spiral~pain~5
振り向くと隣にいたはずの人がいない。
それを確かめた刹那、寄りかかってたドアがガクンと開きそのまま車外に落ちかけた。
引力のまま落ちそうになった時、力強く支えられる。
「こっちおいで」
落ちかけたあたしを抱きかかえ、数歩歩いたところで背中をさすりながら、
「泣くのも吐くのも我慢しちゃダメなんだよ」
どこか怒りを含んだ声で、囁いた。
「マナ」
吐いてる間、ずっとあたしの名を呼ぶ。
「ナオトからさ、妹出来たって聞いてたんだ。俺」
聞いてもいないことを話し出す。
「一緒に撮ったって写真見せてくれてさ、携帯で。すっげー、自慢してた」
一体なにを自慢してたんだろう。
「さっき、俺と目が合ったの覚えて……ないかな」
目が合った? いつ? 思い出せばその記憶はあるかもしれない。でも、朦朧としてて、それどこじゃないのが正直なところ。
「ママって人と一緒だったよね」
コクンとなんとか頷く。
「でもさ、なんか様子おかしかったし、俺の記憶違いだったらって思ったし」
吐くだけ吐いたら、体の力が抜けてしまった。支えてもらっても立てない。
「車に戻るからね」
そっと抱きあげて、あたしを車まで運んでくれる。この抱き方は、あの時伊東さんがしてくれたことと一緒。
思い出しただけで、また涙がにじむ。
「う……っく」
口をおさえ、声を上げずに泣く。
「……いいのに、声出しても」
ポンポンと頭を手のひらで軽く叩き、そのまま撫でる。
「泣いていいよ。俺しか聞いてないし、見てないから」
そういってからドアを閉め、運転席に戻ってきた。
「動くよ」
あたしに確認をし、また動きだす車。さっきよりもゆっくりと走ってくれてる気がした。
「吐いたから寒いだろ? もうちょっとで俺んち着くからね」
言った通りで、わずかな時間で車はまた停まった。
「ちょっとだけ待ってて」
そういい車を出て行って、数分。戻ってきて、さっきのようにあたしを抱きあげた。
「お待たせ。それじゃ、俺んちに招待するね」
なんて軽い口調でいいながら、運んでくれる。階段もグラつくことなく上がっていく。
「さてと」
赤いソファーにあたしを下ろして、キッチンの方から何か持ってきた。
「とりあえず消毒とかしちゃおうか」
救急箱、それと冷水に浸ったタオルが入った洗面器。
「ケンカしなれてるから、こういうのは得意なんだ」
あははと笑う顔があまりにもあどけなくって、つられて少しだけ笑ってた。
そのあたしと目が合った瞬間、目をそらされる。
どうしてそらされたのか、その時のあたしには悪い方向にしか考えられなくて。
「沁みるよ」
すこし上がりかけた口角を、また下げて俯いた。
「俯いたら手当出来ないでしょ」
そうして、この人の指先があたしのあごをとらえ、顔を上向かせた。
ふわふわした軽いパーマがかかった髪。
薄茶の髪が、部屋の明かりで少し透ける。キレイだなってぼんやりみてしまう。
肌もきれいだ。男の人なのにな、なんて思った。
まるでキスでもしそうな距離に、凌平さんて人の顔がある。
でもあたしはときめきもせずに、視線だけまた俯いた。
「こっち見てればいいのに」
クスクス笑い、テキパキと手際よく手当てしてくれる。
ソファーに腰かけているだけなのに、わき腹に痛みが走った。
「ん? そこも痛む?」
まさか蹴られたとはいえずに、頷くだけのあたし。
「じゃ、湿布でも貼ろうかな」
大きな湿布を手のひらで挟んで、いつまでも貼らない。不思議そうに見てると、ふふと笑ってから教えてくれた。
「場所が場所だけに急に冷たいのを貼ったら、マナがビックリしちゃうだろうと思って」
そういい、笑うんだ。
あたためてくれてたってことなのかな。
(変な人。初対面なのに、あたし)
こんな風に小さな気づかいをされると、どう反応していいのかわからない。されたことないから、どうしていいのかなって迷う。
「あとは服だね」
救急箱と洗面器を片付け、奥の部屋に入って行った。
「これ、着てもらってもいいかな」
長いTシャツ。それと、短パン?
「女の子の下着なんてないからさ、ごめんね」
受け取り、立ちあがって着替えようとした時、カーテンがするりと床に落ちた。
「……あ」
太ももに、薄茶色の汚れ。それを見た時、ママにされたことがよみがえる。
裸のまま、ストンとソファーに腰を落とす。
「マナ?」
頭がガンガンと打ちつけられたかのように痛む。
「う……」
両手のひらで顔を覆う。
涙が溢れて、指の隙間からこぼれていく。涙でこの汚いシミがなくなればいいのに。
「さっきの男にやられたの?」
静かな、さっきまで聞いてた声より低い声で聞いてきた。ううんと首を振りながら涙が流れ続ける。
「ママ……ッ」
恐怖感しかくれないママの顔が目の前にあるみたい。
呼吸が一気に早くなって、朦朧とした。
「マナ!」
凌平さんという人が、なにか袋をくれて、
「これ、口と鼻覆うみたいにして。……そう。そのまま深呼吸だよ。……ゆっくり、そう……スーッ、ハーッ……そう。大丈夫だよ」
そのまま呼吸をしろと教えてくれた。しばらくして呼吸が楽になった途端、力が抜けた。
「マナ?」
このまま目が覚めなきゃいいのにと願いながら、意識を手放した。
何か、音楽が聴こえる。
その隙間で、誰かが泣いている。
あたしは水の上を歩いてて、一歩歩くたびに波紋がポーーーンと広がっていく。
空の青。水の中に映り込んでて、空の中を歩いている気分だった。
音楽が止んで、立ち止まった刹那、
(……?)
不思議に思い、空を見上げた瞬間、ガクンと沈んでいく体。
水の中に引きずり込まれていく。
歩いていたのは空の中のような場所だったのに、沈んでいく先には、青なんかなくってただ……、
(黒……ぃ)
薄暗いというのもなく、ただ黒い水の中。
どこまでも、どこまでも引きずり込まれていく。
どこまで行くの? 息継ぎが出来ない。
苦しいよ……。お兄ちゃん、苦しいよ……。
さっき見た空、もう一度あの場所に帰りたい。
水の中、自分が流していく涙が一緒くたになっていく。黒い水と自分の涙が変わらなくなっていく。
このまま黒くなっていくのかな。あたし、もう……あの空の中には戻れないの?
(嫌だ)
もう一度見せて、神さま。
さっき見た、あの青。深呼吸だってしていない。どんな匂いだったのかも知らない。
春の空気だったのか。冬の空気みたいに、シンとした、でも気持ちのいい空気だったのかも。
それに、普通の呼吸すらしていない。手も伸ばしていない。
あの空に向かって、思い切り伸ばしてない。
「空、返して」
涙が止まらない。
こんな黒いだけの世界にいたくない。どこまで続くのか分からない、底が見えない場所になんて行きたくない。
そんな場所で……生きたくない!
「助け……てぇ……」
誰かに向かって手を伸ばす。
もう、空の青なんか見えなくなっているのに。届きやしないって分かってても、伸ばさずにはいられなかった。
目を開けると、さっきの空はもちろんなくて。
「マナ?」
白い天井があって、あたしの顔を覗き込む凌平さんて人の顔があった。
ふわりと柑橘系の香りがする。
「夢みてたの?」
顔を横に向けると、涙が目尻からこぼれた。
「何か飲む?」
「……うん」
さすがに何か飲みたくなった。
「これ」
背中を支えられ、体を起こすと一本のペットボトルが渡された。
「好きだよね、これ」
驚いて思わず目を見張った。
これはあたしが好きなレモンティーだ。
こくんと一口飲めば、乾ききってた体に浸みこんでいくのがわかる。
「ナオトから聞いてた、好きなメーカーだって」
その名前に体を強張らせると、頭を撫でてこういう。
「ナオトと会いたくない理由、聞いちゃダメかな」
話してもいいものなのかな、まだ不確かなことで悩んでいることを。
「マナはナオトのこと、嫌いなの?」
しばらく考えて、また首を振る。
「じゃあどうして会いたくないのかな。ナオト何かやったの?」
“何かやった”
お兄ちゃんになにかされたかといえば、逆だよね。きっと。
あの出会った日から、お兄ちゃんはあたしに近づこうとしてくれた。あたしの痛みに近づこうとしてくれてた方だ。
伊東さんも、お兄ちゃんと同じかそれ以上によくしてくれた。
でも、ママはハッキリ言った。
あたしの生活の変化のことを、伊東さんから聞いたって。
そして、時々家の様子をみてくるお兄ちゃんは、ママが普通じゃないかといった。
直接なにかされてなくても、嘘をつかれているという気がしてる。それだけで距離を置いてはいけないのかな。
「マナ?」
でもその前に、気になることがもうひとつある。
「あの」
「んー?」
ソファーであたしの横に腰掛けて、ニコニコしてる凌平さんという人に聞く。
「どうして、どうやってあたしをあの場所から連れてきたの?」
あの場所で死ぬんだろうって思ってたあたしを救ってくれた人。
「どうして?」
その理由もなにもかもを知りたかった。