんだか妙に部屋着っぽい雰囲気だった。恐らく結の美的感覚は、一般の女子高生のそれとは大きく違っているのだろう。それでも、自分自身で選んだと自慢げに胸を張る結は、その服を完全に着こなしているようにみえた。
楽しそうに洋服の話をする結は、本当にただの女の子みたいだ。結のおしゃべりは神社の裏手の広場に着くまでずっと止まらなかった。僕は初めて聞く結のマシンガントークに面食らってしまって、ただただ曖昧な返事を繰り返すことしかできなかった。さすがに、自分の下着の色の話までし始めた時は慌てて止めた。服の中まで当たり前に透視してしまうWPRD装着者には、僕たちが当然持っている所謂「羞恥心」みたいなものは育たないのかもしれない。やっぱり結は僕が支えなきゃ駄目みたいだ。
久しぶりに来る広場は、数年前の記憶とほとんど変わっていなかった。バスケットコート二面ほど広さに足の短い草が一面に生えわたっている。露も下りていないし、座ったり寝転んだりするのに支障はないだろう。
僕は無言で、結は、ほえーと一つ息を吐いてから、適当な場所に腰を下ろす。
二人で黙って宙を見上げる。
僕らを包む生ぬるい空気とは裏腹に、夏の星空はどこまでも冷たく透き通っていた。それでいて、火打石からはじけた火花が時間を止めてしまったかのように熱を内に秘めている。
ぎらぎらと尖る星の光を眺めていると、まるでここでは無いどこかの時間を過ごしているみたいで、実際星の光はそうなんだろうな、とひとり納得してみる。地球と星々との距離を考えると、あの星からの光は10年前に放たれた光、あの星からは18年前の光、あの光は8年前、あの光は1週間、この光は昨日の光。色々な過去の光たちが、いまここに居る僕と結とに同時に降り注いでいる。二人の間に言葉は無いけれど、人類には理解できない光の歴史の奔流を、二人して無言で受け止めている。
「……あーちゃん」
結の声が、ぽつりと届いた。
「ありがと、ね」
うん、と返事をしたかった。でも口を動かすのさえ億劫だった。
それでも結は、僕の無言から、僕の言いたかったことを感じ取ったらしい。また空を眺めるのに戻った。
上を向いたまま、結が小さな声で言った。
「あーちゃん、将来の夢は?」
「……なに、それ。青春っぽい問いかけだね」
「『若者たちが夜空を眺める時は、必ず未来の話をしなければならない』って、《教授》が言っていたじゃない」
ちなみに、結の言う「教授」とは、僕らの愛読書、金子利典著『2万メートルの心の距離』(丸山文庫)の登場人物の名前である。
「そうだね、公務員にでもなって、安定生活かな。時間も自由に使いたいし、結と一緒に居る時間を出来るだけ確保したい。……まあ、今時は公務員になるのも大変らしいけど」
「なに、それ。堅実ー!」
そう言って、結はわざとらしく笑った。
「わたしはね……、どうしようかな。急に目が見えるようになっちゃって、生活がまるっきり変わっちゃって。今まではあーちゃんに必死についていくことだけを考えてたけど、これからどうしていいか、まだわかんないや」
「……目が見えるようになっても、僕と結の関係は変わらないよ。結が迷っている時は僕が引っ張っていく」
僕がそう言うと、結は何故か泣きそうな顔になった。そして泣きそうな顔のまま「ありがと」とつぶやくと、顔を僕の顔の方へと近付けてきた。しっかりと目が合う。僕の鼻から結の鼻まで、直線距離で16センチ。結の「目」をしっかりと見るのはこれが初めてだ。一見普通の目と変わらないけれど、その虹彩は黒真珠みたいに不思議な輝きを放っていた。
結が目を閉じる。つられて僕も目を閉じる。
結の息が近づいてくるのが、はっきりとわかる。
5センチ、4センチ、3センチ……
二人の距離がさらに近くなる。直接肌を触れ合っている訳でもないのに、結のぬくもりを感じる。
2センチ、1センチ……
ほんのわずかな距離。体温も吐息も、もう混ざり合ってしまって、僕らが二人だということが信じられない。
そして、ついに二人の唇の距離が0に――
――ならずに、ややマイナスになった。
ガチン、と硬質な音が頭蓋に響いた。間髪をいれずに唇にチクリとした痛みが走り、口に血の味が広がった、ような気がした。僕の前歯の神経は、じんじんとした痛みを脳につたえている。
唇の柔らかさを期待していた僕は、思い掛けない奇襲に混乱しながらも目を見開く。目の前に、口を押さえながら痛みをこらえる結がいた。眉を寄せ必死に痛みに耐えている。
僕と結が「こういう仲」になってから、幾度となくキスをしてきたけれど、失敗するのは初めてだった。
「てーっ……。ちょっと唇切れちゃったかも。結、大丈夫?」
結の唇を確認する。幸い血は出ていないみたいだ。
「いたた……。ごめんね、あーちゃん。失敗しちゃった」
「僕こそ、ごめん。それにしても、いまさら歯ぶつけるなんてね」
「ううん、わたしのせいなの。あーちゃんの顔見てたら、距離感間違えちゃった」
「あれ? 結、目閉じてなかった?」
「閉じてたけど、見えたの。……WPRDは自分の瞼も透視しちゃうんだ」
「意外と融通聞かないんだね、最新技術なのに。ずっと見えてると疲れちゃったりしないの?」
「付けてすぐはまともに夜も眠れなかったなあ」
小さく息を吐いて、結は草の上にあおむけに寝転んだ。そして瞼を閉じてから、顔に影ができるように宙に手をかざした。
「こうやって目をぎゅってつむっても、掌で夜空をおおっても、星の光はそれをすり抜けてわたしの網膜にささるの」
それは結のひとりごとだったのだろうか。聞こえないくらい小さな小さな声で、結はつぶやいた。そして、すっと僕のほうを見てから、
「この目は、見えすぎてわたしにはちょっと疲れちゃうけど、まばたきをする一瞬の間でさえあーちゃんを見逃すことが無いのだけは嬉しいな」
結はそう言った。照れたり、恥ずかしがったりせず、ふふっと笑った。その顔は決して「恋する少女」ではなく、もっと成熟したなにかだった。
一時の無言。
風が草を撫でる音が、耳に心地いい。温かい風の指が、僕の髪を梳いていく。子供の頃お母さんに優しく頭を撫でられたのを思い出す。
「……『お日様が出ている時に何度逢瀬を重ねるよりも、お月様の立ち会いのもとで一晩語り明かした方がずっと仲良くなれる。夜には人を素直にする力がある』……。賀古ミライ先生の『王子様は女の子の夢をみるか』第12巻に書いてあったよ」
結が、つぶやいた。
「あーちゃんは、もしかしてわたしともっと仲良くなろうとして、ここに誘ってくれたのかな?」
僕の反応も待たず、結が続ける。
――ちょっとまて、何かがおかしい。
「そうだとしたら、わたし、うれしいな」
――何かが引っかかる。
「ねえ、あーちゃん。『王夢』のフィリップ様とメリーちゃんね、ついに結ばれたんだよ」
――まさか。
「二人もね、こんな星空の下でおしゃべりしてね、やっと自分に素直になれたの」
――やめろ。
「だからわたしたちもね」
――やめろ。
「二人みたいに、」
「やめろ!」
思わず、大きな声が出た。
結は目を見開いて、固まっている。
結と出会ってから10年。僕は初めて結に向かって、怒鳴った。
でも、許せないんだ。これだけは。
「……やめろよ。僕まだ、12巻、読んでないんだよ!」
「あっ、そうだったの?! ごめんね、あーちゃん」
「ネタバレだけは、許せないんだ! ていうか、12巻って最新刊じゃないか、いつの間に読んだんだ!?」
「昨日、お母さんとお買い物に行ったときに売ってたから、つい……」
「あぁぁぁ……。なんだかんだ、僕も楽しみだったのに……。というか、『王夢』の連載が始まってから6年間、結に読であげるのは僕の役目だったのに……。そっかぁ……、独りで読んじゃったのかぁ……。挙句ネタバレかぁ……」
「あーちゃん」
ウジウジとへこむ僕に、結が声をかけてきた。芯が通った、ハッキリとした声だった。
「あーちゃん、わたしね、もう一人で漫画、読めるんだよ。お買い物も行けるし、多分もうちょっと慣れればきっと小説も読める。一人でお出かけも出来るし。……もう、あーちゃんに、何でもかんでも手助けされなくても、わたしは大丈夫なんだよ」
結は静かに言った。10年間で一番透き通っていて真っ直ぐな声だった。
「……急になに、言ってるんだよ、結」
「だからね、あーちゃん。あーちゃんがわたしのために、わたしと一緒に居ようとして公務員になりたいって言ってくれるのは嬉しいけど……。わたしがWPRDを付けてまで見たいと思った世界は、あーちゃんと一緒に見たいと思った世界は、きっとそういうじゃないと思うの。あーちゃんは、あーちゃんがやりたいことをやって欲しいの」
なんだよ、それ。
「……ちょっと、結が言っている意味が分からないよ。別に僕は結のためだけに公務員になろうとしている訳じゃないんだ。いいじゃないか、公務員。クビにはならないし、人のためになるし、サイコーじゃないか!」
「ちがう、ちがうよ。あーちゃんは他にやりたい事、いっぱいあるのに、それを見ないようにして、自分に目隠しをして、諦めてる。わたしが好きなあーちゃんは、目の見えないわたしを引っ張ってくれたあーちゃんは、逃げたり諦めたりする人じゃなかったよ。わたしにいろんな世界を教えてくれるために、いっぱい工夫していっぱい勉強して、たくさん方法を試して……わたしがちゃんと笑えるようになるまで、諦めてなかったよ。だからね、あーちゃん、」
「結に、なんで僕の心が、心の中が分かるんだよ。結が僕の将来について聞いてきたのも初めてだし、僕だって話したのは初めてだ。それをなんで、逃げとか諦めとか、そう言いきれるのさ」
「わたしには分かるよ。見える、の。WPRDを付けてからまだ一ヶ月くらいしか経ってないけど、わたしはずっとあーちゃんのこと見てたもん。目をつむっている時だって、見逃してないよ。あーちゃんが喜んでいる時、嘘ついてる時、わたしの事考えてくれている時、全部のあーちゃんの『色』を、この目は捉えてきたよ。体温とか、内分泌とか、血流とか、そういうもの全部、わたしには分かるの。世間一般の感覚で上手に嘘をついても、わたしには嘘か本当か分かっちゃうんだ。『公務員になりたい』っていった時のあーちゃん、全然楽しそうに見えないの。だから、あーちゃん、」
話しながら、結は泣いていた。僕は混乱して、頭が真っ白になってしまっていた。ほんのわずか残っていた脳みその冷静な部分は、WPRDつけてても涙は流れるんだな、なんて場違いな事を考えていた。
「だから、あーちゃん。これからは、自分に嘘、付かないで。自分の好きな事、いっぱいして。わたしの事は、もう大丈夫だから」
なんで結はこんなこと言うんだろう。僕の人生は結のためにあるのに。いや違う。僕らは見えているものが違っても同じものを視ることが出来る、互いに信頼し合った仲じゃないか。どちらかがどちらかに奉仕するような関係じゃない。いいや、そうでもなくって……。だめだ、思考が、まとまらない。
「それは、なに。なんなんだ? 目が見えるようになったら、」
いや違う、こんな事言いたいんじゃない。でも混線しきった思考回路は、身体を上手く制御することが叶わなくなっている。僕の口は、滑って滑って、ただ心の奥に溜まった澱を吐きだすだけのマシーンになってしまったみたいだ。
「目が見えるようになったら、僕なんて必要ない。そう言う事かい?」
一番言いたくないことを、言ってしまった。
結は一瞬目を見開いただけで、声は出さなかった。
草を撫でていた風が止んだ。
呼吸の音すら聞こえない、完全な静寂が訪れた。
そのはずなのに、僕の耳はぐわんぐわんという、揺れるような低音を感じていた。
きっと、僕の心臓が揺れる音なんだと思う。
「そうだよね、高校に入ったら、新しい友達もできるだろうし、」
ああ、自分が何を考えていたのか、自分の本心が何なのかすら分からない。でも、きっとこの膿は出し切るまで止まらない。
「あーちゃん」
たぶん、結の声だ。僕の脳みそはすっかりぐらぐらになってしまって、人の声さえきちんと判別できない。
「わたし、帰るね。……独りで、帰れるよ」
そう言って、結はいなくなった。
僕はその場に残って、独りごとを言っていた。実際に声に出ていたのか、心の中で内省していただけなのかどうかはわからない。ただ溜まった、変にどす黒い、タールのような、澱のような、固まった血液のような、膿のような、ともかくそういった感情を吐き出してしまわないことには、その場から動くことさえできなかった。
それから、家に帰って寝た、筈だ。気が付いたらベッドの中で、朝だったから、きっとそうなんだと思う。