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あの夏の海には帰れない  作者: 葉方萌生
第七話 誰かの希望の光になって

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それぞれの人生


「彼はまた泣きながら私の頭を手当してくれた。不恰好な包帯を巻かれて、私はそれでも愛されていると思ってしまった。本当に、今考えると馬鹿ね。このままじゃいけないと思ってアルバイト先を探そうとしたけれど、すっかり彼に依存して一人では生きていけないような自分を、雇ってくれる会社があるのか分からなくて、踏み出すのが怖かった。今ならね、たぶん応募さえすれば、どこかの会社は拾ってくれたって思うよ。でも当時は、自分に自信がなくて。経済的にも、雅也さんに支配されていたから、家を逃げることもできなかった。毎月三千円だけ渡されて、『俺がいない時にどうしても食事に必要になったら使って』って言われてた。小学生がもらうほどのお小遣いで、十七歳の私が生きられるわけがなかったの」


 公園から、少年たちがいなくなった。太陽が山の端に沈んでいく。橙色の空は、薄暗い青に変わっていた。


「だけどね、そんな私が唯一心の拠り所にしていたのが、SNSで聞くHarukiのライブだった」


 Harukiという名前が理沙の口から出てきて、僕は衝撃を覚える。

 そうか……理沙は、僕のことを知っていたんだ。同じ世界を生きていたのだから、知っていたとしてもおかしくはない。


「ゴールデンウィークに、みんなでカラオケに行ったじゃない。あの時、春樹が歌ってるところを聞いて、なんか聴いたことあるなって思ったの。ずっと考えてた。同じ名前だったから、すぐにピンときたけどね。ねえ、あなたがHarukiなんでしょう?」


 理沙が、アイドルを見るようなまなざしで僕を見つめる。僕はゆっくりと頷いていた。


「やっぱりそうだったんだ。びっくりしたわ。私、あなたの歌う歌に救われてた。家の中で、一人きりで過ごす人生で、あなたの歌を聴いていると、とても心に染みるの。私は一人じゃないって思えたの。だから本当に、ありがとう」


 理沙が恭しく頭を下げる。僕は、人に感謝をされるようなことはしていない。でも、Harukiの歌が、こうして誰かの心に届いていたのだということを、初めて実感した。

 無駄じゃなかった。

 僕が歌を歌ったことは、結果的に僕を破滅へと導いたけれど、僕の歌で救われたと言ってくれた人がいる。

 気がつけば右目から一筋の涙が流れていた。


「一年、結婚生活は続いた。途中あなたの学校でのことがSNSで話題になって、私はとても心配だった。ちょうど同じ時期に、雅也さんはどんどん私への暴力をエスカレートさせるようになって。私は、終わりにしたいと思った。ある日、とうとう限界まで心がすり減ったころ、マンションの屋上から、飛び降りたの」


 飛び降りた、という言葉に、僕の心臓が止まりそうになる。息が苦しい。入水自殺をした僕だって、同じようなものなのに。他人の口から語られる自殺のエピソードは、思ったよりも身に堪えた。


「だから私、高いところが苦手なのよね。ほら、遊園地で乗り物乗れないって言ったのもそのせい」


 ああ、なるほど。

 確か、理沙は遊園地では優しい乗り物しか乗れないと、龍介が嘆いていた。絶叫マシーンが苦手なのは僕も同じだけれど、理由は全然違った。それに、僕がディーン高校に来たばかりの頃、夏海たちに学校案内をしてもらった日、理沙は四階から窓の下を見て、顔を青くしていた。あれは、高いところから下を見たせいだったんだ。


『大変、だったんだね』


 彼女の話を、「大変だった」なんて言葉でまとめるのは違うのだと思いながらも、他にどう言えばいいか分からなかった。


「ええ。でも、春樹も一緒でしょ。春樹だって、現実世界に絶望したんだよね」


 僕は再び頷く。

 理沙はたぶん、僕の現実世界での事件を知っているんだろう。


「そっか。人気だったものね。そりゃいろいろ、あるわよね。でもこれだけは覚えておいてほしい。少なくとも私は、あなたの歌が好きだった。あなたの歌に救われてた。あなたのことも好き。って、これはさっき言ったね。何回も、しつこくてごめんね?」


 少しだけ笑みを浮かべながら、彼女は僕に想いを伝えてくれた。僕は、絶望しかないと思っていた自分の人生に、誰かの日常を照らす光があったのだと、初めて知ることができたんだ。


『ありがとう。僕は今、救われたよ』


 理沙が、切なげな表情で微笑む。

 僕たちは、公園の椅子に座ったまま、それぞれの人生に思いを馳せていた。


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