spiral~pain~9
「マナ、俺さ」
あたしの顔を拭きながら話しかけてくる。
「う、うん」
なんだかいつもの空気じゃないお兄ちゃん。ものすごく緊張してきた。
「あのさ、やっぱ順番守らなきゃダメだよな。俺のが先だったんだ、きっと」
とか話し出した。
また首をかしげてしまう言葉を口にした。
順番って、何のことを言ってるんだろう。
顔を拭き終え、ソファーを指される。おずおずと腰かければ、お兄ちゃんが隣に腰かけてきた。
真面目な顔で、どこか悲しげなお兄ちゃん。
「また……なにか、したかな?」
前髪の隙間から覗きこむように聞けば、「何もない」と薄く笑って首を振る。
この空気を変えるにはどうすればいいのかだけ考える。
けど、お兄ちゃんの様子がおかしい原因が自分じゃないなら、変える術が見つけられない。
「もうやめろ、そういうの。俺にはナシでいい」
静かな口調。すこし大人びた表情。
いつもはどこかおどけていたり、伊東さんと喧嘩してたりの姿しか知らない。
あとは、お兄ちゃんぶるところとか。
「俺、お前にまだ話してなかったよな。俺の兄貴と母ちゃんの話」
法事って言ってた今日。それはお兄ちゃんにとって大事な二人の命日。
「どうやって二人が俺の前からいなくなったのか、ずっと話さないできたもんな」
お兄ちゃんが横からあたしに手を重ねてくる。
ドキドキするけど、その手を拒むことができない。
「上手く話せるか自信ない。けど、話す。マナに俺たちを信じてほしいって思う前にさ」
そこまで言って、大きく息を吐いてから、
「うん。……俺たちの方が、お前にまだどこかで壁を作ってたら、お前が近づいてくれるわけないんだ」
まるで言い聞かせるようにそう呟くお兄ちゃんは、もう泣きだしそうになってる。
お兄ちゃんが話そうとしているのは、遠い昔の悲しい思い出なんだよね。
こんなに悲しい表情になってしまうなら、話すのは辛いはず。人の死を語るのは、簡単じゃない。
勇気がなきゃ無理だ。
「お前のそばにもっと近づかなきゃ、お前はこれから先も距離を置くだろ?」
「そんなことは」
その場しのぎをしようとした言葉を言えなかった。
いえばよかったのにと思うのに、逃したタイミング。
「怖がられないようにするには、同じ痛みを抱えられなきゃダメ……だろ?」
そういったお兄ちゃんの目尻から、涙がひとつ流れる。
「俺の兄貴、それと母ちゃん。二人とも、俺の目の前で死んだんだ」
お兄ちゃんの口が、ゆっくりと過去を語り出す。
そのたった一言はとても重くて、辛くて。
聞いた瞬間、ドクンと心臓が強く跳ねるように脈打った。
「出かけた帰り。迎えに来てくれた公園の入り口。そこにトラックが突っ込んできたんだ」
ドクドク、心臓がうるさい。これは、この話は、本当にあたしが聞いてもいい話なの?
「公園の入り口に停まってた母ちゃんの車に、後ろから突っ込んだトラック。飛ばされた母ちゃんの車に撥ねられた兄貴」
光景が見えそうで、目をつぶりたい。なのに、お兄ちゃんから目が離せない。
「兄貴が、俺の目の前に吹っ飛んできて。……そんで、目を見開いたまま、首が曲がってた。血まみれの兄貴が俺を……見て、た。焦点、合ってない目で」
頭の中いっぱいに、お兄ちゃんの悲しい思い出が広がっていく。
空いてる片方の手を、口に当てて声を堪えた。
泣きたいのはあたしじゃない。お兄ちゃんなんだもの。
「鼻につくオイルの臭いと、血の臭い。それがいつまでも体から離れてくんなかった」
お兄ちゃんの手が、重ねたあたしの手をギュッと握る。
「それから、何年か。オヤジは俺を責め続けたんだ。そっからは、俺もオヤジも地獄の毎日の繰り返しだったんだ」
震える手が、その辛さや悲しさを物語ってた。
「それでもさ、俺思った。何年もかかったけど、俺もオヤジも前に進めた。あの出来事が悲しい事実だってこと何だとしても、そのまま立ち止まってたら死んだ二人に顔向けできないし」
そう思えるまでに何年、何日かかったのかな。
あたしがアキの死を受け入れて、ママやパパから距離を置かれ。それを頭の中で仕方がないと諦めるまでもずいぶんかかった。
「あの女にどんな過去があろうがさ、それは一人の問題だろ。それを自分の子供に押しつけて、距離を置くためにしていいことじゃない。俺もまだガキだけど、それくらいはわかる」
お兄ちゃんの目が、悲しみの目から変わっていく。
なにか強い決意みたいなものを秘めているような。気のせいなのかな。
「……わかるの? ママがしたこと」
誰にも分かってもらえないって思ってたのに。
「わかるさ。善悪ってほどじゃないんだろうけど、あの女がしたことは善じゃないってこと程度は」
首をかしげる。
ママがしたことを善悪なら善ではないという。
けど、お父さんと再婚したママは、お兄ちゃんの家族だ。
善じゃないだなんて言っても大丈夫なのかな。いいのかな。
「お兄ちゃん」
空いてた手を、あたしの手に重ねてるお兄ちゃんの手に重ね。
「伊東さんが、ママに教えたって聞いたの。あたしの新しい生活のこと、色々」
その言葉を黙って聞いてくれるお兄ちゃん。
「伊東さんとお兄ちゃんは親子。だから、お兄ちゃんも同じだってあたし」
そういったあたしの言葉に、お兄ちゃんは微笑みながら首を左右に振った。
「え? だって」
親子だったら親に従うもの、だよね?
「オヤジはオヤジ。俺は俺。本当にオヤジがそうしたのか俺は知らない。けど、俺は違う」
お兄ちゃんは意志の強い目であたしを見つめて、はっきりとそう言う。
「だって、親子だよ? だから、もしも伊東さんがママの方を選べって言ったら選ぶでしょ? ママを」
あたしにしては珍しく、浮かぶ疑問をポンポン口にしてる。
いつもなら何か聞けば怒られるんじゃないかとか、顔色窺うのに。
「もう十分にいろいろ考えられるデカさに育ってるのに? 俺の気持ち無視するような親なんか、こっちから願い下げだな」
不思議そうに見つめているあたしに、そういいながら笑いかけるお兄ちゃん。
その優しい笑みは、何度もみた伊東さんの笑顔に重なる。
「オヤジだけを信じるんでもないし、あの女だけを疑うんでもないし。真実は自分で確かめてからでもいいんじゃねぇか?」
真実と言われ、眉間にシワを寄せた。
確かめるっていうことは、会うという事だもの。
「オヤジに聞いてみればいい。それが真実なのかって」
「……聞く?」
聞いて、本当にちゃんと答えてくれるんだろうか。
そこも不安だったけど、本当に怖いのはもう一つの方。
「や、だ」
即答するくらい、怖かった。体がブルッと震える。一瞬で思い出せる記憶。
「……すぐじゃなくてもいいって」
苦笑いをしてから、宙をみながらお兄ちゃんがため息まじりに呟いた。
「自己完結すんな」
まるで自分に言い聞かせてるようにも聞こえた。
「勝手にこうなんじゃないか、ああなんじゃないかって。それは本人の意思を、無視してるだけだろ」
確かにそうなんだけど、本人に聞くって勇気がいるんだよ?
「俺と話してみて、どう思った?」
「え」
「俺に聞けただろ、色々。まぁ、本当に聞きたいことの半分も聞けてないかもだけどな」
そういってから、重ねていた手を外す。
「お兄……」
言葉を失った。
気づけばふわりと包み込むように、お兄ちゃんがあたしを抱きしめていたから。
「断言してやる。お前は、独りにはならない」
独りという言葉。それは苦しい言葉。
「お前に聞く勇気がないってんなら、俺が分けてやる」
もっと強く抱きしめてくれる。
ポロポロ、拭いてきれいにしてくれた頬に、涙が伝う。
「だからお前から独りになろうとするのは、もうやめろ」
その言葉に、お兄ちゃんの背中に腕を回し抱きしめ返す。
「お兄ちゃん……。本当に? ならない? ……ひと、り」
子供のようにたどたどしく聞き返す。
「させねぇよ」
短くもハッキリした、強い言葉。
「……うん」
どうしてだろう。
伊東さんよりも早く、お兄ちゃんと呼べたこと。
不思議だよ。お兄ちゃんを疑って悲しんでたのに。
今語られた話ももしかしたら嘘かも知れないのに、どうしても信じたくなった。
「護る。お前のこと、ずっと」
「うん」
体だけじゃなく、心も丸ごと包まれている錯覚。それはとても気持ちのいい錯覚。
「話、終わった?」
その声にハッとして、振り返る。
物音もさせず、いつからか凌平さんが入り口に立ってた。




