spiral~one~1
中3の夏。
ママがいなくなった。たった一枚のメモを残しただけで。
再婚したことと、毎月二十日にカードに入金するから、とにかく生きててって書いてあった。
生きててくれなきゃ、周りにアレコレ言われちゃうんだから!って命令付き
そんなこというくらいなら、再婚先に連れて行ってくれてもいいのになんて思った。
でも、不思議と涙はこぼれなかった。
だって、分かっていたから。
「ママにとって、あたしは不要だもん」
そういうこと。
パパと離婚したのが、去年。
一年にも満たないでの再婚。
ママが残したメモを丸めて、ごみ箱に捨てる。
二人で暮らしていた部屋に、今はあたしだけになった。
明日から夏休み。
大きくため息をつき、テレビもつけずに床に寝転がった。
「寂しいなんて感傷的なのは、もっと昔からあったから……慣れてるもん」
誰かが聞いてるわけじゃないのに、ポロポロこぼれてしまう呟き。
それでも、涙は溢れなかった。
きっとどこかで期待してるんだ、いつかは一緒に暮らせるんじゃないかって。
こんなことをされても、ママを嫌いになれないのがいい証拠。
「……ママ」
呼んでも、その人の声は聞こえてくるはずなかった。
遡る、時。
あたしが7歳。妹のアキが2歳の秋だった。
もうすぐ誕生日のアキ。可愛くてたまらなかった。
ママに任されていた子守りも、アキが笑ってくれるから辛くなかった。
普段から風邪をひきやすく、喘息もあって、いつも咳をしてた。
ママが夜の仕事に行ってる時は、縦に抱っこして一緒に眠った。
パパは就職してはすぐに辞めてきて、ママの収入だけが生活を繋いでいた。
その夜も、アキは咳をしていた。
熱はなかったものの、どこか辛そうだった。
薬を飲ませて、背中をさすってあげて、絵本を読んで。
元気になって笑ってほしかった。
大好きな、あたしの可愛い妹、アキ。
そんなアキを置いて、今日もママは仕事に行く。行くしかない。
ママが休むと収入が減る。だから、仕方がなかった。
7歳の時はそんなことまでわからなかったけど、今なら少しは理解できる。
化粧をして、お客さんと時々メールをしながら着替えをしてたママ。
パパがおもむろに、こう言いだした。
「今日、お前の店に飲みに行っていいよな」って。
「あんたの今の仕事は、二人の子守りでしょ」
淡々と返すママの声は、どこか冷たい。
「でもよ、ほら。マナが子守り出来るし、同伴したら点数増えるだろ」
パパは笑いかけ、ママに頼み込む。
「……どうなのよ、マナ」
「え?」
きっと断ってくれるだろうと期待してた。
「いいよな?パパだって息抜きしなきゃ、どうにかなっちまう」
「年がら年中息抜きしてるくせに」
そんな二人の会話を聞き、必死に考えた。7歳の頭で。
「でもね、マナが出来ないって言ったら、無理なのわかってるでしょ」
冷たいまなざしで見下ろすママ。そして、
「出来ないはずないよな。もう7歳なんだからよ。な?」
顔は笑ってるのに、目がギラギラしてて怖いパパ。
「う、うん」
そう返す以外の選択肢がなかったんだ。
静かな部屋で、薬が効いたのか気持ちよさげに眠るアキの寝息だけが聞こえる。
あたしはその横で、宿題をしていた。
いつ眠ったんだろう。
宿題をしつつ、時々熱を測ったりしてたはず。
「うぅぅー、あぁーん。……げほっ」
アキが激しく泣いていた。布団の上には、吐いたものがこぼれていた。
「アキ……」
吐いた時のお世話はしたことがなかった。
オロオロし、とにかくママにと連絡をする。
携帯電話にかけても出ない。仕方なくお店に電話をして呼んでもらう。
「接客中って言ってるでしょ!」
こっちの事情も聞かず、数秒で電話は終わった。
「パパに電話してみよう」
その場にいるはずのパパに連絡してみると、数回目のコールで出たけれど、
「飲みに出てるって知ってるよな?」
ママと同じで、数秒で終わった。
茫然とした。カクンと床に膝をつき、そのまま振り返る。
激しく吐き続けるその姿は、とても怖く感じられた。それでも何もしないわけにはいかない。
大事な妹。助けてあげたい一心で、手を伸ばした。抱きしめるために……。
「いたっ」
パチンと弾かれた手。アキには悪意なんかあるはずがない。とにかく具合が悪くて、機嫌が悪いだけ。
なのに、すごく拒絶されたみたいで、涙が溢れてきた。
「お姉ちゃんのこと、嫌い? アキ……」
(助けて! 誰か!)
心の中で叫んでも、その声に気づくはずがない。
隣の人と仲がいいわけでもない。ましてや、人見知りが激しい自分。
(助けて)
心の中で繰り返し叫ぶしか出来ずに、時間だけが過ぎていった。やがて、アキは泣き疲れたかのように、クタリとして眠ってしまった。
「アキ?」
泣きやんだことにホッとして、アキに近づく。
「……アキ?」
泣きやんだんじゃなかった。
「アキ?」
薄く目を開き、どこかを見つめているような表情で、2歳のアキが死んでいた。
どれだけの時間が経ってたんだろう。冷たくなったアキを抱き、放心してたあたし。
パパとママが二人揃って上機嫌で帰ってきた。そして、すぐに異変に気づいた。
「ちょっと! どういうことなの?」
アキを奪い、激しく揺する。
「アキ! 起きなさいよ! ちょっと!」
パパはそんなママの姿をみて、大きく息を吐き、
「ゆっくり飲みに行くことすら出来ないってか? なんなんだよ」
あたしを睨みつけながら、そういった。
「ごめ、んな……さぃ」
はっきり言いたいのに、どんどん声が小さくなっていく。喉の奥が、キュッと絞まってしまう。
「謝ってすむことじゃないでしょ」
片手にアキを抱き、反対の手であたしを平手打ちした。乾いた音。それと頬と、背中に感じた痛み。
でも、痛さはあるのに、胸の方がもっと痛かった。
力なくママの腕の中にいるアキは、数日して小さな箱になった。
それまでも冷たかったママは、よりいっそう冷たくなった。
パパとも口を利かなくなり、お店にいる時が楽しいのと電話で誰かに話してた。
ただ炊いてあるご飯を、適当に食べる。おかずなんかない。
パパは奥の部屋に行って、ゲームをしてる。それか時々外出しては、お菓子をたくさん持って帰ってきた。
それを繰り返し、一周忌の日。パパは言った。
「あの時、お前まだ7歳だったもんな」って。
あの夜のことを許されたのかと思った。じんわりと涙が溢れかけた。でも、涙は流すことがなかった。
「子守り出来るって、簡単に受けなきゃよかったのよ。出来もしないくせに」
ママの冷たい一言で、涙は引っ込んでしまった。もう、泣くことも許されなかった。
ママには許されていなかったんだって、痛いくらいに気づかされた。
やがてパパと離れて、二人の生活が始まった。でも相変わらずで、あたしのことを無視してるような生活。
ご飯だけは炊いてある。でも、おかずはこれといって用意されていなかった。玉子でもと勝手に使うと、こっぴどく叱られた。
小さくなって生きてきた。それでも生かされていることは嬉しかった。
希望も夢もない毎日だけど、嫌われていたってママのそばにいれるのは幸せだったんだ。
「ママとの生活も、おしまい……か」
切り離されてしまった。新しい生活に、あたしは要らないということ。
時間が経てば、頭の中が少しいろいろ考えられるようになる。
「あれ? 今、お金っていくらあるの?」
生きててねって言ったけど、現時点での残金を知らない。お小遣いだってまともにもらっ
たことがなかった。
「さっきのカード!」
それをひったくるように手にして、近くのコンビニに急ぐ。メモに小さく追記されてた暗証番号を押す。
「あ……」
残金、千円ちょっと。唇をギュッと噛み、その千円を下ろす。それがなきゃ食べられない。
「千円で、次の振り込み予定までどうやって暮らせばいいの?」
帰り道は足が重たく感じられた。
お米も残りわずか。多少の料理は出来るけど、材料がない。
「化粧品とパンストばっかり入れてたもんね、ママ」
何か食品が入ってるといえば、卵か麦茶程度。
前途多難という言葉がよく似合う、一人暮らしが始まってしまった。
千円で食いつなぐのは、正直無理。古本屋でフライパンで焼けるパンというのを、こっそり携帯で作り方を写し、材料を買って作った。
ぶかっこうなパンを、今日食べる分だけよけて、それ以外は冷凍しておく。ジャムなんてものは高級品だ。
ただ、モソモソしたパンを食べる毎日だった。
飲み物は湯ざましだけ。中学生の女の子とは思えない食生活。
「鶏肉でいいから食べたいなぁ」
そんな独り言が増えていた。