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《アイ》  作者: 百里芳
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 僕が久しぶりに「サトリ」を読み語りした日から、一ヶ月。

 夏も盛りで、外に出るのも億劫なくらい熱かった。

 家の外に一歩出るだけで、上からは太陽の熱線が、下からはアスファルトの放射熱が襲ってくる。額と背中から急に汗が噴き出てきて、べたべたと僕のTシャツを濡らした。

 自室に引きかえしてクーラーの効いた部屋で自堕落に過ごそうか、と真剣に悩んでしまうほどだ。でも、今日だけはひきこもっている訳にはいかない。

 今日は、結が目の手術と最低限のリハビリを終え、退院をする日だ。退院する時刻に遅れないように、やや急ぎ足で地下鉄の駅へ向かう。

 結が受けた治療は、「広周波(Wide-renge)光子(Photon))受信(Receiving)デバイス(Dvice)」通称「WPRD」と呼ばれる機械を装着すると言うものだった。なんでも可視光線を含む広範囲の電磁波を受信し、それを脳が受け取れる形の信号に変換する装置を義眼として、眼窩の位置に埋め込むらしい(僕にはどうしても人体改造にしか思えない)。ここ20年ほどで開発されてきた技術で、動物実験も終り現在人間に適応するかどうか慎重に判断する段階にきていると言うことを、あの日結は僕に時間をかけて説明してくれた。結は、第40期目くらいの被験者と言うことで、ある程度安全性は確保出来ているとのことだ。

 目が見えるようになるかもしれない。この話を聞いた時、僕は始め驚き、次に戸惑い、次第に喜びが湧きあがってきた。結が僕と同じ世界を見てくれる。美しい景色のあの場所も、一緒に見たかった映画も、昔読んであげたあの絵本も、全部結に見せてあげることが出来るんだと思うと、期待感で胸がいっぱいで、喉がつまりそうだった。

 でも、WPRDを装着することになったと話す結の声はそれほど明るくなかった。結の話によると、WPRDは単純に目が見えるようになるのとは少し違うらしい。

 広周波(Wide-renge)光子(Photon))受信(Receiving)デバイス(Dvice)は、その名の通り、広い範囲の光子を受信する。可視光線外の赤外線や紫外線X線なんかも「見える」らしい。WPRDを付けた視覚障害者は、「一般人並みに目が見える」という段階を飛び越して「普通の人間には見えない物まで見える」ようになってしまうのだ。結はそのことを、まるで自分がサトリの化け物になってしまうような気分で受け止めていたという。



 結が入院している大学病院は、地下鉄で7駅離れた場所にある。結が入院してからたびたび訪れてはいるけど、見るたびに建物の大きさに気押される。なんだか白くてでかくて角ばっていて、僕が入るのを拒んでいるようにさえ見えてしまう。

 僕は、彼女が入院してから2、3日に一度のペースでこの病院に来ている。でも、結とは一度も顔を合わせることが出来ていなかった。手術直後は経過を見るため、リハビリの最中はWPRDのデータ収集のため面会を断られ続けていた。家族や親しいご友人で、本人に承諾が取れれば面会時間内でお話しできますよ、と看護師さんに教えてもらったんだけど、いざ病室の前まで来るとなんとなく会うのが怖くなってしまって、なんだかんだと理由を付けて、自分に言い訳をして、病院から逃げ帰っていた。お見舞いの品を忘れたとか、まだ大学のレポートが終わっていないからとか、後頭部に寝癖が付いていたからとか、今考えればお見舞いを中断する理由になんかならないのに。

 でも今日ばっかりは、逃げるわけにはいけない。「あーちゃん」は何時だって結の手を引っ張っていかなければならないのだ。これまでもそうしてきたみたいに。



 受付で、本日退院する雲光結の迎えに来たんですが、と告げる。受付のお姉さんは、今退院手続き中ですがご本人はまだ病室に居ると思いますよ、と教えてくれた。

 結の病室である508号室に向かう途中で男子トイレに立ち寄る。手洗い場にある鏡で、自分の髪と服装をチェック。短めの髪はちゃんとセットしてきた。結の好きな手触りの服は、きちんと洗濯をしてアイロンをかけてきた。出来れば顔も新調してカッコイイのに付け変えたいものだが、そう言う訳にもいかない。

 鏡に映る自分と、たっぷり5秒間目を合わせる。

 いつも通りの特徴の無い顔だ。さほど高くない鼻、目立たない奥二重、薄い唇。くっきりした眉だけが、童顔にアクセントを加えている。髪の毛は結のリクエストで短く切りそろえられている。何でも触った感触が楽しいらしい。

 ふう、と腹から一つ深い息を吐いて、男子トイレを後にする。

 結がいるはずの508号室は、聞いた話によると個室だそうだ。ノックして入れば良いのかな、きっと結のことだから僕のノックの音くらい聞き分けるだろう、なんて考えながら部屋の前にたどり着く。

 ……どうしよう、ドアが開いている。入口にはカーテンがかかっており、お日さまの光を透き通らせるばかりで、中の様子は解からない。

 ……どうしよう、ノックが出来ない。

 三秒でたてた計画が一秒で崩れ去ってしまって、僕は少し焦ってしまった。軽くノックをして、久しぶりーって感じで、あくまでもいつもどおり何気ない感じで再会をしようと思ったのに。ドアが開いてしまっていてはそれが叶わない。

 どうすればいいんだろう、なんて僕がカーテンの前でひとり汗をかいていると、カーテンの向こうからぱすんぱすんと気の抜けたスリッパの足音が聞こえてきた。足音はカーテンの前まで来ると、一呼吸置いた後さーっとカーテンを開けた。

 結だった。

 口元を少し変な形に歪めながら、僕の顔を、きちんとピントの合った目で、見上げている。

 ――結、久しぶり、と声に出したかったけれど、出せなかった。喉だけがぱくぱくと動いて、肺からまったく息が流れてこなかった。

 不意に、とん、と僕の鎖骨に軽い物がぶつかってきた。

「……あーちゃん。あーちゃんだ」

 結が、なんだかやけに控えめに僕の胸に飛び込んで来ていた。

 僕の胸に余所余所しくすがる結を、そっと抱き寄せてやる。結の細い肩に手をまわし、その身体の柔らかさを一ヶ月ぶりに確認した。



 それからどれくらいそうしていただろうか。視界の端に、何やら気まずそうに立っている看護師さんらしき人物が映った。退院の手続きが終わって、それを知らせに来てくれたらしいのだが、声をかけるタイミングを窺っていたらしい。やけに軽いノリの本人の言葉を借りるならば、「なんだか青春しちゃってる感じのワカモノたちに水を差すのも悪いかなーって。おねーさんもあんな感じの感動の再会、してみたいなー」とのこと。



 僕と結は、そろって大学病院を出る。右腕には結のトランクケースを、左腕には結を。でも前ほどしっかりとしがみつく必要は無いらしい。結は、僕の左腕の肘あたりに、ちょんとかるく掴まっている。

 結の退院に付き添うのは僕だけだ。彼女の両親――父親は現在仕事で出張中、母親はパートらしい。彼女の母親曰く「新君なら大丈夫よね。結の事お願ね」という軽い一言で、重い任務を押しつけられてしまった。彼らは昔から結に対してやけにドライだ。

「あーちゃんの顔、初めて見た……。もう10年も一緒に居るのになんだか面白いね、初めまして、あーちゃん」

「……ごめんな、こんな顔で」

「なんで謝るの?」

「いや、なんとなく。もっとかっこいい顔なら良かったんだけど。顔も知らないままに付き合っていた恋人が、こんなのだったら……ショックじゃないのか?」

「わたし、かっこいいとかかっこわるいとか、良く分からないんだ。というか実はまだ、人の顔を判別するのがちょっと苦手。でもあーちゃんの事はすぐわかったよ、匂いで!」

 結の満面の笑み、そう言えば久しぶりに見たな。

 手術を受けると僕に告白するちょっと前から、結は何かに思い悩んでいた様だった。その時はあまり深く考えていなかったけれど、多分結は手術を受けるか受けないか、悩んでいたんだと思う。結の事を世界で一番理解している、なんて言いながらなんと言う体たらくだよ、僕。

「そんなことよりもわたし、あーちゃんが面会に来てくれなかったのが寂しかったなぁ。あーちゃんが見られる! ……と思って手術室に入ったのに。一ヶ月間、来る日も来る日も作業療法士さんと看護師さんと先生の顔しか見れなかったんだもん」

 めそめそ、と結はわざとらしく落ち込んでいる。やはり彼女は演技が下手だ。

 でも、面会に行かなかったのは確かなので、素直に謝っておく。

「うん、ごめん。……大学生の夏休みは思ったより忙しくて」

 とっさに少し嘘をついてしまった。

「……なーんてね! わたしちゃんと、あーちゃんの顔、見てたよ」

「どういうこと?」

「あーちゃん、よくわたしの病室の前までは来てくれてたでしょ。あれ、わたし見えてたんだ。わたしの『眼』――WPRDは壁の向こうの景色も見ることができるみたい。ちょっとぼやけちゃうけど、あーちゃんの形とか色とか、熱とか全部見えてたよ」

 事前に聞いていたが、WPRDは予想をはるかに超える高性能らしい。まさか壁を透視出来るとは思わなかった。

「すごいな、透視が出来るなんて」

「他の人たちが、壁の向こうを見ることが出来ないって、わたし最初信じられなかったんだ。壁の向こうの音を聞くことが出来るみたいに、壁の向こうも見ることが出来るんだと思ってた」

「ところで、壁が透けて見えるってことは……。結、まさか、服も透けてみえる、とか……?」

「うん、見えてるよ。でも多分あーちゃんが想像しているのとはちょっと違うみたい。服が透けて身体だけハッキリ見えるんじゃなくて、服も身体も、両方いっぺんに見えているんだ。わたし――WPRDにとってはこれが普通らしいから、恥ずかしいとかあんまり良く分かんないんだけど……」

 眉をひそめ、結は沈んだような顔を見せる。

「いや、別に落ち込むような内容じゃないと思うんだけど。それにしても、少し恥ずかしいな。いまも僕の、裸、見えてるって、ことでしょ」

「そうだけど。なんで恥ずかしいの? あーちゃんの体は、目が見えるようになる前から全部知っているから、いまさら恥ずかしがることも無いと思うんだけど……」

「……男心ってのは、複雑なのさ」

 違う感覚器を持つ者同士が分かりあうのはなかなか難しい。それに、結は昔から少し天然だから、なおさらズレていっている気がする。

 入院中の話を聞きながら、結を家まで送って行った。そのまま二人で再会を喜び合っても良かったのだが、荷物の整理もあるし、彼女にも家庭がある。退院当日くらいは一家団欒を優先させてやるべきだろう。



 結の家から僕の家までは徒歩15分ほどだ。結を家まで送り届けてから、途中のコンビニでアイスを買って家に帰ったら、もう17時をまわっていた。廉価なスイカ味のアイスはお風呂上りに食べることにして、いったん冷凍庫へ。

 居間から聞こえてくる、姉ちゃんの「おかえりー」というだらけた声に、「たー」とだけ返事しながら、二階の自室へと向かう。

 ベッドに倒れ込み、サイドテーブルの充電器に携帯電話をセット。

 今日、僕のアドレス帳には一件の新しい情報が追加された。結のメールアドレスだ。

 これまで結とは音声通話のみで連絡を取り合っていたが、今度からはメールすることが出来るんだ。

 アドレス帳を開き、結のアドレスをもう一度確認する。初期設定の、無意味な文字の羅列。こんな暗号みたいな文字列が愛おしく見える日が来るとは思わなかった。

 画素の荒い画面を見ながらニヤニヤしていると、メールが届いた。結からだった。

 僕はベッドに横たえていた上半身を起こすと、やや汗ばんだ人差指で携帯端末を操作した。


********************

From: KUMOMITSU Yui

To: KAGEYAMA Arata

日付: 2039年8月10日 17:19

件名: ゆいです

本文 

あーちゃんへ


ゆいですめーるおくってみます ちゃんとおくれてるかな

こんどどこかにあそびにつれていってね


ついしん

かんじがかけません たすけて


ゆいより

********************


 おいおい。今時こんな古典的なメール打つ奴いないぞ。漢字変換アシストはどうしたんだ?

「まったく……。もうちょっと僕が付いててやんなきゃ駄目だなぁ、結は」

 僕はわざわざ声に出して言う。自分でもわかるくらい、声に昂りが混ざっている。

 さて、結と一緒にどこへ行こうか。

 海もいい山もいい、青空も夜空もいい。 

 結に見せたいものは沢山ある。結に話してやるために、見てきたものが沢山あるんだ。

 博物館、美術館に行ったら、結なんて言うだろう。洋服を買いに行くのも楽しそうだ。チャップリンの映画は、これまで僕が勝手に文章化したものを話して聞かせてやることしか出来なかったけど、これからは肩を並べて一緒に見ることだって出来る。結が来るようになってからめっきり使う頻度が少なくなって部屋の片隅に追いやられた旧式の小型プラズマビジョンも、やっと日の目を見ることが出来る。そうだ一緒にゲームをやるのも良いかもしれない。きっと結はゲーム得意じゃないだろうけど、僕が教えてあげればいい。

 あれこれと想像が広がって、収拾がつかなくなって来た時、下から「ごはんよー!」という母さんの声が聞こえた。聞き慣れた母親の声すらなんだか優しげに聞こえた。

 ご飯を食べたら、お風呂に入って、スイカバーを食べて、今日は早めに寝よう。

 そして朝一で、結に会いに行こう。……いや、もうこれからはメールで連絡が取り合えるんだ。

 今晩メールを送るときに、明日の予定を聞けばいいんだ。








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