第2話(苦難の幼少期)
実父が自身に関わらなくなったことで、ナイトー伯爵家当主ミイカ・ナイトーからの折檻は収まったアイルシア。
しかし、まだ子供であり、親が恋しい年齢であることに変わりはない。
この頃のアイルシアは、何かにつけて涙を貯めてしまう、不幸な少女の典型的な見本のようであった。
ナイトー伯爵家は大富豪であることから、執事や侍女といった伯爵家の家族と直接接して世話をする上級の雇用人以外にも、普段は一切伯爵家一家と接することのない、底辺的な下働きに専従する使用人達も雇われている。
そうした大貴族の使用人のうちでも、最下層に位置する人々の労働時間は早朝帯と夜間帯がメインで、昼間帯が休憩時間の場合が多い。
しかし、安い賃金のため帝都中心部にある大邸宅まで都合良く通えるような場所に家を買ったり借りたりすることはほぼ不可能である。
利便性と継続的な雇用等も加味して考慮すると、広大な屋敷の敷地の一角に簡易な集合住宅を建てて貰い、そこで家族と一緒に住み込みながら、朝から晩まで仕事をしつつ生活しているケースが標準なのである。
アイルシアは、父の世話を受けられなくなったことから、やがて屋敷を出ることとなった。
「アイルシア、グドールです。 よろしく、おねがい、します」
まだ年端もゆかぬ少女が、ヨレヨレの衣服に身を包み、亡き母からプレゼントされた小さな人形2つを大事そうに抱き抱えて、ナイトー伯爵家に仕える下働きの者達が住む集合住宅の食堂に現れ挨拶をする姿は、ここで暮らす十数名の者達の心に何か響くモノを与える程の物悲しさであり、世の中の寒風の凄まじさを感じさせるものであった。
アイルシアはたった一人でこの場所にやって来たのだから。
部屋の鍵を一つだけ小さな手に握り締め......
『なんということだろう......ご当主様の夫の実子なのに......』
『まだ幼いのに......世の中は無常過ぎる』
『いくらなんでも可哀想。 同じ敷地内で暮らすことに変わり無いとはいえ、その父すら一緒に来ることがないなんて......』
一同は予め、伯爵直属の執事アシナから簡単な説明を受けていたので、事情はわかっていたものの、いざアイルシアがやって来ると、その悲惨な姿と状況を目の当たりにしたことで、情が湧くのは当然のことであった。
「アイルシアちゃん。 何か困ったことが有ったら、遠慮なくオバチャン達に言いな」
この集合住宅に住むヒロコ・カスガなる中年の女性が、しゃがみ込みながらアイルシアに話し掛けると、堪えていた寂しさという瀑流の塊が、たちまち決壊してしまい、アイルシアの両眼は涙が溢れ始める。
その両眼を薄汚れた衣服の袖で拭いながら、
「ありが、とう......ございます」
と答えると、そのまま嗚咽が止まらなくなってしまう......
「うっ、うっ......」
必死に声を抑えながら、涙は堪えるアイルシア。
この子がナイトー伯爵家に引き取られてからまだ数ヶ月程度であったが、幼子とは思えない丁寧な喋り方と、我慢強そうな姿を見せたことは、この集合住宅に住む伯爵家で最も身分の低い使用人達にも、今まで屋敷内でアイルシアが受けて来たであろう厳しい境遇の一端が垣間見えたのであった。
その後、代わる代わる住み込みの中年女性達が、アイルシアの面倒を見るようになる。
まだ未就学児だったこの時のアイルシアは、朝ごはんを食べる為、屋敷内にある侍女達用の食堂に向かうと、夜ごはんを食べ終えるまで集合住宅に戻って来ないという日々を過ごしていた。
姿が見えなくなるその間は、父ショーウの意向で、貴族の家に仕える侍女となるべく、厳しい教育を受けていたのだ。
「アイルシアちゃん、大丈夫?」
毎日、泣き腫らした顔で集合住宅に戻って来るので、流石のオバチャン達も心配になる。
「だい、じょうぶ......です......」
気丈には答えるものの、誰の目にも、どう見ても大丈夫には見えない。
「辛かったら、我慢せずに、ね」
貴族の家に仕える者達は立場上、安易に愚痴を漏らすことすら出来ないことは、オバチャン達にもわかっている。
それが、当事者達の耳に入れば、更に酷い仕打ちを受けることが明白だから......
それでも、その様に話し掛けずには居られないヒロコおばちゃん達なのであった。
伯爵が双子を産むと、それぞれに専用の執事と侍女が配置されることとなり、それと共にアイルシアの体の痣が再び増え始めてしまうことに......
それは、長女マイカ・ナイトー付きの執事と侍女達が、マイカのライバルとしてアイルシアを見定め、標的にしたからであった。
当主のミイカとは血の繋がりが無いとは言っても、アイルシアは双子の異母姉に当たる存在。
双子の妹であるレイカ付きの者達から見れば、その最大のライバルは姉マイカであるが、マイカ付きの者達から見れば、その最大のライバルは更に姉のアイルシアと考えてしまうのは、跡取りに仕える者達として致し方のない貴族社会の性である。
大貴族の間で跡目争いは激しい場合が多く、しかもナイトー伯爵家は大富豪であるのだから......
マイカ付きとなった執事のアキラ・モガミと侍女のラーラ、メグの二人は、程なくして代わる代わるアイルシアに対して暴力を振るうようになっていた。
侍女となるべく教育の一環の躾という名目で......
「アンタ、また粗相したの?」
メグは、アイルシアがティーを淹れるのに失敗して、汚れた服を着替えて控室に戻って来たのを見付けると、誰の目もないことを奇貨として、ここぞとばかりに足蹴とビンタを喰らわせる。
「う、うっ......」
痛みよりも、若い下級侍女クラスの女性に暴力を振るわれたことのショックで、涙が止まらなくなる。
「一応姉妹だからって勘違いするんじゃないよ。 アンタはマイカお嬢様とは比べ物にならない程の下等な存在。 屋敷内で暮らしていた頃とは違うの。 よく自覚しなさい」
「......」
まだまだ子供のアイルシアは、一瞬反抗的な目つきをしてしまう。
それに気付いたメグは、再びアイルシアに往復ビンタを喰らわす。
「なに? 文句あるの」
普段は我慢強いアイルシアだが、この時は普段のストレスと苛立ちを非常に強くぶつけてきたメグのその言葉とビンタの痛みで、泣き声を我慢することが出来なくなる。
「わ〜ん、わ〜〜」
堰を切ったように泣き声を上げるアイルシア。
こうなると、静かな大きな屋敷内であっても子供の泣き声が鳴り響いてしまい、ミイカ付きの執事や侍女、更にはレイカ付きの執事や侍女にも気付かれてしまったのだ。
かつて、侍女達の間で陰湿なイジメがあって自殺者が出てしまったことから、扉が外されている控室からのアイルシアの大きな泣き声を聞きつけ、部屋に向かって来る数名の足音が大きくなる。
やがて、
「アイルシア、何か有ったのか?」
当主不在中における屋敷内全般の秩序の維持を任されているミイカ専属の執事ヒロヒコ・アシナが、呆れた表情でメグの方を見ながら確認する。
それに対してアイルシアは、
「うう、ころ、んで、うう、いた、かったので......」
と事実と異なる言い訳をするも、既に侍女となるべく厳しい教育を受けて数ヶ月以上経つのに、これ程の大泣きを転んだだけでする筈が無い。
控室には2人しか人が居なかった以上、直ぐにマイカ付きの侍女メグが折檻したことに気付いたが、事態を荒立てるつもりもない、事なかれ主義の執事アシナ。
「伯爵様は非常にご多忙な身なのだから、余計な悩みを増やすのではないぞ」
とアイルシアとメグ2人に対して軽く叱責しただけで済ますのであった。
またある日は、侍女達の控室にやって来た執事モガミが、誰も居なくなったタイミングを見計らって吸っていたタバコの火をアイルシアの腕に押し付ける。
それに対して一切声を上げず、ただ火傷の痛みで慌てて腕を引っ込めるアイルシア。
すると、
「ああ、悪い。 マイカお嬢様の灰皿のような存在が、目についたからさ〜」
と、性格の悪さが滲み出た表情を隠すことなく見せつけると、アイルシアの顔に向けて、口臭混じりの臭いタバコの煙を吹き掛ける。
思わず、咳込むアイルシア。
それを見ながら、ニヤつきつつ、部屋を出て行く執事モガミであった。
小学校に入学するまでは、このような形でマイカ付きの3人から、しょっちゅう折檻を受けたアイルシア。
あまりにも酷い状況は、日に日に体の傷が増えていくことで、一緒に集合住宅で暮らすオバチャン達も気付いたのであった。
「何も言わなくてイイから。 もう我慢することはないよ。 性格の悪いマイカお嬢様付き執事のモガミと侍女達の仕業だね? わかった。 オバチャンに任せな」
アイルシアは何も言わなかったものの、このように一方的に語ってくれたヒロコおばちゃんが執事のアシナに申し出てくれたこともあったが、所詮、下働きの者の訴え。
しかし、ヒロコおばちゃんの勇気あるこの行動がキッカケとなり、大事になってミイカの耳に入ってしまえば、家中の取り締まりが緩いと叱責されるかもしれないと判断し、ようやく重い腰をあげた筆頭執事のアシナ。
ある日、マイカ付きの執事モガミへ忠告する為、まだ乳児の伯爵令嬢マイカが眠る部屋を訪れたのだ。
「そろそろ、アイルシアに対する態度を改めた方が良いぞ」
格上の当主付き執事とはいえ、マイカ付きの者達に対する過剰な介入だと感じたモガミ。
「どういう意味だ?」
と答え、露骨に嫌な顔をする。
その様子を眺めつつ、年長者の威厳を見せる為に、一つ咳払いをすると、窓外の立派な庭園を眺めながら、話を続ける。
「これは、私の独り言だが、ミイカ様との約束で今後あの子は高校卒業まで学校に通う予定だ。 だからあと2ヶ月もすれば、小学校へと入学することになる。 そうなると入学早々健康診断が有るだろ?」
「......」
「その時、アイルシアの体が痣だらけで火傷痕まで有ったら、いくら貴族の使用人とは言っても、医師は児童虐待の疑いを国に報告せざるを得ん。 帝國の法律に拠れば12歳以下の子供への過剰な躾は貴族の特権の対象外で、犯罪扱いとなるからな。 その話が外に出れば、伯爵様の評判を大きく下げることになるだろう」
「アシナ殿......私は伯爵様にご迷惑を掛けるつもりは......」
「そうしたことが伯爵様の耳に入れば......後継者はレイカお嬢様で決まりだな......」
アシナはそう呟くと、スヤスヤ眠るお嬢様に一礼だけして、マイカの部屋を出て行く。
そこに残った執事のモガミと侍女2人の顔面は蒼白になるのであった。