07.恐怖侯爵様の思惑がわからない。
地下室を出たあと、私たちは無言で並んで歩いてた。
しんとした廊下に、靴音だけがコツコツ響く。
少し湿った空気の中を抜けて、石の階段を上がっていくと、冷たさが薄れて、少しずつ光が戻ってきた。
それでも、イシドール様の顔はまだこわばっていて。
私に何か言いたそうで、でも言葉にできないみたいな、そんな横顔を見てたら、なんだか胸が苦しくなる。
なんでだろう。
あんなに遠い人だと思ってたのに、今はちょっと、手が届きそうな気がするの。
……だから、言ってみようって、思った。
「あの、イシドール様」
ふいに声をかけると、彼は足を止めた。
私も立ち止まって、くるりと彼のほうを向く。
「……ん?」
いつもどおり低くて落ち着いた声。
だけど、なんだかちょっと構えてるの、わかる。そういうの、最近わかるようになってきたんだ。
でも、私、もう決めましたから。
「これからは、何でも話してくださいね」
そしたら、イシドール様がちょっと目を見開いた。
まるで、予想外のことを言われたみたいに。
ほんの一瞬だったけど、あの表情、絶対に見逃さなかった。
私は、ちょっとだけ笑った。
やわらかく、やさしくなるように、言葉を添えていく。
「だって……夫婦でしょう?」
そんなの、あたりまえのことみたいに口にしたのに。
彼は、何も言わずにじっと私の顔を見つめてくる。
まっすぐに、逃げないで。
ああ、もう。
どうしてそんなにまじめな顔をするんですか?
相変わらずの恐怖侯爵で。
でもそんな顔を見て……恥ずかしくなってきちゃう私、おかしいかな。
「……善処する」
やがて、ぽつりとこぼしたその言葉は、短いけど、ちゃんと届いた。
それって、彼なりの「わかった」なのかな。
どうしよう、うれしい。
ものすごく、うれしいのに……うまく言葉にならなくて。
「ふふっ」
あ、笑っちゃった。
あったかいものが胸に広がっていく。
じんわりと、沁み込むみたいに。
私たち、まだまだこれからだけど──
ちゃんと、向き合っていける気がする。
今度こそ、ちゃんとした「夫婦」に、なれるかもしれないって。
***
その日は、シャロットと過ごす午後だった。
「レディアおねえちゃん! きょうはね、“おしろごっこ”しよう!」
「おしろごっこ?」
「シャロットが、わるいまほうつかいなの! で、レディアおねえちゃんはおひめさま!」
「ふふ、お姫さまが悪い魔法使いと仲良くできるかしら?」
「できるよー! シャル、きょうはわるいまほうでおひめさまをさらっちゃうんだもん!」
……うん、たぶんそれ、仲良くはないよね?
でも、真剣な顔で魔法の呪文っぽいなにかを唱えながら、私の手をとって「つかまえた!」なんて言ってくるのがもうかわいくて。
そのままふたりで庭をぐるぐる追いかけっこして、侍女さんたちも巻き込んで、ちょっとした大騒ぎ。
お姫さま役の私は、シャロット魔法使いに“さらわれて”、木陰のベンチに座らされて、
「はい、おちゃのじかんです」ってカップを差し出されたときには、お茶くれるんだ!? ってもう笑いすぎてお腹が痛い! 確かに仲良くできちゃったわ!
たっぷり遊んだあとの午後、日差しがやわらかくなってきたころ。
「レディアおねえちゃん……きょう、パパ、おやついっしょにたべてくれるかな?」
「うーん、どうだろう……でも、シャロットがお願いしたら来てくれるかもね?」
「じゃあいってくるっ!」
ぱたぱたと駆けていく小さな背中を見送って、それからほんの数分。
──本当に現れた。
庭の奥の、白いバラに囲まれたガゼボ。
涼やかな風が通るその中に、私とシャロット、そしてイシドール様の三人。
「……たまには、付き合う」
そう言ってイシドール様はシャロットの隣に──じゃなくて、そのまま彼女をひょいっと抱き上げて、自分の膝の上にちょこんと乗せた。
「パパのおひざー!」
シャロットは嬉しそうに身を預けて、イシドール様もそれに応えるように腕をまわす。
その光景が、もうあまりにも自然で、私はつい見とれてしまう。
「……君も、座るといい」
促されて、私もその向かいに腰を下ろした。
すぐに、侍女さんたちが用意してくれていたお茶と焼き菓子が並ぶ。
「パパ、おやつ、たべて!」
シャロットが、お皿から一つお菓子を取って、両手で差し出す。
「パパ、あーん!」
イシドール様は、ちょっと目を伏せたけど──
「……仕方ないな」
その声は、怒ってるわけでも呆れてるわけでもなくて、ただただ甘かった。
そして、ぱくり、とお菓子を受け取る。
「おいしいな」
「えへへー、パパのためにえらんだの!」
膝の上でぴょこぴょこ跳ねるシャロットを、イシドール様は軽くなだめながらも、優しく笑った。
ほんと、シャロットの前ではストロベリー侯爵なんだから。
イシドール様は、ちょっと赤い顔で、ちらっと私の方を見た気がする。
ふふ、恥ずかしいわよね。
──と思ったら、次の瞬間。
「こんどはパパが、レディアおねえちゃんにあーんして!」
「「えっ」」
私とイシドール様、同時に声を漏らして、それでまたシャロットが笑った。
「してくれるよねっ!?」
「……おまえは、無茶を言う」
イシドール様がぼそっと言ったけど、まったく否定してない時点でもう……
そっと菓子をひとつ取って、こっちに差し出してくる。
「……食べるか?」
「えっ……え、あ、はい」
あああ、動揺しちゃった!
顔、熱い。絶対赤くなってる。
でも、シャロットがじーっと見てるから、逃げられないし、なんか……むしろ笑えてきて。
ぱくっ。
──甘い。味より先に、なんか心のほうがあったかくなる。
「もぐ……ん、美味しいです」
「じゃあつぎ、レディアおねえちゃんのばん!」
え?
「パパにあーんして!」
まさかの三巡目!?
「シャロット、それは……」
イシドール様が一瞬本気で困った顔をしたけど、でもシャロットは本気みたい。
「だってパパ、レディアおねえちゃんのこと、すきでしょ?」
「ッ──」
──えーと。その沈黙は、どう受け止めれば?
「それじゃあ……はい、イシドール様。あーん?」
私もお菓子をひとつ取って、差し出す。
あ、なんかちょっと手が震えちゃって恥ずかしい。
「………………」
少しだけ躊躇したイシドール様は、それでもおとなしく口を開けてくれて。
ぱくって。
ふふ、ちょっとかわいいかも。
ちょっと視線をそらした横顔が、ほんのり赤くなってる。
ねえ、これ、もう家族みたいって言ってもいいんじゃない?
ふわりとすぎていく優しい午後の紅茶の時間。
私はそんな風に思っていた、のに──。
おやつのあと、シャロットと一緒にお花の世話をしていると、不意にシャロットは尋ねてきた。
「ねえ、レディアおねえちゃんって、ずっとここにいる?」
綺麗な瞳で、まっすぐに見つめられる。
「おねえちゃんといるの、たのしいから……ずっとそばにいてほしいなって、おもって……」
そう言って、ちょこんと私の腕にすり寄ってきた。
レディアは、たまにこうやって確認してくる。
ある日、いきなり大事な人が消えてしまうことを知っているから。
悲しいことだけど……大切に思ってくれているのが伝わってきて、本当にうれしいの。
泣いちゃいそうになるくらい。
私がもちろんって答えようとした、その瞬間。
「シャロット」
背後から、落ち着いた声がした。
もちろん、それはイシドール様の声。
「無理を言ってはいけない」
その言葉は、きっぱりとしてて、やさしさも、冗談もなかった。
シャロットの顔が、みるみる曇っていく。
「……おねえちゃんは、むりしてるの?」
「違うよ、シャロット、そんなわけ──」
私が慌てて言いかけたけど、イシドール様は言葉を被せてくる。
「レディアは、ここにいることを義務づけられているわけではない。気まぐれで離れていくことだってある。だから、シャルがそれを当然のように望んではいけないんだ」
……なに言ってるの、イシドール様。
義務付けられているわけではない?
「……やだ」
私が意味を考えている間に、先にシャロットが拒否の声を上げた。
「シャロット」
「やだぁっ! シャル、ずっとおねえちゃんにいてほしいだけなのに!」
「それが無理なのだ」
どうして?
私がここにいるのは、無理なの?
以前は、雲隠れしたラヴィーナさんのように、消されてしまうのかと思ってた。
でも今はそうじゃないって知ってる。
イシドール様は……誰よりも優しい人だって私、わかってるのに。
どうしてこんなに胸が苦しいの?
シャロットも、目が真っ赤になってる。
娘に甘いイシドール様が、こんなことを言うなんて。
私も目頭が熱くなってしまう。
バカみたい、勝手に浮かれて。
だって、夫婦だって思ってた。近づけたって……家族になれるって……勘違いだったの?
なのに私はイシドール様にとって、“気まぐれで離れていくかもしれない人”?
あ、だめだ、泣きそう。
でもシャロットの前で泣いちゃダメ。
泣いたら私が消えちゃうって思ってるんだから。
「……ごめんなさい、シャロット。私、用事を忘れてたわ。部屋に戻るわね」
そう言って、私はその場を離れた。
シャロットが泣きそうに私を見ていたのが、頭から離れない。
どうして……私はイシドール様にとって、一体何なんだろう。
私は嗚咽が漏れないように、一粒だけ、涙を流した。