05.恐怖侯爵に告ぐ。
「最近、娘の機嫌がいいようだな」
廊下をすれ違いざまに、イシドール様がそんなことを言ってきた。
相変わらず、氷のように冷たい瞳と声音。
けど──心なしか、その中にほんの少し、柔らかさが混じっている気がする。
……希望的観測ではあるけど。
「はい、シャロットが私に宝物をくれて……それが、宝箱なんですよ。これからいっぱい宝物が増えるからって──」
「深入りする必要はない。君は自由にしてくれればいいんだ。シャルを手懐ける必要はない」
その言葉に、私の体は固まった。
……わからない。イシドール様の考えることが。
それは、どうして?
私は“消える”から? あなたに消されてしまうの?
前妻であるラヴィーナさんのように。
そして、あなたのご両親のように?
一瞬、視線が揺れる。でも、ここで怯んでなんていられない。
唇をきゅっと結んでから、まっすぐに言い放った。
「自由にしていいと言うなら、そうさせていただきます!」
拳を作って、キッと恐怖侯爵を睨みつける。
何も考えられない。ただ、ぶわっと溢れて──
「私はシャロットのことを、手懐けようと思って一緒にいるわけじゃありません! 彼女が可愛くて、大好きだから! シャロットは私に愛をくれたから……私もお返したいんです!」
気づけば声が空気を突き破ってた。
はぁ、はぁ、はぁ……──あ。
怒涛の勢いで告げてしまった……。
あ、イシドール様、すんごく驚いてる。
でも……え? 今一瞬、笑っ──
「そうか」
……気のせい?
もういつもの恐怖侯爵になってる。
一瞬、ストロベリーに見えたのは──目の錯覚?
イシドール様は、珍しくちょっと慌てたように去っていく。
その背中に縋るように、私は視線を伸ばした。
「私は……この家で、ちゃんと家族になりたいんです」
そう、呟かずにはいられなかった。
そのためには、もっと彼のことを知りたいし──信じたい。
だけど、屋敷の奥にある地下室の存在が、私の胸の中に小さな影を落とす。
夜になると響く、女の人の声。
あそこには、一体なにがあるの?
それが解決しないことには、気になって本当の家族になんてなれない!
不信があっては、絆なんて築けないじゃない。
私は、家族になりたいの。
愛を注がれることが、こんなにも幸せなことだってシャロットに教えてもらったから。
イシドール様……私はあなたにも、愛を注ぎたい。
そしてできれば……愛を返してもらいたい。
強欲?
結構よ。
イシドール様のおかげで、私はあの家を出ることができたのよ。
無価値だと思っていた私に意味をくれたのは、結婚してくれたイシドール様と心優しいシャロットのおかげ。
だからこそ、愛し愛される家族の夢を見られてるの。
絶対に、実現してみせるわ!
そのためには──
私は、イシドール様の不在を狙って、あの扉を開けることに決めた。
***
地下からの声は、毎日聞こえるわけじゃない。
ただ、たまに発作のようなつんざくような声が響き渡った。
それは夜だけだから、一度寝てしまえばぐっすりなシャロットは気づいていないようだったけど。
だけど、私はこの耳で聞いている。確かめずにはいられない。
ある日、イシドール様とシャロットが外出して、屋敷を留守にしていた。
今しかない。
けれど、足がなかなか動かなかった。
胸の奥がざわざわする。もしも見つかったら? もしも……あの扉の先に、本当に“何か”があったら?
──いいえ、もう決めたでしょう。中途半端な覚悟で、この家の家族になれるはずがない。
私は深呼吸を一つして、静かに階段を下りた。
向かった先は、イシドール様の執務室。以前、偶然にも彼が机の引き出しを開けるのを見た。その中の黒い小箱──蓋の内側には、細くて古びた銀色の鍵があったのよね。
きっと、あれがそうだわ。
書斎の扉の前に立つと、指先が冷えているのがわかる。
「書類を頼まれたの」
使用人に笑顔でそう言った自分の声が、震えていなかったのが不思議だった。けれど、心臓はずっと、跳ねるように暴れていた。見られている気がする。疑われている気がする。
引き出しを開けて……鍵ゲット!
ひぃ、変な汗出ちゃうっ。
ドキドキしながら書斎を出るも、誰も追ってこなかった。
廊下に出ると、厨房のメイドたちが立ち話をしていた。彼女たちの視線を避けるように、壁際を抜け、人気の少ない西側の階段を下りていく。
「レディア様、どちらへ──」
急に後ろから声を掛けられて、肩がビクッと震えそうになる。
落ち着け、私……!
「ええっと……書庫よ。今のうちに少し読んでおきたい本があって」
笑顔を作って、咄嗟に嘘をつく。
「まあ、お勉強熱心ですのね」
ほっとしたようなメイドの声が背後に遠のく。
ああもう、心臓がうるさい。
私は屋敷の一番奥、使用人たちが滅多に近寄らない通路を通って、地下への階段までやってきた。
以前イシドール様に行くなと言われた場所。妙に重たい空気が、階段の下へと流れていく。
一歩、足を踏み出した。地下への階段がカツンと鳴る。かすかに湿った空気。
わずかに差し込む日の光だけを頼りに、階段を降りていく。
誰にも見つからなかった。誰にも、止められなかった。
目の前に現れたのは、鉄の扉。
私はそっと懐から鍵を取り出し、錠前に差し込んだ。
冷たい金属音が、地下に響く。
カチリ。
私は──その扉を、開けた。