spiral~pain~1
あれから。
転校をし、数か月だけの新しい学校で受験勉強をした。
前の学校に伊東さんが話をして、ママが捜そうとしても言わないでもらう約束を取ったって言った。
「はぁ」
寒い。もう4月だってのにな。
「新しい制服で気分いいのに、こんなに寒いなんて」
「文句言うな」
お兄ちゃんもこっちの高校に入り、一足先に通ってた。
「オヤジから、入学式なんとか間に合わすってメールきてた」
「あ、うん」
伊東さんは変わらずママと暮らしてる。それとお兄ちゃんがこっちに来てることは、ママは知らないらしい。
あたしが受験に合格したこともなにも教えていない。
「でも、定時制にこだわらなくってよかっただろ」
「ううん、いいんだ」
働きながら学校に通うことにした。
仕事も倉庫のピッキングの職を探せた。本当についてた。
「早く自分の力でいろんなことが出来るようになりたいの」
伊東さんがどうしても制服だけは譲れないといい、学校からは服装は自由だということもあって許可が出た。
「オヤジ、制服になんの憧れがあるんだか。恥ずかしいっての」
「でも喜んでくれるならいいよ、それでも」
二人で他愛ない話をしながら、学校までの坂道を歩いていく。そして、振り向くと、もう一人。
「二人して共通の話題で、盛り上がらないで」
心さんが、ふわふわの髪を揺らして笑ってた。
お兄ちゃんの彼女。元の学校にいた時、出会ったって聞いた。
「ナオトと一緒じゃなきゃ、つまんないんだもん」
あっけらかんとそういい、大きなバッグを手に家に来た。
「迷惑かけないから、一緒の学校に通わせて」
お兄ちゃんの転校先に、ちゃっかり自分の転校手続きもすませていた。
うちの近所に部屋を借り、よく一緒に食事を作ってくれる。
肌の手入れもなにも知らないあたしに、年頃の女の子の普通のことを教えてくれるんだ。
「入学式終わったら、会社に挨拶に行くんだったか」
「うん。主任さんがおいでって」
今日は明日から仕事だから、挨拶がてら行くことになってる。
「食事の時間までは帰るから」
「おう。みんなで飯食いに行こうな」
「楽しみね」
普通の会話。これが最近は当たり前で、ついこのあいだまでなかったもの。
「ん?どうかしたか」
思わず二人の姿にぼんやり見入ってたようで、お兄ちゃんが不思議そうにあたしを見る。
「んーん」
首を振って、「早く行こうよ」と先頭を歩く。
このわずかな期間で、いろんな普通を思い出した。
「変な子ね、マナって」
クスクス笑う心さんに、へへと笑って返す。
空を仰ぎ、揺れる枝を見て呟いた。
「桜、まだ咲かないね」って。
「そうね、今年は寒いもの」
「早く咲かないかな」
はぁっと息を吐くと、うっすら息が白い。
「なんかまだ春じゃないみたい」
手をこすり合わせながら歩く、学校までの道。行けないと思ってた高校。仕事も見つかった。
仕事が見つかった時、思った。もしかしたら、ママの大変さを理解できるかななんて。
引っ越して学校も変えて、受験して。ママはずっとその間、あたしに関わることはなかった。
でも伊東さんにママが聞いてきたこともないらしい。
「聞いてこないものを、逆に聞くのも疑われそうでね」
そういって、伊東さんから話を振ることはないと言ってた。ママはあたしがあのままどうにかなったって思ってるとか?
そうじゃなきゃ、あんなことしてきたんだもん。きっと捜すよね。
「……はぁ」
晴れの門出の日。あたしは、大きく息を吐きながら校門をくぐった。
教科書を受け取り、その重みで本当に入学したんだって実感した。
伊東さんが泣いてたのが、嬉しくて恥ずかしくて。思わず笑顔になった。
桜が咲くころを過ぎ、やっとすこし仕事に慣れてきた。
働くって本当に大変だ。仕事を終え、着替えてから、学校に向かう。
家に帰ってから、また勉強。こんなに勉強好きだったかなって思うくらい。お兄ちゃんと心さんは、前の学校が進学校だったこともあってか、勉強を毎日みてくれる。
上の兄弟がいるっていいなって思うたび、アキのことを思い出す。
チクンと胸が痛むけど、アキの分も生きるんだってまた思いなおすキッカケになる。
お兄ちゃんは時々、実家に戻ってママの様子を見てきてくれる。
「なんかすっかり落ち着いた感じあるけどな」
っていうのが、毎回の口癖。
あたしはその言葉を鵜呑みに出来ずに、愛想笑いを返してる。
あの頃使ってた携帯も使ってないし、前に住んでいた部屋にも行ってない。本当にあたしがいなくなったって思って、ママは幸せだなって感じているのかもしれないよね。
(あたし、生きてるんだけどな)
ママにとって不本意な現状。だけどあたしにとっては、本意な現状だ。もう、譲りたくない。
ほんのちょっとのわがままを許してほしくなる。
普通に笑って普通に食べて、ただ生きていきたいって。
夏の始まり。本当は休みだったのに、今日は主任さんに頼まれて出ることになった。
急いで着替えて、バッグに持ち物を慌ててつっこんで出かけた。まだ夏の始まりなのに、思ったより暑い。
今日はお兄ちゃんは、伊東さんと一緒に法事。前のお母さんとお兄さんの命日。交通事故で亡くなったっていうのは、お兄ちゃんがまだ十二歳の時。その時の話はいつかって言ったまま、話してもらえていない。
二人の悲しみの記念の日が今日。
「本当に気をつけて行けよ」
玄関先で互いに別れ、あたしはバス停に向かう。
「本当に暑っ」
バスに乗りながら、バッグに入れてきた湯ざましを一口。まだあの頃の癖が抜けなくて、贅沢が出来ない。湯ざましは常に作る。
「頑張って早く終わらせて、今日は部屋の掃除しようっと」
バスに揺られ、心地いい充足感に自然と顔をほころばせながら仕事に向かったあたし。
その帰り道に、大人のずるさを知る出来事が待ってるなんて思わなかった。一番痛さを感じるタイミングを大人は知ってるって、切なくなる。そんな出来事が……。
早めに終わった仕事。
忙しい毎日で忘れていたこと。今日は給料日。
「これで買いに行っちゃおうかな」
思いきって街へ足を延ばす。もちろんママの行動範囲外の場所に。
お小遣いとして使えるくらいの金額働けたら、と、決めてた贈り物。
お兄ちゃんに、一緒に焼きたてを食べたいからホームベーカリー。
心さんには、いつも使ってる香水。あと、伊東さんにも買った。
「喜んでくれるかな」
メガネケース。これを渡して呼んでみようと心に決めた。お父さんって、ちゃんと呼ぼうって。
大きな紙バッグをブラ提げて、バス停へ。
「あー……、行っちゃった後だ。次はっと、三十分後か」
バス代節約と思って歩き出したことを、後になって悔む。
次のバス停を過ぎ、ふたつ先のバス停までもうすぐという場所で、声がした。
「マナ」って。
心臓が跳ねる。止まるかと思った。そして、背中に冷たいものが走った。
「マ……マ」
八ヶ月ほど会ってなかった。なのに、一瞬であのころに戻ってしまう。
体が強張る。
「いらっしゃいな、マナ」
コツコツと近づくヒールの音。
「どうしたの? 自分の母親でしょ? どうして言うことが聞けないの?」
一歩また一歩と後ずさる。
「おいで、マナ。あたしの可愛い娘」
早まる足音に踵を返し、走り出そうとした。
「逃がさないわよ」
初めて知った、ママの足の速さ。そして、あたしの足の遅さ。
「さ、ママとお出かけしよっか」
腕を絡め、近くに停まっていた車に引きずり込まれた。
「や、やだっ!」
抗おうとした瞬間、目にしたものはあの日の思い出と同じもの。同じ声。同じ、ママの体温。
頭に浮かんだのは、今度こそ消されるという思いだけだった。