spiral~one~3
夢物語みたいな思いは、木っ端みじんに打ち砕かれる。
受験できるのかわからないけど、勉強しておきたくて頑張る。苦手な英語を二時間やってたら、眠ってしまってた。
今日はドアにレジ袋がかかってた。
『時間がないから置いていくよ。うちの新商品のお弁当。今度感想きかせてくれるかな』
なんてメモが入ってた。鶏南蛮弁当というものだった。鶏肉は好物。
関わるなと言われているけど、勝手に置いていかれてしまったんだもん。
「仕方がない、よね? こればっかりは」
言い訳のように呟き、軽くレジ袋を上にあげて、
「ごちそうさまです」
聞こえるはずがないのに、感謝を口にした。レンジで軽くあたためて、ふたを開ける。肉の匂いに、お腹が早く食べろと急かしたてた。
「いただきまぁす」
噛むとじゅわっと肉汁が出てくる。食べてる最中に、またお腹が鳴った。
「美味しいなぁ」
そんな満たされた気持ちで始めた受験勉強。苦手なものも、なんとか頑張ろうという気になったんだ。
カタンと物音がした。けど眠気の方が勝ってて、確認する気が起きなかった。
「マナ」
聞き覚えのある声に、頭の中が一気に覚醒した。
「マ、ママッ!」
テーブルに突っ伏してた体を起こして、ママに近づこうとした次の瞬間。
(え?)
夢見てるんだって思えたらいいのに。これは現実じゃないって誰かに言ってほしくなった。
「マ……マ……」
ママがあたしを押し倒し、馬乗りになって首を絞めていた。顎が上がるほど、ギュウギュウと締めつけられている。息が出来なくなる。
「マ……」
頭の先がほわぁっとなって、白くかすんできた。
首を絞められて死ぬって、こんなに時間がかかるの?こんなにも苦しいの?
会いたいと思ってた。声が聞きたいって願ってた。
(こんな再会、願ってない)
あの日から泣かずにいたのに、涙がひとつ目尻から耳に向かってこぼれた。
「ふん……。泣いてるの? あんた」
ママの声。低くて、重い声。お客さんと話してる時の甘えた声じゃない。
「苦しい? ねぇ」
そういえばママって、あたしと話してた時ってどんな声だったっけ。
歪んでいく目の前のママの姿に、そんなことを今更のように思い出す。でも思い出せない。
「あんた、あたしの人生の邪魔してんじゃないわよ」
締めつける手に、もっと力がこもった。
あきらかな拒絶。
邪魔するようなことなんかしてない。静かに一人で暮らしてただけなのに。
「いっそ、死んじゃって。消えてよ、ねぇ」
白くもやがかかったような感覚が、ゆっくりと暗くなっていく。
(アキ、ごめんね)
心のどこかでアキの分も生きようと思ってた。勝手に決めてた、アキへの約束。それを果たせないのが哀しかった。
「ア、キ……」
かすかに洩れたその声に、ママの手が緩んだ。ただ、ほんの一瞬。その一瞬で一気に酸素が体内に入り込んでくる。
「ゲホッ! ……げ、ほん、ゲホッ」
激しくむせるあたしの顔を、ママが殴りつけた。
「ギャッ!」
目の下。骨が軋んだかと思うほどの痛み。
「あんたのせいで!」
そうしてまた、ママは首を絞めてきた。
あたし、そんなにママを苦しめるようなことして生きてきたの?アキのこと以外、何もしてないって思ってたのに。
(ここまでしなくたっていいじゃない)
沸々と沸いてくる、初めての感情。体が勝手に動いてた。
「っったぁぁ! なにすんの!」
ママを思い切り突き飛ばしてた。
また一気に酸素が入ってきて、咳を激しくしたらものすごい吐き気が襲った。
「うげ、ぇ」
ボタボタと床に落ちていく嘔吐物。あんなに美味しかった鶏南蛮が、全部吐きだされた。
四つん這いになって吐いていると、目の前にママの爪先。ゾクッとした刹那、逃げる間もなく顔を蹴りあげられる。
「う、あぁっ!」
テーブルごとひっくり返る。床には半分残していたお弁当。
それをおもむろに掴み、顔の痛む箇所に的確に擦りつけられる。調味料がしみて、ジンジンする。
「関わるなって言ってあったでしょうが!」
ドカドカとかかとでわき腹を蹴られる。
(どうして? どうしてこんなに血の繋がった母親に嫌われなきゃならないの?)
体も心もすべてがキシキシ痛んだ。痛みが支配して、切なかった。
あたしの髪を鷲掴み、ママが顔を近づける。
「なんなのよ、コレ。十分に関わってるでしょ?」
またお弁当を顔に擦りつけ、そのまま床に頭を叩きつけられそうになる。
「やだっ!」
とっさに手をつく。これ以上の痛みからなんとか逃げた。でも……。
「いい? これ以上あの人と関わったら、今度こそあんたを消してやるから」
体の痛みから逃れられても、心の痛みからは逃れられなかった。
「生きていたかったら、あたしの言うこと聞きなさい。明日生活費を振り込んでやる。あたしに関係するすべてに関わらないで」
鬼の形相でそう一気にまくしたて、いなくなった。ヨロヨロと起き上がり、蹴られたわき腹に手をあてた。
「はぁ、はぁ……、痛っ」
力がちょっと入っただけで痛む。
「電話、し……なきゃ」
関わるなと言われた。生きたきゃ言うことを聞けって。
「言わなきゃ」
ボロボロと涙が止めどなく流れていく。
あの日からこんなに流すことなかった涙が、堰を切ったかのようにこぼれていく。
涙が目の下の傷にしみる。その痛みに、まだ生かされているんだって思えた。
「生き……た、い」
生きて、何かしたいことがあるわけじゃない。それでもアキの分も生きていたい。それだけだ。
前にもらっていたメモを探し、伊東さんの携帯に電話をかける。数回コールしただけで、聞きなれた声がした。
「わっ、ビックリしたよ。マナちゃん? マナちゃんだよね、この番号」
「あ、はい」
手が震えてる。心臓が飛び出そう。
「どうかしたの? こんな時間に」
そういわれ、時計をみると夜十時過ぎ。
「あ、ごめんなさい」
カタカタと震えが止まらない。太ももをつねってみたりするけど、変わるはずもない。
「何か相談? 受験の話とかかな? 嬉しいよ、初めての電話だね」
弾むような声。この相手にあたしは今から別れを告げなくてはいけない。ゴクンと唾をのみ、「あの」と切り出す。
「うん、なにかな?」
緊張が高まって、声がひっくり返る。
「あた、し」
その声の恥ずかしさに黙ってしまう。
どうしようって言葉が頭の中をグルグル回ってる。
「……マナちゃん」
いつもの声がする。
「ゆっくりでいいよ。話していいよ」
優しい声。その声の優しさが、今はあたしを辛くさせている。
「ふ……くっ」
涙がまた溢れる。喉が絞まって、上手く声が出てこない感覚。
「大丈夫だよ。待ってるから、ね?」
こんな風に自分の言葉を待っててくれた人がいたかな。
(ごめんなさい……ごめんなさい)
心の中で何度も謝る。優しい人を傷つける罪悪感。今日はいろんな傷を自分に与えている。
(痛い、痛いよ、ぉ)
胸の痛みにこらえきれず、やっと押し出すように出した言葉。
「来ないで」
「え?」
驚かれて当然だ。
「お弁当、いら……ない」
それだけ言って、通話を終わらせた。その後、鳴り続ける伊東さんからの着信音。
布団の中に携帯を押しこんで、リビングで汚れた床を掃除していた。
嘔吐物の臭いに何度もむせて、トイレで何度か吐いた。
顔は時間が経つと腫れあがって、タオルを冷やして何度もあてた。絞められた首もひどく傷んだけど、冷やせなかった。
どこか息苦しくなって、首に触れられない。触れたら、さっきの絞められていた感覚がすぐさま戻ってくるから。
薄く紅く残る、ママがつけた無数の傷痕。ママに拒絶された証拠。
拒絶され、こんな思いまでしたのに、心の奥にあるのはひとつのこと。たとえ愚かだといわれてもかまわない。
縋りたかった。ママの娘であるという事実に。
「言うこときくから、ぁっ」
愛されたい気持ちだけ。満たされないその欲求を叶えるために、従うだけ。
でも、いつになったら愛される?
アキが空に逝ってから何年経った?
あれから何年も待ち続けた。先が見えなくても待てた。この先も同じ思いで待ち続けていたら、いつかは報われるの?
長い長い片思い。実の母親への愛情を待ち続けて、想ってる。
「ママが作ったオニギリでいいから、食べてみたかったな」
ささやかな願いすら、きっと届かない。そうわかってても、まだママを想ってた。
想いたかった。
生かされていることが正解なのか、不正解なのか。ママに聞けば、不正解と即答されそうだななんて思って、苦笑いをした。