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児童会館のプレイルーム。その真ん中に立つ僕と、僕が手に持っている絵本に、いくつもの、期待に満ちた視線が向けられる。8人の子どもたち――恐らく小学校低学年から中学年だろう――が思い思いの姿勢で淡いオレンジ色の絨毯に直に座り、僕の読み語りに聞き入っている。
「『《助けてくれ》、と思ったろう? 《逃げる場所は……》、と思ったろう?』サトリは男に向かって言いました。考えたことが良い当てられてしまったので、男は恐くなってしまいました――」
今日の読み語りの会の題材は「サトリ」だ。心を読む妖怪「サトリ」の伝承を元に創作された絵本は、小さい子には少し難しいかと思ったが、主人公の男と妖怪サトリのどことなくユーモラスな掛け合いが予想以上に好評だった。鳥獣戯画風のおどろおどろしい絵、サトリが今にも男に襲いかからんとするスリリングな展開。子どもたちは恐がりながらも、絵本から目を離せないでいる。
「サトリが男を頭から食ってやろうと大きく口をあけたその時、焚火の中の薪がぱちんとはねて、サトリの口の中に入りました。『あつい、あついよぉ~!』思い掛けない事が起きたのでサトリは大慌て――」
いつもより大袈裟に、声色を使って演じてやる。子どもたちの反応があまりに良かったので、僕はすっかり良い気になってしまっていた。
それに―― 僕は、プレイルームの一番奥、子どもたちから離れてひとり壁に寄り掛かって目をつむっている高校生くらいの少女を、ちらりと見る。雲光結。一つ年下の僕の幼馴染だ。彼女は生まれた時からまったく目が見えない、全盲だった。彼女に伝わるよう、音だけでも場面が想像できるよう、僕はいつも以上に声の演技に熱を込める。
「――サトリは、山の奥へ逃げて行きましたとさ。しゃみしゃっきり。……めでたしめでたし」
小さな拍手がおこる。子どもたちの小さな手では、拍手の音はちゃんとならないみたいだ。それに、子どもたちは僕を称えるよりも、自分のしたい事を優先する。次これ読んでー、その本見せて―、しゃみしゃっきりってなぁにー、と口々に言いながら僕の足元へ群がってくる。
「はい、今日のお話し会はこれでおしまい! また来るからねー」
えーっ! という子どもたちの非難の叫び声に後ろ髪を引かれながらも、帰り仕度を始める。かまってやりたいのはやまやまだが、奴らに付き合ってやるのには時間も体力も足りない。
手早く絵本を棚に戻すと、プレイルームの一番奥、壁に寄り掛かって座っている結の方へ向かった。足音を手掛かりに、結は目を閉じたまま顔だけ僕の方へ向ける。
「結、お待たせ」
「ううん、面白かったからあっという間だったよ」
僕は結から預けていた荷物を受け取ると、そっと彼女の手を握ってやる。結は、両手で僕の腕につかまるとそれを支えにして立ちあがった。そしてそのまま僕と結は腕を組み、ヴァージンロードを歩むのと同じ速度で児童会館を後にする。
児童会館の扉をあけると、熱気が一度に僕らを包み込んだ。
初夏の日差しは思いのほか鋭い。灰色のアスファルトですら、日光に照らされて柔らかい白さを湛えている。
光に突き刺されて、目の奥は鈍い痛みを訴えている。つい瞼を閉じてしまいたくなるが、僕には目をつむる訳にはいかない理由があった。盲目である結と腕を組んで歩いている時だけは、どんなことがあっても目を伏せてはいけないし、どんなに暑くても組んだ腕を振り払うことはしない。僕が8歳、結が7歳で出会ってから10年間続けてきた習慣だ。
僕は結の歩調に合わせてゆっくり歩く。結をリードするために、いつでも3センチだけ先を歩く。僕と結の身長差は、16センチ。時々こつんと僕の左肩に、結の頭が当たる。なんだかくすぐったい。
結は、抱きかかえている僕の左腕を、少しだけ強くきゅっと抱き締めた。それが結の癖なのか、それとも「話しかけるよ」という合図のつもりなのかは分からないけど、ともかく結は話しかける直前に僕の腕を抱きしめる。そう言うことになっていた。
「あーちゃん、『サトリ』読むの久しぶりだね」
彼女は僕を「あーちゃん」と呼ぶ。僕の名前「新」の頭文字をとって、「あーちゃん」。
「そうだね、前に読んだのは……いつだっけな。下手したら一年くらい読んでないかも」
「あーちゃん、昔より『サトリ』上手くなったよ。わたしこのお話好きだから、もっと聞かせてほしいな」
「結、こんな地味な話が好きなの?」
『サトリ』のお話しは、起伏に乏しい。ただ人間の心を読む妖怪があらわれて、人間を散々恐がらせた挙句、食べるのに失敗して逃げていく、それだけだ。
「えーっ! 忘れちゃったの、あーちゃん? あーちゃんが一番最初に私に読んでくれたお話、『サトリ』だったんだよ」
「そうだったかな……」
僕と結は、10年前児童会館で出会った。さっき読み語りをしていたあのプレイルームが僕と結が初めて出会った場所である。10年前のある日、国語の先生に音読が上手いとおだてられ調子に乗った新少年は、何を思ったのか放課後児童会館に直行し、プレイルームのど真ん中で我が物顔で絵本の朗読を始めたらしい。観客は、その時偶然児童会館を訪れていた結とその母親だけだった。それ以来僕と結は、なんとなく仲良くなり、一緒に遊ぶ――といっても、僕が本を読み結が聞くだけ――ようになった。
「そうだよ! あーちゃんは、わたしとの大切な思い出、忘れちゃったんだ……」
しくしく、と結はわざとらしく落ち込んでいる。昔から彼女は演技が下手だ。
不意に、ねえ、あーちゃん、と結が息が半分ほど混ざったかすれ声で話しかけてきた。んー、と喉の奥だけで唸って返事をしてやる。
「わたしね、昔からずっと考えてるんだ。人の心が分かったらどんな感じなんだろうって」
「そりゃあ、僕らが思っているほど楽しくは無いんじゃないかな。心が読めたって、占い師か詐欺師か、プロ雀鬼か……せいぜいそんなもんにしかなれないと思うし」
「ううん、そういう事じゃなくてね。……『サトリ』のお話しでは『助けてくれ』っていう気持ちが『助けてくれ』っていう文字で読みとれるみたいに書かれているけど、人間の心ってそう言う風に文字であらわせるものばっかりじゃないって思うの」
そこまで言うと、結は僕の左腕をきゅっと抱いて、見えていない眼を僕の顔の方へ向けた。
「わたしがあーちゃんを好きだって気持ちも、言葉にできないもん。『好き』だけじゃ足りないし、『愛している』はなんだかうそっぽい。いっつも掴まっているあーちゃんの左腕が、なんだかたくましくなってるなって思った時のドキドキとか、いつも右側から聞こえてくるあーちゃんの声がたまに左側から聞こえた時のくすぐったさとか……モヤモヤしてて、言葉になんかできないよ。サトリがわたしの心を読んだら、サトリまであーちゃんのことが好きになっちゃうかもしれない」
結は、自分の好意を僕にぶつけることにためらいがない。身ぶり手ぶりなど視覚的な情報伝達が苦手な結は、そうでもしないと相手に気持ちが伝わらないと思っているのだろうか。必死に言葉を重ねて、光を写さない瞳で、腕を抱きしめる力の強さで、結は僕に愛を語る。
ど真ん中ストレートの愛情表現には慣れているはずなのに、なんだか照れてしまう。顔が赤くなるのが分かる。僕は浅くなってしまった呼吸を、昂ぶった感情をおさめようと静かに深呼吸を試たけれど、上手く行かなかった。夏の初めの太陽に暖められた空気は、どこかぬるりとしていて、肺の奥の方に溜まっていくようだ。ただでさえ結は僕の左腕――心臓に近い方に居るのだ。胸の高鳴りがばれてしまいそうだけど、でも彼女の腕を振り払うことも出来ない。僕はややこわばった身体を、こわばったままにしておくしか出来なかった。
しばらくの間、僕と結の間に言葉は無かった。
結は照れ屋だ。僕に向かって愛情を口にした後は、気恥ずかしさからか口数が少なくなってしまう。僕は僕で、まったくの無駄な面子を保とうと、冷静な男を演じようとして口が滑らかに動かなくなるので、やはり口数が少なくなる。
お互いがお互いに照れくさくなって、無言になる時間。なんだかむずむずするけれど、これはこれで心地良いものだ。目が見えない彼女との「言葉の無いコミュニケーション」と言うのは、多分他の皆が思っているよりも深い意味を持っている。この無言は、僕と結の10年の積み重ねによって支えられているのだ。
ただ黙って、ゆっくり歩いているうちに、僕の家に到着した。児童会館から徒歩15分。10年前は30分以上もかかっていた距離が、あっという間だ。
「あーちゃん、お邪魔していっても、良い?」
結が訪ねてくる。何時もなら、断りもなく寄っていくはずなのに珍しいな、なんて思いながら「良いよ」と返事をしてやる。
右手だけでポケットから鍵を出し、解錠。家の中は暗かった。外気とはまた違った粘り気のある熱気だけが出迎えてくれた。クーラーもついていない。家には母さんも姉ちゃんもいないみたいだ。
結に、先に僕の部屋に行ってて、と告げる。彼女は文字通り目をつむっていても、僕の部屋に行くことができる。我が家の間取りは完璧に頭に入っているし、身体にも染み付いているはずだ。僕の両親は彼女が遊びに来ることを昔から歓迎しているし、彼女も独りでいるよりは僕と一緒に居ることを望んだ。自惚れでも何でもなく、10年前から彼女の居場所は僕の左隣である。僕が家に居る時、結も僕の隣に居るのは当然のことなんだ。
冷蔵庫から麦茶と取り出す。僕の緑色のマグカップと、結の取っ手が大きめの深いマグカップを手にして、僕は自室へ向かう。
結はいつも通り、彼女用のやや厚めの座布団を敷き、四角いテーブルの一角に座っていた。僕はテーブルにマグカップと麦茶を置き、彼女の右隣に腰掛ける。
「ねえ、あーちゃん。心が見えたらさ、どんな感じになるんだろうね」
また、その話か。結はもしかしたら、僕に甘える切っ掛けを探っているだけなのかもしれない。
「さあね。でも、僕は心の中を見たいなんて思わないな。だって一番知りたい人の事は、心の中をのぞかなくたって良く分かっているからさ。……結、僕以上に君のことが分かっている人が、他に地球上にいるかい?」
演技がかった口調で気障に応えてやる。さっきのお返しだ。
恐らく僕は世界で一番、結という人間のことが分かっている。結本人が知らないことでも、僕は知っている。彼女の肩までまっすぐ伸びた黒髪の艶やかさも、白い頬のみずみずしさも、桃色の唇の柔らかそうな色彩も、彼女自身には知りようがない事だ。
「そう言う事じゃなくってさ……えっ? ちょ、ちょっと」
右手で彼女の頬を、左手で彼女の顎を優しく捕まえて、少し上を向かせる。そしてそのまま、彼女の唇に自身の唇をそっとおとす。
彼女は僕の服を握って、ただそれだけで、僕を受け入れてくれた。
彼女の唇の柔らかさは、僕の唇だけが知っている。僕の唇は、その解かりきっている事実を改めて、たっぷりと時間をかけて確認した。
僕の部屋には、一つだけある窓から斜めに光が入ってくる。僕と結が座っている場所は、直接日光が当たらない少し影になっている所だ。白い壁にさした光が乱反射して、部屋全体をぼんやりと照らす。宙に舞う埃でさえ見あたらなくて、なんだか部屋全体が淡く茶褐色に染められたように停滞している。
「ちょっと、もう……。そう言う事じゃなくってさ」
結は言葉を切り、唇を指先で押さえながら、ひとつ深く呼吸をして、続る。
「心を読みとるってさ、多分耳で音を感じるとか、舌で味を感じるとか、目で光を感じるとか、そんなのに近いんじゃないかなって。心から発信された電波みたいな形が無くて言葉でもないものを、サトリの感覚器で受容するの。だから、私たちが想像するような『心を読む』とは全く違ったものになると思うんだ。……私も、空が青いとか、雲が白いとか、そう言う『言葉』は知っているけど、でも『青』とか『白』とか、色はまったく想像もできないもん。だからきっと心を読むっていうのも、私たちはきっと本当は予想すら許されないことなんだよ」
結はまっすぐ前を向いたまま、小さな声で、しかしはっきりと言った。僕は、何故結がこんなことを言い出すのかが分からななかった。
「別に、目が見えない事、気にしているんじゃないんだよ。あーちゃんと同じ世界が見えないのは少し残念だけど、でも『見えていない』だけであーちゃんの事は『みえる』し、あーちゃんと同じ時間を共有できているし、それに」
僕はぼんやりと壁を眺めていたので、結の顔が僕の顔にむかって静かに近づいてきたことに気付くことが出来なかった。
「目、見えなくなって、キスぐらいできるし」
結は何の手がかりもなく、でも正確に僕の唇を奪った。
気が付けば辺りは薄暗くなっていた。先ほどまで窓から差し込んでいた日は、オレンジ色になっている。僕の家族はまだ帰ってきていないようだ。僕と結の浅い息遣いだけが部屋を支配していた。
「ねえ、あーちゃん」
ん、と返事をしてやる。今日の結はなんだか歯切れの悪い会話をする。
「わたしが、もしサトリになったら、どうする?」
どうするって言われても。そもそもサトリはなったりならなかったりするもんじゃないだろう。
「別に、どうもしないよ。結は、多分僕以上に僕の事に詳しいと思うよ。だからサトリになってもならなくても、あんまり変わんないと思う」
「そっか……。ねえ、あーちゃん」
「なに?」
「あーちゃん、わたしね、目見えるようになるかもしれないの。新しい視覚治療技術の被験者に選ばれたから……今度手術してくる」