第1話(悪夢を見続ける日々)
「ママ〜」
「なに? アイルシア」
「ママは、いつも優しいね」
「どうしたの、急に?」
「なんだか、言いたくなっちゃって」
「突然だからびっくりしちゃったわ。 でも、ありがとうアイルシア」
「うん」
「そうだ。 ありがとうって言ってくれたアイルシアにイイ事教えておこうかな〜」
「イイコトってなに?」
「グドールっていう名前、変えちゃ駄目ってこと」
「なにそれ。 よく分からないよ〜」
「お父さんのウミノっていう名前に変えちゃダメってことよ」
「え~〜、なんで〜〜」
「グドールのままの方が、将来きっと良い事があるわ」
「よく分からないよ〜」
「アイルシアが大きくなった時にね、ウミノよりグドールの方が、色々プレゼントを貰えるってことかな〜」
「プレゼント、プレゼント欲しい〜」
「じゃあ、約束しようか〜」
「ゆびきりげんまん〜♪」
木漏れの下で、幼い我が子を抱き上げる母。
この若い女性の名は、アーシア・グドールという。
帝國騎士であるショーウ・ウミノと結婚して、直ぐに授かった娘がアイルシア。
貴族階級の最下層である帝國騎士は、軍人であるが故に国から決まった給料しか支払われない為、家族3人の生活は決して裕福では無く、それどころか、結婚して以後平民の平均をやや下回る様な生活を送っていたが、アーシアの生涯でこの時が一番の幸せな瞬間であった......
ところがアーシアには、夫にも娘にも話せない秘密が有った。
彼女の先祖は、海洋大帝國の帝國皇帝に代々仕えた側近中の側近の一族であり、政治体制が大きく変わった現代においても、その歴史を引き摺ったままの一族であったのだ。
その為、彼女も普段はごく平凡な一般人を装っていたが、密命を受ければ極秘任務に就かねばならぬ宿命を背負い続けていた。
「ママ、ママ......え~ん、ママ、目を覚まして〜」
集中治療室に響くアイルシアの泣き声。
連絡を受け、慌てて病院に駆け付けた夫は、その横で呆然と立ち尽くしたまま。
とある極秘任務を遂行中、敵に襲われて瀕死の重傷を負ったアーシアが発見された時、既に意識が無かったのだ......
やがて、そのまま意識が戻ること無く、息を引き取ってしまった......
誰もが羨む程の美しい妻アーシアを娶ることが出来て以来、同僚や友人達から常に羨望の眼差しで見られていたショーウ。
その結婚生活は、僅か4年余りで幕を閉じたのであった......
その後、まだこの時24歳と若いショーウは、幼いアイルシアを連れて、実家に戻ることとなった。
アーシアの家族については、天涯孤独で身寄りが居ないとしか教えて貰っておらず、幼い娘の世話をアーシアの家族にお願いするようなことが一切できなかったからだ。
帝國騎士とは、即ち貴族階級の軍人である。
大半が平民で構成された帝國国防軍とは別の組織である帝國皇軍所属であるものの、現代における仕事の内容は国防軍と似たりよったり。
ただ、一つ異なる部分は、貴族階級が開く公的なパーティーの警護任務に就く頻度が非常に多いので、基本的に騎士は見映えのする人物や見た目の良い人物が求められる。
その為、貴族の御令嬢や未亡人に見初められて、結婚することが出来れば正式な貴族へと出世するケースもままみられるのであった。
ショーウも相当なイケメンであり、愛妻を亡くした喪失感から直ぐに立ち直ることが出来たのは、パーティーの警護で、ある貴族の美女から声を掛けられたことがキッカケであった。
その美女とは、ミイカ・ナイトー伯爵。
女性であるが、れっきとした伯爵家の当主であり、しかもナイトー伯爵家は、帝國貴族の中でも指折りの大富豪。
ミイカの容姿は、アーシアに比べればだいぶ落ちるものの、十分美女と言えるレベルであり、しかもアーシアには無い無尽蔵の財産という金銭面での大きな魅力を持つことから、ショーウがアーシアを亡くして間がないにも関わらず、新しい女性に惹かれてしまったのも致し方ないことであった。
直ぐに2人は恋に落ち、アーシアの死後半年もしないうちに結婚。
ただ新しい夫婦の間の最大の問題は、ショーウが先妻との間にもうけたアイルシアの存在であった。
「貴方〜。 私は貴方の連れ子を引き取る気はありませんからね〜。 ご実家で育てて頂いたら?」
ミイカは貴族の当主というだけでは無く、大企業ナイトーカンパニーの経営者の一人でもあり、非常に気の強い人物である。
「わかっているよ。 ただ、俺の実家も孫を育てる余裕は無いって言うからさ〜」
運良く、大富豪貴族の当主の夫という座に収まることが出来た以上、ショーウはその座を失うつもりは無い。
ただ、二人の新しい生活の邪魔だからと言って、実の娘を施設に放り投げる程の、人でなしという悪い性格でもなく、その処遇の決定に苦慮していたのは事実であった。
その後、ミイカは貴族のパーティーで、ある質問をされたことで、少し考えが変わったのだ。
「伯爵様。 ご結婚おめでとうございます」
「ありがとうございます。 公爵夫人」
「ところで、新しい旦那様には連れ子がおられるようですね?」
『炎龍公』と別名も付与されているほどの大貴族中の大貴族、サージェ公爵の夫人からこのような質問を受けたことに、少し驚いたミイカ。
「はい、その通りですが......」
「あら、伯爵様。 どうして家の内情を知っているのっていう表情をしていますわね」
「......」
「伯爵様はビジネスでお忙しいから、他家の貴族の内情なんて、興味を抱いている暇は無いでしょうけれども、私のように高位の貴族の夫人の座に納まってしまうと、意外とすることが無くてね〜。 それで、他人の家のことを知りたがるようになってしまうのよ〜。 噂が自然と耳にも入ってくるのも有って」
「公爵夫人ともなれば、色々と儀式やら領地の統治等で、暇を持て余すということは無いと思いますが......」
「それが、ね〜。 その家のしきたりっていうのがあるから、他家から嫁いだ私のような立場だと、口を挟めないのよ〜。 執事やら侍女やらが手際よく行ってしまうから〜」
「そのようなものなのですか?......」
「そうなのよ。 それで老婆心からお話するけど、旦那様の連れ子の件、あまり適当な扱いをすると、評判に響くわよ」
「......はあ〜」
「旦那様が邪魔になった連れ子を何処か施設に入れようとしているって噂、既に貴族の間で流れているのよ」
「いや、施設に入れるというのは、ちょっと......」
「口を濁すぐらいだから、図星なのね〜」
「私は夫に、そこまで邪険な扱いをしなさいとは言っていないのですが......」
「ナイトー伯爵家は、帝國でも10指に入るだろうという大富豪貴族。 いくら血縁が無いとはいえ、有り余る程の財産を有する伯爵家当主が、旦那様の実子を引き取ろうともしなかったって、あとで後ろ指差されると、事業の方に響くと思うわ~。 カンパニーの方の顧客の大半は、平民ですよね?」
「はい、その通りです」
「きっと、こういう噂が流れるようになると思うの。 もし連れ子がれっきとした貴族が産んだ娘さんだったら、絶対に引き取って育てた筈。 でも、平民出身の亡き妻が産んだ子だから、引き取らなかったってね。 そんな当主が運営する店で飲食するのは、今後止めようよっていう風な感じかしら」
「......」
確かに公爵夫人の言ったことは、十分考えられる。
悪い噂を流して、ナイトー伯爵家やナイトーカンパニーの足を引っ張ってやろうと考える輩は、一人や二人じゃないのだから......
ミイカは、少し考え込むと、公爵夫人にある質問をしてみることにした。
「もしかして、母からの苦言ですか?」
その質問に、あちゃーという表情を見せた公爵夫人。
「噂を聞いた伯爵のお母様から、パーティーの席で確認して欲しいって言われたのよ〜」
「母は国際事業を担当していますから。 そういった一族内の醜聞が、国際事業の方に響くと?」
「まあ、そうおっしゃっていられたわ。 国内事業は連れ子を引き取らなかったことぐらいで、大きなダメージにはならないけど、国際事業には大きく影響するから、最低限の対応はして欲しいっていうことね」
公爵夫人を通しての実母の苦言は、ミイカにとって痛い部分を突いてきたのだ。
伯爵家当主の地位は早期に譲られたとはいえ、まだまだナイトーカンパニーの実権は母が握っており、ミイカは国内部門の責任者という立場に留まっている。
その理由は、生まれながらの貴族であるが故に、井の中の蛙的な部分があるから、まだまだ任せられないという、実母からの意思表示でもあるようにミイカには感じられた出来事であった。
この話がなされて以後、アイルシア養育の件については方針転換し、成人するまでナイトー伯爵家で育てるという結論が出たものの、血の繋がりが一切無い子供に対して、相続権が絶対に発生しないよう、がんじがらめの書面を作成し、実父であるショーウとアイルシアの署名をさせた上で、一応引き取ることとなったのであった。
しかし、アイルシアにとって、ナイトー伯爵家で育った幼少期は、決して楽なものでは無かった。
それどころか、施設に引き取って貰って育った方が、だいぶマシだったと思われる程の扱いであったからだ。
当初、実父のショーウは、亡き愛妻が産んだ一粒種ということもあって、かなり積極的にアイルシアの面倒をみたのだ。
しかし、これが新妻ミイカの嫉妬心を買ってしまい、ショーウの居ない場面で、アイルシアに折檻を行うようになってしまったのだ。
「アンタさえ居なければ、ショーウは私の方を見続ける筈なのに......」
鬼の様な形相で、アイルシアに近付くミイカ。
そして、手にした棒で思いっ切り叩く。
「うっうっ......え~ん」
叩かれた痛みと恐怖で泣き出すアイルシア。
「直ぐ泣くんじゃ無いわよ。 五月蝿くて耳障りなの」
ミイカは不気味な笑みを浮かべ、再び叩く。
まだ5歳になったばかりのアイルシアでは、大人の折檻を躱すすべも無い......
流石に顔を叩かれることは無かったが、そんな日々が何度も訪れたことで、お尻や背中は痣だらけになってしまうのだった。
やがてミイカの体罰に、ショーウも気付く時がやってきた。
折檻を受け続けたアイルシアの様子が徐々に変わってきて、ショーウのスキンシップを避けようとする自己防衛本能が働いたからだ。
「アイルシア、どうしたんだ?」
しかし、アイルシアは目に涙を貯めるものの、何も答えようとしない。
「何も言ってくれないと、何もわからないぞ? 困ったことが何か有るのか?」
実父の優しい質問にも、ミイカの報復を恐れて、黙ったまま。
そのうち、泣き出してしまうアイルシア。
よくアイルシアを見詰めてみると、太ももや上腕部にアオタンのような跡が有ることに気付く。
「アイルシア。 この痣は......」
「転んだ時に、出来ちゃったの......」
必死に嘘をついて、事実を隠そうとする。
それは勿論、ミイカの報復を恐れてのことであった。
ミイカは、
「もし、ショーウに告げ口したら、もっと折檻加えるからね。 それにショーウに訴え出ても意味無いわ。 この家の当主は私なのだから......ふふふ」
ミイカはショーウの愛情の一部がアイルシアに注がれていることが気に食わないだけではなく、若くしてカンパニーの代表の座を譲られて以降、仕事の大きなストレスを抱えて溜め込んでいたのだ。
そのストレスの捌け口の一端が、アイルシアへの暴力という行為に繋がっていた。
どう考えてもあり得ない言い訳を聞いたことで、ショーウも誰かがアイルシアに暴力を振るっていることに気付いてしまう。
「アイルシア。 ちょっと体を見せてみろ」
でもアイルシアは服を引っ張って、父に痣だらけの体を見せようとはしない。
その行動で、侍女や執事といった雇われている人達ではなく、伯爵家当主のミイカが折檻しているのだと、流石に鈍感なショーウでも覚ったのだ。
「ゴメンな、アイルシア。 もしミイカが何かお前にしていたとしても、俺にはそれを止める力が無いんだ。 それに俺は新しい生活を捨てるつもりは無い。 だから、お前を残して先に逝ってしまった、アーシアを恨んでくれ......」
それだけ言い残すと、頭を優しく撫でてから、断腸の思いで過去を捨て去る様にアイルシアの元を離れたショーウ。
ショーウとしては、この家の当主はミイカであり、彼女の意向に逆らうのは無理だということに、改めて気付かされる出来事であった。
アイルシアを慈しむことは、亡き愛妻アーシアを忘れることが出来ていないという風に、ミイカが感じてしまうということにもなる。
そのような立場になった以上、ショーウがアイルシアに対して出来る最後の愛情表現が、娘との縁を自ら積極的に切ることで、ミイカの嫉妬心の矛先を変えてあげること。
以後ショーウは、今までのようにアイルシアに愛情を注ぐような態度は完全に引っ込めてしまい、以後、殆ど関心を持たないようになってしまうのだった......
ショーウの態度が放置へと変わったことで、ミイカが折檻する回数も徐々に減ることとなり、そのことからアイルシアは実父との距離感をどう保つべきか悩むようになる。
しかし、まだ5歳の幼子である以上、親が恋しいのは当たり前。
だから、毎日毎日、人の居ないところではいつも涙ぐんでいる可哀想な子となってしまっていた。
「う、う〜。 お母さん〜、お母さん〜」
「お母さん、どうして私を残して天国に行っちゃったの? 私も一緒に連れて行って欲しかった......こんなところに遺されても、地獄でしかないよ〜....うえ~ん〜・・・」
誰も居ないのを確認してから、広い屋敷の隅っこで、声を殺しながら母アーシアの愛情を求めて泣き続けるアイルシア。
そんな日々が続くのであった......
「あ~あ、夢か〜」
既に18歳に成長したアイルシア。
母を亡くし、父に見捨てられた少女は、伯爵家の下働きのおばちゃん達と一緒に暮らすこととなったことで、失った両親の愛情の代わりのものを貰うことが出来ていた。
親を恋しがって泣き虫だった幼き日々を過ごしていた面影は殆ど見られないくらいの明るい子に成長していたのだが、夢では辛かった日々のことを見る頻度が、異様に高かったのだ。
「なんだか、いつも折檻されていた時の夢を見ちゃうな〜。 なんでだろう?」
独り言を呟きながら、この日は伯爵家のお屋敷に、非常に大事な賓客が来ると聞いており、当主のミイカと賓客が会合する席で、アフタヌーンティーを提供するという、使用人として大事な役割をアイルシアが担わされていたのだ。
「折角の休日だけど......まあ、仕方ないか〜」
かつて、何度も折檻を加えられた伯爵家の当主の為に、休日出勤してまで無償で働くのは本意では無いが、と言って、自力で生活出来るような伝も能力も、まだ不足しているアイルシア。
ミイカは、ショーウの愛が自身にだけ向いたことと、双子の娘をもうけてから精神的に安定したのか、アイルシアに折檻を加える様なことは滅多に無くなったが、それでも貴族の当主であることから、何か粗相があれば、鞭打つ場面も有る。
そんな日々を送ってきたアイルシアは、お荷物のような何の役にも立たない幼い使用人だったものが、成長するに連れて伯爵家の侍女に近い立場に迄出世して、仕えていたのだ。
それには理由がある。
それは、母アーシアが遺してくれた唯一の財産、誰もが振り向く程の優れた『容姿』によるものであった......