086 狂鬼の目覚め
「撤収だ。お前んちのおばさんか?――それに頼まれた」
男が言った。強いとは聞いていたが、これほどとは思わなかった。あの凶暴なオーガ共を赤子の手を捻るかのように圧倒していく。
彼の発した言葉が冷静なものでよかった。もし息を荒げただけでも心臓が止まりそうだ。
―――怖い
男は返事を待つ間も次から次へとオーガを片付けていく。鬼神の如きとは言え無い・・・それら全てがそうなる事が決まっていたかのように、死だけが量産されていく。
工場のラインの生産スピードは人間のそれでは追いつかない。文字道理人間業ではないスピードで量産される。そこに気迫と言うものは介在しない。
限界を超えた人の動きはこういうものかと思った。それでいて同じ動きは全く無い。機械ごときでは追随できない動きだ。
殴る・蹴る・極める・砕く・切る・捻る・擦る・突く。
確認できる動きだけでもそれだけある。その境界も曖昧になりつつある。合気の動きには関節を極めながら投げる技がある。突いた拳を擦り上げ鼻を削る技が空手にはある。それを第三者が何かと規定することは出来ない。
既に、もう殺意を動きとしか表現できない領域に足を踏み込んでいる。何が起こっているかわからないが、ただ、とんでもない事をしていることだけは判る。
その動きは美しい舞に見えたのだから・・・
初老の老人は思う。
思ってしまう。
『この男がいれば勝てる』と・・・
勝利の暁には自分は骸になっているだろう。
でもだ。
でも。
しかし。
それでもだ。
絶対に不可能だった〈この集落を守る〉ソレが出来る。
ならば迷うことは無い。
そのために命を捨てようと心に決めてここに残った。
この男の到来は天が使わした祝福なのだ。
「わし等のことは構わん。この村を守ってくれ」
老人の言葉は奇しくもディクセン貴族が言った言葉と同じだった。だがその重みは別格だ。
その一言で老人の中の何かが決壊し、涙となって溢れ出す。
息子が眠る土地だ。娘が嫁に行った土地だ。雨の日に軒先を覗けば新しい出会いがあった土地だ。
ソレが踏みにじられるのは耐えられない。
願いが芽吹き育まれている。その糧には少なくない命があった。それを投げ出すわけには行かない。
次に繋ごう。
今ソレが出来る。
妻もわかってくれるはずだ。
わしらは誰もいない軒先を覗き続けなければならない。ソレが命の役割なのだから・・・
「ふざけるな!」
「ふざけてなんか無い!わしらは覚悟が出来ているから頼む!」
―――っ!
男は歯噛みをするのがわかる。
彼の優しさを土足で踏みにじっているのだ。だが、それだけの価値はある。
「じゃあ、戦うな!」
男の言った言葉が良くわからなかったが、後に続く言葉で得心がいった。
彼は戦い続ける。救出の手が無い。だから、わしが救出に回ると言う事だ。攻撃をしなければ被害にあう確立はぐっと下がる。彼は言った。『欠片でも持ち帰れ』
戦士となったものへの最後の哀れみなのではない。
単純に復活する手段がある。神聖魔法だ。蘇生魔法をかけてもらうなど大金がかかりすぎて想像の埒外だったが、彼にはその伝手がある。
彼の動きはあからさまに劣化した。庇いながら戦い。死体や人を拾いながら動いているのだ。
動きに苛立ちが見える。
「わし等のことは気にするな!存分に戦ってくれ!」
何人かは回収し、息のあるもの身を寄せ合った。
「だ・ま・れ!」
戮丸は苛立っていた。
頭痛と戦闘で思考は思いのほか結ばない。その上、爺は勝手な美学に酔っている。ここで死ぬのがそんなに満足か?待ってくれている妻や子もいるのに?それらをほったらかしに死ぬ事に何の意味がある?
しかも、全く戦力にならない。
この状況で爺が死ねば婆が悲劇に酔って泣き叫ぶのだろう。
何もかもが全く進展しない。全くの無駄だ。
俺は金切り声が聞きたくないんだ。
しかも、この武器・・・
何もかもが腐っている。アトラスパームも背中にしょったオーガソードも全く使えない。投げ捨てたい誘惑に囚われるが、この凶暴な威力の前にはそれも出来ない。
アトラスパームは格闘技と相性は最悪だし、オーガソードはそのアトラスパームと相性が最悪なのに無いと使えない。
そして、俺だ。もうケツに火がついているはずなのに・・・
―――エンジンがかからない。
敵が弱すぎるのか?
武器の相性から児戯のような技を繰り出さなければならないからか?
戦う意義が見出せないからか?
睡眠不足のうえ過度の負荷による絶不調からか?
・・・この程度の事で死に掛けているからか?
そんな戮丸の耳に老人の感情を逆なでするような言葉が入る。
老人の言葉は老人達の言葉に変わり、世界の総意だといわんばかりに男を糾弾する。
奴らが何をしたいのか全く理解できない。
戮丸のうちに黒い殺意が沸々と湧き出して来ていた。