22.ストロベリー侯爵は、彼女を救いたい。
そっと髪を撫でられた気がした。
イシドール、様……?
目の前に、優しい笑顔……夢の中まで、イシドール様は優しい……。
「おはよう、レディア」
って、夢じゃなくて現実ですか!!? イシドール様のお顔が!! 目の前に!!
「イシ……!? お、おは……!!??」
クスッて、クスッて笑われてしまった……
朝一番でその究極に甘いお顔は、心臓に悪いです!!
もう、かっこいいんですから……。……大好き。っく。
「昨日はありがとう。おかげでよく眠れた」
「だったら……よかったです」
「かわいかったな、レディアの寝顔」
「も、もう……起こしてくださればよかったのに……いつから見てたんですか?」
「一時間前だ」
「見過ぎです!!」
やだもう、一時間も前から間抜けな寝顔を見られてたとか、恥ずかしい過ぎるんですけど!!
イシドール様はクスクスと笑っていて……そんな顔もするんですね。
あー、ずるい。胸がきゅんきゅんして、許しちゃうのよね、これが。
イシドール様はカーテンを開けると、目を細めながら振り向いた。
「これからも毎日見たい。いいか?」
それは、毎日寸止めってことですね!?
まぁ、いいですけど! いいですけどー!!
「……い、いいですよっ」
「……何か怒っているのか?」
「怒ってません」
って言いながら、ほっぺ膨らましちゃった。子どもみたい。
「……もしかして昨日、俺は無意識に手を出してしまっていたか?」
逆です。出してませんから。ぷん。
「それはないです、心配しないでください」
「そうか」
胸を撫で下ろしているイシドール様。
でもまだちょっと不安そう。
早く私も微笑まなきゃって思うけど、なんか……まだ納得いかなくて。
ぷんって背中向いちゃった。
だって、昨日は決意、したのにーー! もう!!
「どうすれば、機嫌がなおる?」
「……好きって、言ってください」
「好きだ、レディア」
照れもせずに間髪入れずに言うんですから!
その一言だけでもう、ニヤついてしまう私、ちょろ過ぎない?
後ろからイシドール様が私の顔を覗いて、ふっと笑ってる。
「機嫌、なおったようだな」
「……じゃあ最後に、ハグをしてくれたら許してあげます」
「お安いご用だ」
そう言ったかと思うと、グイッと抱き寄せられて手が巻きつけられる。
ちょ、これ、ハグじゃないですから!
激しい抱擁ですからー!!
「愛している、レディア。世界で一番だ。君ほどかわいい人はいない。俺だけのものに早くしてしまいたい」
甘い言葉は言わなくてもう結構なんですけど……っ
朝からやめてください、変な気分になったらどうするんですか?
「毎日一緒に寝たい。俺だけが知る君の声を聞きたい。顔を知りたい。そして俺のすべてを感──」
「もういいですーーーー! 機嫌なおりました!!」
ぜーはー言いながら距離を取ると、イシドール様は「残念」と意地悪に笑った。
もうほんとに……ほんとにもうーー!!?
「そんな君が、大好きだレディア」
どんな私ですか!? まったく。
でも……困ったことに、私もそんなイシドール様が大好きなんですけどね。
「そろそろ朝食の時間ですよ、イシドール様。準備しましょう」
「そうだな。ところで、一体何を許してくれたんだ?」
「秘密です」
つーんと澄まして見せた私に、イシドール様は目を細めて。
「そうか」
そんな一言と共に、私の髪を撫でてくれた。
***
朝食は、私とイシドール様、それにシャロットとラヴィーナさんの四人でとった。
シャロットは昨夜、久々に母親と一緒に眠れて、満足そうに笑っている。
「ママ、いっぱいおはなししてくれたのよ! むかしみたいに!」
「そう。よかったわね、シャロット」
満面の笑みのシャロットを見れば、ラヴィーナさんを連れてきたのは間違いじゃなかったって思える。
けど、これからシャロットには究極の選択が待っているのよね……。
「シャルには、どちらに住むのか決めるのは、ゆっくり考えていいと伝えています。決まった時には、また連絡をいただけます?」
「わかった。シャロットが決めた時には、すぐに連絡しよう」
元夫婦がそんな風に話し合っていて、シャロットはいつ答えを出すんだろうと思うと胸がドキドキした。
食事を終えると、イシドール様は大人だけの話があるとして、シャロットをメイドに託した。
私はすぐにピンとくる。
ラヴィーナさんを、あの人のところへ連れていくんだって。
「ついてきてくれ」
イシドール様に促されて、ラヴィーナさんは小さく頷いた。
私は何も言わずに、そのあとを静かについていく。
廊下を曲がり、階段を降り、重い空気がじわじわと肌に貼りついてくる。
ラヴィーナさんは、途中で不安げに私を振り返った。
「地下……? 昨日、どこからか声が聞こえたような気がしていて……シャロットは気づかず眠っていたけれど」
気になりますよね。昨日は大した声じゃなかったし、私たちはもう慣れてしまっているけれど。
「大丈夫です。怖くありません」
私はそう告げ、頷いて見せた。
大きな叫び声が響くことは、もうほとんどなくなっている。
家礼のエミリオが、日に何度も足を運んでは水を替え、食事を与え、まるで祈るようにあの人に語りかけているから。
その献身が届いているのかもしれない。
地下室の前まで来たところで、イシドール様が無言で鍵を取り出し、扉を開ける。
あの、重い音が響く。
ぎぃ……。
そして、そこにいたのは──
「……クラリーチェ?」
ラヴィーナさんの声が、震えた。
部屋の奥、薄暗い光の中で、ベッドに座る女性がいた。
くすんだ煉瓦色の髪がぼさぼさに乱れ、目はうつろで、でもかすかにこちらを見つめてる。
「嘘……クラリーチェなの? ……どうして……っ」
ラヴィーナさんは、まるで時間が止まったかのように立ち尽くしてた。
イシドール様は黙ってラヴィーナさんを見つめ、それからゆっくりと口を開く。
「……彼女は、ラヴィーナの駆け落ちを手助けしただろう。それが家に知られて……追放されたんだ」
ラヴィーナさんの肩が、びくりと震える。
「……っ」
声にならない息が、喉の奥で詰まったように。美しい顔が苦しい表情に変わる。
「行く当てのない彼女を、俺の屋敷で引き取った。屋敷の手伝いをさせながら、静かに暮らさせるつもりだった。彼女はシャロットを可愛がってくれて……シャルも懐いていた」
イシドール様は、そこで少し言い淀んでから、視線をラヴィーナさんから外し、遠くを見るように言葉を継いだ。
「だが──“ラヴィーナは死んだ”と、俺はシャロットを守るために嘘をついていた。それを彼女は、本気で信じてしまったんだ」
ラヴィーナさんが、顔を上げる。
瞳は揺れていて、でも必死に真実を受け止めようとしていた。
「……そんな……」
「彼女は……自分のせいで君が死んだと、そう思い込んだ。どれだけ説明しても、耳を貸さなかった」
イシドール様の声は低く、沈んでいた。
「自分を責め続けて……やがて、心が壊れた。外の光を怖がるようになり、無理に外へ出ようとすれば、自分を傷つけようとする。だから、地下で静かに過ごしてもらっていた。ここなら、誰も彼女を責めない。誰も、彼女を脅かさないから」
ゆっくりと語られる言葉のひとつひとつが、重たく、切なかった。
ラヴィーナさんはそれを、まっすぐ受け止めていた。苦しそうに、震えるほどに。
「……クラリーチェ……!!」
悲鳴のような声とともに、ラヴィーナさんはその場に崩れ落ちた。
膝が床につき、かすれた息が漏れる。
「私、そんな……何も……知らなくて……!」
震える手が胸元を掴み、指が白くなる。
その瞳は涙でいっぱいになって、今にも零れそう。
私は一歩近づこうとして──でも、踏みとどまった。
今は、私の言葉に出番なんかない。
ラヴィーナさんとクラリーチェさん。二人の時間なんだって、胸の奥でちゃんとわかってた。
「ごめんなさい……駆け落ちを手伝うと言ってくれたあなたの優しさに漬け込んで……巻き込んでしまった……なのに私は何も知らずに、何も、何も……っ!!」
こらえきれなかった涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちていく。
ラヴィーナさんはよろめきながら、ベッドのそばに膝をつき、クラリーチェにそっと手を伸ばした。
「クラリーチェ……私よ。ラヴィーナ。ねえ……あなたの、ラヴィーナよ」
震える声で、何度も、何度も呼びかける。
だが、クラリーチェの瞳はただ虚空を見つめ、どこにも焦点を結ばない。
「見て……お願い……私を見て。私、生きてるの。ここにいるのよ……」
ラヴィーナさんは、その手をそっと両手で包み、祈るように顔を近づけた。
吐息のかかるほどの距離で、ふるえる唇が、もう一度名前を呼ぶ。
「……クラリーチェ……クラ……。ねえ……あの頃みたいに、呼んでもいい?」
かすかに、優しく囁くように。
「……リーチェ」
その名を耳にしたときだった。
クラリーチェのまなざしが、ほんのわずかに動いた。
わずかに、わずかに瞬きする。
ラヴィーナさんは気づき、息を呑んだ。
「リーチェ……私よ、ラヴィよ……あなたがいつも、そう呼んでくれたでしょう? 庭で隠れんぼしたときも、お菓子を分け合った時のことも……全部、覚えてる……!」
かすれるような吐息とともに、クラリーチェの唇が、ほんの少し動いた。
「……ら……ヴィ……?」
かすれた声だった。
でも、たしかに──たしかに、ラヴィーナさんの名前だった。
「そうよ! 私よ、リーチェ……! 私、生きてるの! 本当に、生きてるのよ……!」
クラリーチェの目に、涙が浮かびはじめる。
その一滴が頬をつたって、ぽろりとこぼれた。
「……ら、ヴィ……死、ン……」
「嘘よ……全部、私のせい。私の娘を守るための嘘だったの……あなたを巻き込んで……こんな目にあわせてしまったのは、私のせい……!」
涙を流しながら、ラヴィーナさんはクラリーチェを抱きしめる。
壊れものに触れるように、でも強く、抱きしめて。
「ごめんね……ごめんね、リーチェ……!」
「……ラ、ゔぃ……ラヴィ……?」
「そう、ラヴィよ! 生きてるの! 本物なの……!」
「……ラ……あ、あ、あ、あぁぁぁぁああああああ!!」
クラリーチェさんの声は、夜中に聞こえるようなゾッとした声じゃなかった。
人の血が通った、人の心を取り戻した、そんな泣き声。
二人は抱き合って、ずっと泣き続けた。
時が止まったかのような、静かな地下の部屋で──ただ、二人の涙の音だけが、微かに響いていた。




