08.恐怖侯爵様、告白する。
もう、我慢できないっ!!
しくしく泣いているのはもうやめだ。
っていうか、腹が立ってきた。
この怒り、どうしてくれよう?
夜の帳が下りてから、むくむくと湧いてきたこの気持ち。
冷める前に言ってやろうじゃないの。
イシドール様のお部屋の扉を、ゴンゴンと叩いた。
はしたない叩き方で、怒りを伝える。
「レディアです! 入りますっ!」
返事を待たずに、勢いよく扉を開け放つ。
そして、中でまだ書類仕事をしているイシドール様に浴びせかけた。
「どうしてあんなことを言ったんですかっ」
びっくりしてる。そりゃそうでしょうとも。
「あんなこと、とは」
私は声が漏れるといけないって気づいて、慌てて扉を閉めた。
それからようやく前を向いて、イシドール様に告げる。
「私がここにいることを望んじゃいけないって、シャロットに言ったじゃないですか!」
考えてもわからない。だから、聞くしかない!
イシドール様は座ったまま、怒涛の勢いの私を見上げた。
「……母親が二度もいなくなるような体験を、シャルにさせたくなかった」
なにそれ……なにそれっ!
「どうして私が、出ていくと思うんです!?」
「君の家の事情を知っていた。家族に愛されず、無理に俺と結婚させた……君もいずれ、ラヴィーナのように俺の前から消えるだろうと、そう思っている」
「消えません!!」
私の叫びが、静かな部屋に響いていく。
一瞬訪れた沈黙を、イシドール様が静かに破る。
「……君が誰かと駆け落ちしても、ちゃんと実家への支援は続けるつもりでいた」
「実家への支援など、今すぐ切っていただいて結構です!」
もう私は実家を出た身だもの。もうあの家がどうなったって構わない。
結婚の際にすでに多額の支援金をもらってるんだから、それで立て直せなきゃただの間抜けよ。
イシドール様の稼ぎを、無駄に使わせてたまるもんですか。
私の勢いに、イシドール様は眉をひそめていた。心底、わからないという顔。
「では、なぜ出て行かない?」
なぜ……なぜ!?
むしろ、どうしてわからないんですか!?
私は……
私は──っ
「シャ、シャロットが好きだから……っ」
私をじっと見つめるイシドール様。
待って、違う。
いえ、違わないけど。
私には、もう一人……いるじゃない。
勇気、出して。がんばれ、私……!
私は止まっていた息を吸い込むと。
えいやっと声に出す。
「それに……あなたのことも、大好きなんです……っ」
空気が止まった。
ああ、どうしよう。心臓が破裂しそう……。
手が震えて……。イシドール様の顔を見るのが、怖い。
訪れる、沈黙。
やだ……全部、わかってたはずなのに。
私は込み上げるものを制して、なんとか言葉を繋げる。
「私なんて、愛されないってわかってます。ラヴィーナさんみたいに美しいわけじゃないし……初夜の日に、“愛さない”とまで言われてるんですから……」
でも、夢を見ちゃってた。
シャロットにたくさんの愛情を向けられて……もしかしたら、イシドール様にも、なんて。
傲慢で、強欲な夢を。
でも、この気持ちは誰にでも止められない。だから──
私も止めませんっ!!
「でも、勝手に好きでいるだけなら、許されるでしょう!?」
顔を上げて、私は勝手な宣言をする。
イシドール様の表情は、目を見開いたまま固まってしまっていたけど、私は続けた。
「私、ずっと……愛のある家庭を築きたかったんです。嘘でもいい、私を愛してるふりでも構いません。あなたと、シャロットの家族になりたい。……シャロットを安心させてあげたい……!」
子どもを利用するような言い方。
私はなんて卑怯なんだろう。
それでも、この幸せを手放したくなくて。
私を──愛していなくてもいいから──愛している、ふりだけでも、いいから……っ
このまま、家族として、一緒にいたいの……。
「……俺はとっくに、レディアのことが好きだ」
「──へ?」
あ、変な声出た。
え、ちょっと待って。今なんて言った?
私のことを──好き? はい?
頭が追いつかない。ぐるぐるする。
そんな私に、イシドール様はまっすぐ透き通ったアイスブルーの瞳を向けた。
「レディアのことを初めて知ったのは……一年半ほど前になるか」
そう言って、イシドール様は机の引き出しを開けた。
一年半……ラヴィーナさんが駆け落ちした頃よね。私は十六歳だ。
イシドール様が取り出したのは、一枚の栞だった。
淡い紫のスミレが押し花にされた、手作りの──
「これは、その頃に図書館の隅で配布されていた栞だ。“春の花です。誰かの心に陽が射しますように”と、書いてある」
──ん?
なんか聞いたことがあるようなないような。
イシドール様は……目を細めてその栞を見ている。
まるで、愛おしいものでも見つめるように。
「あの頃の俺には、それが沁みた。……世界に見放された気分でいたからな」
ラヴィーナさんが消えた直後に見つけたその栞……もしかして、もしかすると。
「……それ、私が作ったものかもしれません」
「ああ、司書にそう聞いた」
イシドールは微かに笑って、栞を握った。
「その司書に、君の家の事情を少し聞いてしまってな……どうにかできないものかと、悩んでいた」
あの……ただの栞娘に、気を遣いすぎでは?
「レディアは知らなかったかもしれないが……君の両親は、その……君をゴルベリウス商会の総代表の元へ嫁がせるつもりだったようだ」
「……うそ」
ちょっと、血の気が下がる音が聞こえた気がした。
ゴルベリウス商会の総代表というと、お金にものを言わせて、何人も愛人を囲っているようなエロジジイで有名。
私、あんなところに嫁に行かされるところだったの!?
「さすがに憐れと思ってしまってな……。俺はずっと出し渋っていた離婚届を提出し、君の両親に貰い受けたいと旨を話した。条件をゴルベリウスよりも良くすれば、簡単に頷いてくれたよ。あ、すまない。君の両親を」
「いえ……そういう親ですから……」
というか、あのゴルベリウスよりも良条件って……私にいくら使ってくれたんだろう。聞くのが怖い。
「しかし、またラヴィーナの時と同じように、権力で妻を手に入れただけだと思うと、罪悪感があった。だからもし、君に好きな男がいれば、俺の方から手を放すつもりでな。あの家から君を解き放つ……ただ、それだけだった」
どうしよう、泣きそう。
どこまでも優しいんだ、この人は……。
お礼を言わなきゃって思うのに、唇が震えちゃって言葉が出てこない。
そうしているうちに、イシドール様の言葉が重ねられていく。
「だが、君がうちに来てから、この家の空気は変わった。君がシャロットと笑い合うたびに、一生懸命に俺と交流を図ろうとしてくれるたびに──……どんどん、どんどん好きになっていった」
もう、耐えられない。
私の目から、ぽろりと涙が溢れて床に落ちる。
「どうして……そんなに優しいんですか……っ」
イシドール様は、巷で言われているような恐怖侯爵なんかじゃない。
確かに、他の人の前では顔はこわばって、恐く見えるけど……。
私は知ってる。本当は、ストロベリーみたいに笑える人だって。
「……俺は、両親を事故で亡くした。十八で襲爵することになるとは、思ってもみなかった。舐められぬよう恐怖の仮面をつけて、いつしかそれが剥がれぬようになっていた」
イシドール様の、昔話。
両親が亡くなったのって、本当だったんだ。
そして恐怖侯爵になってしまった……家を、守っていくために。
「……俺も、欲しかったんだ。あたたかなものが。だから、誰かが手を伸ばしていたら……せめて、届くようにしてやりたいと思った」
それが、イシドール様の優しさの理由……。
きっと、本当は、誰よりも優しくしてほしかったんだろう。
だけど、イシドール様はそれを言える立場じゃなかった。
だから与える側に回った。
じゃあ、誰があなたに優しさを、愛を与えるの?
──そんなの、決まってる。
「私が差し上げます! イシドール様の求める、あたたかなもの……!」
「レディア……」
イシドール様の、初めて見る少し泣きそうな顔に、私は微笑んだ。
「だって私たち……両想いだったんですよね?」
私の言葉に、イシドール様は気が緩んだのか──
一筋、涙が溢れた。
きっと、ずっと、ずーーーーっと我慢していたもの。
ご両親が亡くなっても、ラヴィーナさんが駆け落ちしてしまっても、恐怖の仮面を貼り付けて耐え続けてきたものが、今。
涙を隠すように、机に目を落としたイシドール様を……私は後ろに回って、そっと抱きしめた。
「大好きです……。私、イシドール様に助けられて……結婚できて、本当によかった……!」
私の言葉に、イシドール様からの返事はなかった。
でも、それでいい。
細かく肩を揺らしているだけで……気持ちはもう、十分伝わってる。
そう思った私は、ぎゅっとその背中に腕を回したまま、目を閉じる。
あたたかい。
お互いに求めていたものが今、ここにあるんだって。
そう、思えた。