八話 酔いどれ妖怪
「はい、お久しぶりですね」
「こんなとこで何してるんです? 牛の散歩? いやあ、そうだ、牛にも散歩は必要だなあ。ところで酒はもう呑めるようになりましたかい?」
「散歩ではありませんし、この方は牛ではありませんよ。そしてお酒はまだ呑めません」
「ありゃあ、そうですかい! 失敬失敬!」
どうやら名を升と言うらしい男は、カコの言葉を聞いてバツが悪そうに頭を掻いた。
が、すぐにまた侃螺を撫でくりまわし始める。
右の耳から入った話が、滑らかに左の耳から流れ出ているようだ。
「だからっ、やめよと言っている!」
「侃螺さん、こちらは升さんという方です。妖怪ですよ」
「わかるわそのくらい!!」
侃螺は擬人体に変じ、何とか酔っぱらい男改め妖怪・升の腕から抜け出す。
残念そうに「ああ」と声を漏らす升を捨ておき、彼は踵を返した。
「全く。はた迷惑は酔いどれだ。行くぞ、荒井カコ」
「…………」
が、カコは侃螺に返事をしない。
目を離した隙に瓶から酒を直飲みし始めた升の方を、じっと見ている。
「何をしている。よもやここでこやつと立ち話をし、時間を無駄にしたいなどとは言うまいな?」
「いえ」
ふるふると首を横に振り、カコは笑った。
「侃螺さん、留守番が見つかりましたよ」
「……は?」
***
数分後。
荒井カコと侃螺は、升を伴って荒井家へと帰って来た。
玄関の戸を開け、三和土で靴を脱ぎ、直通の和室へと上がり込む。
「おお、ここが姐さんのご自宅かあ! 広々として良いとこですねえ!」
「はい。どこかの誰かさんのせいで、とても広々しました」
言葉を交わす升とカコを、侃螺はじとりと見つめた。
――この升とかいう妖怪、酒飲みっぷりからして恐らく山に住むあの一族の者だろう。
体は丈夫だが、戦いに強いとは言えず、むしろ戦わずに逃げる性質だ。
特にこの升に関しては、まるで戦闘能力があるように見えない。
すなわち「悪意ある妖怪や人間から家を守る役」として、升は不適だ、と侃螺は思っていた。
が、それでカコが痛い目を見るならまあ良い気味であるので、黙っておくことにした。
「で、留守番ってなあ何すりゃあ良いんで?」
居間の座布団にどっかりと座り、なぜか一升瓶を抱きかかえながら升は尋ねる。
「余所の人間や妖怪が入って来ないよう、見張っていてください。来訪者があればお帰りいただいて、無理に入ろうとする者は力づくで追い返してくれれば良いです。ただし『鵬天』さんと『季玖露』さんは入れてあげてください。私の知り合いですから」
「ふむ、なるほどねえ。留守番ってわけだ」
既にそう言っているだろうに、何が「ってわけ」なのだろうか。
升の頭は相当、酒でふやけているらしい。
「外出は昼間、1時間以内に収めてください。それからお礼と言っては何ですが、このお財布に入っている分のお金は好きに使っていただいて結構です」
「や、や、悪いですねえ。わしゃあ姐さんの頼みなら喜んでタダ働きしますけどね、や、くれるってんならそりゃま、嬉しいですけどねえ」
「他のお金に手を付けたら殺しますから、気を付けてくださいね」
「へえ、そりゃ重々! 姐さんの信頼を裏切るような真似はしませんよお」
へこへこと頭を下げ、升は恐縮する。
息継ぎの間にちびちび酒を呑んでいるので傍から見れば普通に不誠実だが、ともかく恐縮している。
と、そこで侃螺が口を開いた。
「貴様、先ほどから気になっていたが『姐さん』とは何だ。なぜ妖怪が人間にへりくだる。それも、よりによってこの荒井カコに」
「おう、興味がおありかい? 話すと長くなるんだがなあ」
酒臭い息を吐き、もったいぶるように升は言う。
彼は一升瓶を抱え直すと、仰々しく咳払いをして語り始めた。
「わしの行きつけの飲み屋に、暴漢がやって来たことがあった。だがたまたま居合わせた姐さんがそいつを叩きのめしてくだすったんだ。以来、わしは姐さんを敬ってるってわけよ」
「全く長くない話だったな」
侃螺は盛大に溜め息を吐く。
本当にその通りであり、特に変わった話でもなかったため拍子抜けも良いところであった。
「まあいい。ともかく荒井カコ、これで貴様の憂いが消えたというのなら疾く美在所山へと向かうぞ」
「そうですね。では行きましょう」
升の近くに座っていたカコは立ち上がり、いそいそと出立の準備をし出す。
「ええ? 姐さん、もう暗くなってきてますぜ? 真夜中は電車も動いてねえし、朝んなってから出発した方が良いんじゃねえですかい?」
「いえ、時間が惜しいので」
カコは答えながら、学生鞄の中身を出して、代わりに過去帳と自分の財布を投入。
スマホと新しいハンカチも入れ、パタンと蓋を閉じた。
準備完了だ。
随分と早く、単純な準備だったが、持ち物も何も無い侃螺に比べれば時間のかかった方である。
カコは急かすような視線を送る侃螺とガンを飛ばし合いつつ、玄関へと向かう。
セーラー服を着、学生鞄を持ち、そしてローファーを履いた彼女の姿は、学校へと登校する学生のそれに相違ない。
しかしその実、荒井カコが赴くのは遠く離れた山であり、目的も勉学などではなく良くて喧嘩、悪くて殺し合いだ。
それでも彼女は学校に行くのと変わらない足取りで、敷居をまたいで外に出た。
「留守番、よろしくお願いしますね」
「へえ。いってらっしゃいまし」
ガラガラ、ピシャリと戸が閉まり、カチャンと鍵が下りる。
升に見送られ、カコと侃螺は荒井家を後にした。
「……ところで姐さん、何しに行くんだ?」
居間に戻って数秒の後、ふと升は首を傾げる。
そう言えばなぜ留守番が必要なのか、いつまでやれば良いのかなど、全く聞いていない。
美在所山とは、はてどこだったか。
カコの帰りは短ければ1日か、長ければ100年くらいかもしれない。
もうしかすると、出先で死んで、二度と帰って来ないかもしれない。
その時はどうすれば良いのだろう。
「ま、いいや。そんときゃ彼岸に見に行くだけだわな」
升はそう言って、化けの皮を脱ぎ、赤い毛むくじゃらの姿でまた酒を呑み始めた。




