第1話 『最も弱い者の強さ』
「……っ、がはっ!」
肺の中の空気がすべて暴力的に押し出されるような、硬い衝撃。
芥川 蓮が目を開けたとき、視界を埋め尽くしていたのは、先刻までの白銀の虚無でも、住み慣れた新宿のビル群でもなかった。
視界を遮るほどに巨大なシダ植物の葉。
見たこともない極彩色の花々が、湿り気を帯びた熱気を孕んだ風に揺れている。
鼻を突くのは、腐敗した植物と、微かに混じる鉄錆のような「血」の匂い。
手のひらに触れる土は異様に柔らかく、まるで生き物の肉を踏んでいるような不気味な弾力が伝わってくる。
「ここは……本当、に……」
震える腕で地面を押し、上体を起こす。
横には、神々が「憐れみ」として投げ捨てた一本の短剣。錆びつき、刃こぼれしたその刀身は、今の蓮の立ち位置を象徴しているようだった。
(……一〇〇万人の選抜。二十人のSランク英雄。そして、僕は……Eランクの『欠陥品』)
脳裏に、あの傲慢な神々の声が蘇る。
聖騎士長アーサー、魔導の深淵イザベラ、剣聖神代……。選ばれた英雄たちが黄金の光に包まれ、新世界の玉座へと昇っていく中、自分だけがゴミのように奈落へ捨てられた光景。
「クソ……ふざけるなよ、神様(クソ野郎)……っ!」
叫びは濃密な森の空気に吸い込まれ、返ってくるのは地響きのような不気味な咆哮だけだった。
同時に、視界の端で血のように赤いシステムウィンドウが明滅する。
【通知:新世界『アルトリア』へようこそ】
【エリア:最果ての原生林(Survival Area 00)を検知しました】
【警告:貴方の現在地は、レベル1の個体が生存可能な領域ではありません】
【推奨:死を受け入れ、魂の還元を待機してください】
「死を受け入れろ、だと?」
蓮は自嘲気味に笑った。
神々だけでなく、この世界を支配するシステムそのものが僕を見捨てるのか。
だが、その絶対的な絶望が、彼の魂の奥底で冷たく燃える「反逆の炎」に火をつけた。
(死んでたまるか。あんな奴らに、あんな勝手な選別で、僕の人生が終わっていいはずがない……!)
蓮は震える手で錆びた短剣を握りしめた。
その瞬間。
「――グルルル……」
背後の茂みが、大きく揺れた。
空気が一瞬で凍りつく。蓮の生存本能が、脳内で激しい警報を鳴らしていた。
ゆっくりと振り返った先。そこには、体長三メートルを超える、二つの頭を持った巨大な狼がいた。
『バイコーン・ウルフ』。
その四つの瞳は飢えと残虐な殺意に染まり、蓮という「弱肉」を逃がさないと確信していた。
【個体識別:バイコーン・ウルフ】
【推定レベル:Lv.48】
【個体ステータス:絶望的(貴方の戦闘力とは48倍以上の開きがあります)】
(レベル、48……!?)
蓮のレベルは1。ステータス合計値もすべて最低。
対する狼は、一噛みで蓮の身体を砕き、二つに引き裂く圧倒的な捕食者だ。
「ガアアアアアアアッ!!」
狼が跳んだ。
巨体に似合わぬ神速。蓮の動体視力では、それはただの「銀色の残像」にしか見えなかった。
(……死ぬ。あ、これ……本当に死ぬんだ)
時間が引き延ばされたような感覚。
迫り来る狼の牙。その隙間に挟まった、誰かの肉片が見える。
アーサーたちが華やかな祝宴を挙げている頃、自分は名もなき獣の餌として消える。その不条理が、蓮の魂の「芯」を叩いた。
【――条件達成を確認】
【絶望指数の極大化。生存本能の暴走】
【固有スキル:『弱者の共鳴』が真価を発揮します】
ドクン。
蓮の心臓が、世界を震わせるような音を立てて脈打った。
視界が赤く染まり、情報の激流が脳内を駆け巡る。
【対象:バイコーン・ウルフ(Lv.48)を「強者」としてロック】
【「弱者」による理への介入を開始――】
【――『弱者の特権:能力同期』を発動】
「……ア、アガ……アアアアアアアッ!!」
蓮の全身の血管が浮き上がり、筋肉がミシミシと悲鳴を上げて膨張する。
激痛。本来、レベル1の器には到底耐えきれないはずの「レベル48」の筋力と魔力が、強引に蓮の肉体へと流し込まれていく。
狼の牙が蓮の肩を掠める寸前。
蓮の身体が、地面を爆ぜさせて横へと跳んだ。
「……なんだ、これ」
自分の身体じゃないみたいだ。
世界が遅く見える。狼の動き、筋肉の弛緩、次の跳躍の予備動作――すべてが「理解」できる。
狼は困惑したように二つの首を傾げた。目の前の「羽虫」が、突然自分と同等の、いや、それ以上に禍々しい気配を放ち始めたからだ。
「……面白いな。これが、僕に与えられた『欠陥』の正体か」
蓮は短剣を逆手に持ち替えた。
錆びた刀身に、ドス黒い魔力が纏わりつく。それは神々が授ける聖なる光とは対極にある、奈落の底から這い上がるための「呪い」の輝き。
(英雄たち……見ていろ。お前たちが築く新しい世界なんて、僕が全部食い荒らしてやる。神が定めたランクも、理も、すべて僕が塗り替える)
蓮の瞳から人間としての光が消え、飢えた獣と同じ、冷徹な捕食者の輝きが宿った。
「来いよ、駄犬。……僕の最初の糧になれ」
狼が二つの顎を限界まで開き、原生林の空気を震わせる咆哮を上げた。直後、強靭な後ろ脚が地面を爆ぜさせ、銀色の閃光と化して僕の視界を塗りつぶす。
――だが、その「神速」すら、今の僕には鈍重な獣の足掻きにしか見えなかった。
『弱者の共鳴』。
それは単なる模倣ではない。対象の強さを鏡のように写し出し、その力を「弱者」という歪んだ器に強制注入する、神々の理を冒涜する禁忌の力。
「……見えてるんだよ、全部」
身体を内側から焼き切るような魔力の激流。断裂寸前の筋肉が悲鳴を上げるが、それ以上に僕の感覚は冷徹に研ぎ澄まされていた。
突進してくる狼の筋肉の弛緩、重心の移動、殺意の指向性。
そのすべてが、泥のように遅い情報の羅列として脳内に流れ込んでくる。
「ガアアァッ!」
左側の首が、僕の喉笛を断つべく牙を剥く。
僕は一歩も引かなかった。引く必要など、どこにもなかった。
最短の動作で半身をずらし、死の顎を紙一重で回避する。
空振った狼の横顔を、僕は冷めた瞳で見つめ――魔力を帯びた錆びた短剣を、その左目の奥深くへと迷わず突き立てた。
ズブり、という生々しい肉の感触が、短剣の柄を通して僕の腕に伝わってくる。
「ガアァァァァッ!?」
狼の悲鳴が森を切り裂いた。
左の眼球を破壊され、脳にまで達しようとする鋼の冷たさに、バイコーン・ウルフの巨体が狂ったようにのたうち回る。
だが、その暴威すら今の僕には心地よかった。
「ア、ガ……ッ、アアアアア!!」
僕の肉体からも、限界を超えた負荷による悲鳴が上がる。
レベル48の力を無理やり使っている代償だ。肩の筋肉が音を立てて断裂し、皮膚の至る所から血が噴き出す。だが、その激痛が僕の脳をさらに冷酷に研ぎ澄ませていく。
(もっとだ……もっと力を。こいつの喉を食いちぎるだけの、圧倒的な暴力を!)
『共鳴』の同期率が跳ね上がる。
僕の背後に、黒い魔力の残滓が狼の形を成して揺らめいた。
狼の右側の首が死に物狂いで噛みついてくるが、僕はそれを左腕で「受けた」。
「……グ、ギィ……ッ!」
鋭い牙が僕の左腕を貫き、骨が軋む嫌な音が鳴る。
だが、僕は笑っていた。
「捕まえたぞ、駄犬。……逃がさないと言っただろう?」
至近距離。逃げ場はない。
僕は短剣をさらに深く押し込み、そのまま素手で狼の右側の顎を掴んだ。そして、同期した「レベル48」の膂力を一点に集中させる。
ベキベキッ――!!
狼の顎が、あり得ない方向に捻じ曲げられた。
絶叫すら上げられない狼の喉元に、僕は左腕を貫かれたまま、右手の短剣を引き抜き、横一文字に切り裂いた。
噴き出した熱い返り血が、僕の顔を赤く染める。
巨大な肉塊が、数回の痙攣のあと、沈黙した。
【警告:身体への過負荷が限界を超えています】
【同期を解除。身体修復プロセスを開始します……】
「……は、ぁ……っ、はぁ……」
力が抜け、僕は狼の死骸の上に崩れ落ちた。
全身を襲う、焼けるような激痛。腕はボロボロで、意識が遠のきそうになる。
だが、視界に浮かぶウィンドウが、僕に「勝利」を告げた。
【バイコーン・ウルフ(Lv.48)の討伐を確認】
【経験値を獲得しました。レベルが上昇します……】
【Lv.1 → Lv.15】
【スキル習得:『略奪者の眼』を自動獲得しました】
【固有スキル『弱者の共鳴』の恒久的な出力が向上します】
「レベル、15……」
一気に跳ね上がった身体の軽さ。
傷口が急速に塞がっていく。これが「レベルアップ」による恩恵か。
神々に愛された二十人の英雄たちが、安全な都で祝福を受けている間に、僕は「死」そのものを喰らって、誰よりも速く成長を開始したのだ。
僕は震える手で、狼の死体から流れ出す魔力の粒子を見つめた。
そして、遥か上空を仰ぐ。
分厚い木の葉の隙間から、黄金に輝く「都」の幻影が見えた気がした。
(アーサー、イザベラ、神代……。そして僕を棄てた神々。待っていろ)
僕は静かに立ち上がった。
生き残るため。そして、いつか彼らのいる高みへ辿り着き、その顔を絶望で染め上げるため。
「欠陥品は……ゴミは、ゴミなりに……お前たちを、下から引きずり下ろしてやる」
原生林の闇の中、少年の瞳には、静かな決意の光が宿っていた。
不条理な世界への、静かな、そして苛烈な宣戦布告。
これが、新世界アルトリアにおける「芥川蓮」の、本当の誕生だった。
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