第3話 『絶望の燃料』
アイアン・センチピードの群れを屠り、その甲殻の硬度と毒素を「略奪」してから数時間が経過した。
僕――芥川蓮の身体は、レベル21へと上昇したことで劇的な変貌を遂げていた。
視界は以前よりも鮮明になり、空気中に漂う魔力の流れが色のついた霧のように見える。
腕の皮膚は薄く黒光りし、指先には無意識のうちに鋭い爪が形成されつつあった。
それは人間としての「美しさ」を捨て、この地獄に適応するための「効率」を突き詰めた姿。
「……誰か、いるのか?」
『二重思考』によって拡張された聴覚が、密林の奥から微かな「音」を拾った。
魔獣の咆哮ではない。それは、ひどく掠れた、絶望に濡れた人間の声だった。
僕は気配を殺し、巨大なシダの葉を掻き分けて進む。
辿り着いたのは、巨木の根元に形成された小さな空洞だった。
そこには、三人の男女が身を寄せ合うようにして震えていた。
彼らの胸には、僕と同じ、薄汚れた灰色の刻印。
【個体識別:佐藤 健太(Lv.3)】
【個体識別:鈴木 舞(Lv.2)】
【個体識別:高橋 宏(Lv.2)】
【全員:適性ランクE(欠陥品)】
「ひっ……! くるな、くるなよ!」
リーダー格と思われる男、佐藤が僕の姿を見て悲鳴を上げた。
無理もない。返り血で汚れ、瞳に捕食者の光を宿した今の僕は、彼らの目には新手の魔獣と大差なく映っているのだろう。
「落ち着け。僕は人間だ……少なくとも、一昨日まではそうだった」
僕は錆びた短剣を鞘(のような布)に収め、両手を軽く上げて見せた。
僕の言葉を聞き、彼らは糸が切れたようにその場にへたり込んだ。
「……あ、ああ。良かった……。まだ、生きてる人間がいたんだな……」
「神様、助けて……。もう嫌、おうちに帰りたい……」
少女、舞が膝を抱えて啜り泣く。
その光景を見て、僕の胸に去来したのは同情ではなかった。
……言いようのない「苛立ち」だ。
「神様なんて、ここにはいないぞ。僕たちをここに棄てた張本人を拝んでどうする」
冷たく言い放つと、佐藤が縋り付くような目で僕を見た。
「君、レベル21なのか!? その装備……魔獣を倒したのか? お願いだ、僕たちを助けてくれ! 食べ物も水もないんだ。君なら、僕たちを安全な場所まで連れていけるだろ?」
安全な場所。
この原生林に、そんな場所が存在するとでも思っているのか。
『略奪者の眼』が彼らを分析する。
【警告:対象の生命活動は著しく低下しています】
【精神汚染度:高。戦闘継続能力:皆無】
【結論:新世界の苗床(肥料)としての価値のみを保持】
システムは残酷だ。
神々が作ったこの世界において、レベルを上げられない弱者は「肥料」でしかない。
二十人の英雄たちが、聖女オリヴィアの回復魔法やアーサーの騎士道精神で人々を導いている裏で、この吹き溜まりには救いなど一切ないのだ。
「悪いが、僕は聖者じゃない。自分の命を守るだけで精一杯だ」
「そんな……! 見捨てるのかよ! 同じ日本人だろ!? 同じ、Eランクの仲間じゃないか!」
佐藤の叫びが森に響く。
その瞬間、『二重思考』が異常な殺気を感知した。
「……黙れ。その声が『何か』を呼ぶ」
ガサリ、と空気が重くなる。
樹上の闇から、粘り気のある液体が滴り落ちた。
それは、バイコーン・ウルフやアイアン・センチピードとは比較にならない、圧倒的な上位者の気配。
原生林の影に潜む暗殺者――『シャドウ・ストーカー(Lv.65)』。
「ひっ……あ、あああああ!!」
佐藤の視線の先、舞の背後の空間が「歪んだ」。
実体を持たない影のような刃が、無防備な彼女の背中に振り下ろされようとしていた。
「――キィッ!!」
断末魔のような音と共に、漆黒の鎌が舞の華奢な肩を深々と抉った。鮮血が巨木の根元を赤く染め、原生林の腐臭を塗り替える。
「舞!!」
佐藤が叫び、腰の抜けた宏が後ずさりするが、**『シャドウ・ストーカー(Lv.65)』**は止まらない。実体を持たない影のような身体を蠢かせ、獲物の絶望を啜るように次の刺突を繰り出す。
(くそっ……見えない……速すぎる!)
僕の網膜を染めたのは、自分の傷から流れる血ではなく、倒れ伏した舞から溢れ出す「純粋な絶望」をシステムが強制的に可視化した赤色のノイズだ。脳内を埋め尽くすのは、慈悲の欠片もない機械的な問いかけだった。
【固有スキル『弱者の共鳴』が対象の「死の際」に強制同期を開始――】
【――『弱者の絆:命の譲渡』を実行しますか?】
「助けて……蓮、さん……」
地面に這いつくばり、僕に手を伸ばす舞。その瞳には、かつて新宿の雑踏で見かけたような、平凡な少女の光がまだ微かに残っていた。
だが、僕の心は冷徹な計算を終えていた。
英雄なら彼女を救っただろう。だが、神に棄てられた僕には、錆びた短剣と呪われた共鳴しかない。
「舞、ごめん。……君の命、僕が有効に使わせてもらうよ」
僕は伸ばされた彼女の手を握りしめた。救うためではない、搾り取るために。
「実行しろ」
【個体名:鈴木 舞。生命活動の強制停止を開始――魔力変換率:100%】
舞の瞳から光が消え、彼女の身体が青白い粒子の奔流となって僕の刻印へと吸い込まれた。直後、肉体が内側から弾け飛ぶような破壊的な衝撃が僕を襲う。
「ああああああああああああかっ!!」
【一時的レベルアップ:Lv.21 → Lv.68】
【スキル習得:『影移動』を一時複製しました】
「……キィ、ィ……?」
シャドウ・ストーカーが困惑し、動きを止める。
一瞬前まで「餌」だった個体が、自分を遥かに凌駕する死神へと変質したからだ。
僕は影を蹴った。新しく手に入れた『影移動』で、実体のない魔獣の背後へと一瞬で転移する。
狼の膂力、ムカデの硬度、そして仲間の命を燃料にした、僕のすべてを乗せた一撃。
「死ね」
ドス黒い魔力を帯びた短剣が、空間ごと魔獣を断ち切った。防御すら許さない、圧倒的なレベル差による蹂躙。
シャドウ・ストーカーは断末魔の叫びすら上げられず、霧散して消えた。
【シャドウ・ストーカー(Lv.65)の討伐を確認。Lv.21 → Lv.35(恒久化)】
静寂が戻った森の中で、舞だった光の粒子がまだ空中に漂っている。
佐藤と宏は、仲間を「燃料」にして怪物を殺した僕を、怪物を見るような瞳で見上げていた。
「彼女は死んだ。……僕の中で生き残る道を選んだんだ」
血の付いた短剣を振り払い、僕はさらに深い闇へと歩き出した。
二〇二六年一月二日。
僕は、二度目の人間を辞めた。




