spiral~one~4
なかなか引かない腫れ。このまま学校に行くわけにもいかず、熱が出ましたと嘘をつき休み続けた。
休んだ初日、担任からは弛んでるからだと言われた。胸がぎゅっと痛んだ。悲しくなった。
三日目あたりの電話の時には、副担任が、大事な時期だから無理をしちゃダメだぞって言ってもらえた。それがひどく嬉しかった。
「あー、お腹空いたな」
今日、何度目だろう。買い出しに行けないんだから、しょうがないか。
湯ざましをコクンと飲み、冷凍していたいつもの味気ないパンを焼く。香ばしい香りにお腹が鳴った。
伊東さんも変わらず来ていたけど、ドアノブにかけられるレジ袋を放っておくと、来なくなった。
万が一を考えて、受験勉強を進めていく。けど、空腹は集中力を奪っていく。そのスピードはとても早い。
「食べてるそばから、お腹減っちゃうな」
なにかを噛みたくて、指を噛む癖がついた。軋む音がするほど噛むと、肉の味がするんじゃないかって。
赤ちゃんの指しゃぶりみたい。かっこ悪いってわかってる。
「誰も見てないしね」
とか言い訳つけて、寝転がって指をしゃぶり続けた。
勉強をして、お腹が空いたらパンと湯ざまし。そして、指しゃぶり。それを繰り返し、腫れが引くのを待つ。
腫れが引けば、学校に行ける。学校に行けるということは、お金を下ろせるということだもん。
「あー、まだ紫のまんまだ」
鏡をのぞいては、ため息を洩らした。
そうして数日経ったある夜、携帯電話が鳴った。
画面には公衆電話と出ている。
「はい、もしもし」
出ると、切れる。
「誰だったんだろ」
眠い目をこすって、またウトウトする。わずかな時間を置かず、また鳴る。次は非通知。
「眠たいのに」
イラつきつつも出ると、また切れた。
「……なんだろ」
大きくため息をつき、また眠る。結局この夜は眠ることを許されなかった。4日もこういう夜が続いた。
起きることができず、学校への連絡を忘れ眠っていた。聞き覚えのある、ママの好きな歌が流れる。ママ専用の着うた。
「ママ!」
慌て出ると、怒鳴り声で、
「あんたね、学校休むなら連絡してよ。恥かいちゃったじゃない」
と言われただけで、こっちの言い訳もなしに切られた。
電話が鳴った瞬間、ちょっとだけ期待してたみたい。あの時はごめんねって、大丈夫? って言ってくれるのかって。
数秒で終わった電話の後に、ものすごく落ち込む。もうママはママじゃなくなったんだって、また痛感した瞬間だった。
夢見の悪い夜を過ごし、朝になって嬉しいこととガッカリすることが起きた。
腫れが引いてた。学校に行ける。買い物が出来る。でも、体が動き出さない。
「……眠い」
体が重たい。限界の上を越えた気がした。それでも行かなきゃダメだ。本気で空腹でどうにかなってしまう。
「はぁ」
ため息をつき、自分を奮い立たせてゆっくりと準備を進めた。
玄関にある鏡に映る、自分の姿。首にそっと手をあてると、息が苦しくなる。
「やっぱまだダメ」
こぶしを握って、唇を噛む。あの時の感覚は、目を閉じずともよみがえる。
ズルズルと足を引きずるように歩き、やっとコンビニに着く。お金を下ろし、財布にお金を入れて店を出た。
「あ」
せっかくお金を下ろしたのに、買い物を忘れてた。
踵を返すと、会いたくない人が立っている。
「おはよう」
その声に返す言葉がない。返せるはずがない。
「ダメだよ。他のコンビニ使っちゃ」
いつものように笑って、レジ袋を渡してきた。
「はい、お弁当。今日のも美味しいよ」
あの電話の夜がなかったかのような笑顔。無視し続けたレジ袋。
「来ないでって、あたし」
そこまでいいかけて、話してること自体もダメだと口を噤む。顔が歪んでいく。笑うことも出来なければ、怒ることも出来ない。
苦しい。辛い。
(どういえば、伊東さんに分かってもらえるの?)
伝えられない真実に、頭痛と吐き気が襲った。自然と首に手が行ってしまう。
ママのあの声。手の感触。もう嫌だ、あんなのは二度と味わいたくない。
学校に向かえばいいだけなのに、足が動かない。じんわりと張りつくような汗がにじんでくる。
かばんを抱きしめた格好のあたしの手に、伊東さんの手が触れた。
レジ袋を腕に通し、
「また来るよ」
とだけ言い、車に乗って去って行った。
ジュースとお弁当。それと、菓子パン。レジ袋を抱きしめ、呟いた。
「ごめんなさい」
食べ物を捨てるという罪悪感。それは伊東さんの気持ちも捨てるということ。それでもママに消される恐怖感の方が勝ってた。
コンビニのゴミ箱に捨てると、レジ袋の先が見えた。チクチク痛む胸と頭。何も買わずに学校へと足を向けた。
久しぶりの授業は眠たいだけだった。ウトウトしながら思った。
生きたいという執着心は、時々誰かを傷つけてしまうのかななんて。
そうしてまた過ごす数日。その間、伊東さんは毎朝学校の近くのコンビニ前で待ってる。
「おはよう。今日はいい天気だね」
他愛ない挨拶。それすら、慣れないこと。
それを思えば、あたしとママはどんな親子だったんだろうって疑問に思う。
横目で見つつ、通り過ぎる。
「お弁当。手作りじゃなくて申し訳ないけどさ」
追いかけてくる靴音。逃げるようにスピードを上げる。先生に、昨日聞かれた。一体誰で、何をしてるんだって。
ママが離婚したことは届け出てあっても、再婚したことは知らされていない。だから言えない、新しい父ですだなんて。
後ろに腕が引っ張られた。
「マナちゃん! ちゃんと食べなきゃダメだよ」
その声にあたしも、今いえる精いっぱいの言葉を返す。
「お腹いっぱいだからいらない!」
幼稚な嘘しか言えないあたし。
「そんなに青白い顔してて、ちゃんと食べてないんだろう?」
レジ袋を手に握らせようとしたのがわかった瞬間、腕を大きく振った。
地面に落ちたレジ袋。それを見つめたままのあたしにもう一度レジ袋を握らせて、伊東さんはこういった。
「また来るからね」
何てことない一言なのに、今は一番言わないでほしかった。
学校に行っても、今日もまた睡魔と闘いながらの勉強。
あの電話以降、少しずつ変化があった。郵便受けから、ゴミが入れられていることがある。
ドアを開けると、玄関に散乱するひどい臭いのするもの。ドアを開け放したまま、片付けをする。
何度も消臭剤を撒き、それを済ませてからじゃなきゃ勉強が出来ない。
睡眠を削るいたずら電話に、ゴミ。電話だけでも滅入ってたのに、とどめを刺された気分で。
学校に来たら気が緩むのか、限界なのか。とにかく眠い。
そこに来て、伊東さんのこと。
もう嫌だと口から出かかるのを、何度も飲み込んでいた。
そんな繰り返しを経て、その日が来ていた。