20.ストロベリー侯爵には、仕事がある。
それからの一週間、シャロットはそわそわとしながら時を過ごしていた。
二年ぶりに母親と会うんだもの……当然よね。
「ママ、お花がすきだったのよ。今もすきかなぁ」
「ママは、ピンクがにあうの! だからシャル、ピンクのふく、きる! そしたら、おにあいでしょ?」
ママという言葉が出てこない日はなかった。
本当に、シャロットはラヴィーナさんのことが大好きで。
正直……そんなに思われているラヴィーナさんが、羨ましいって思ってしまう。
そしてとうとう、当日。
朝からシャロットは落ち着かない様子で、部屋の中を行ったり来たりしていた。
「まだ? まだこないの? もうおひる? おひるすぎ?」
窓の外を何度ものぞきこみ、ぴょんぴょんと小さく跳ねながら、スカートの裾をふわふわ揺らしている。
「ねぇレディアおねえちゃん、シャルのリボン、まがってない? へんじゃない?」
「大丈夫よ。とってもかわいい。ピンクのドレスも、あなたにぴったりね」
「ほんとに? ママ、かわいいっておもってくれるかな……?」
大きな瞳に、少し不安を浮かべながら尋ねるシャロットに、私はそっと笑みを返す。
「間違いなく思ってくれるわ。あなたは、とびきり素敵なお姫さまだもの」
「えへへ……」
シャロットは顔を少し赤くして、それでもまたそわそわと立ち上がる。
それからどこか真剣な顔つきになって、廊下の先にいるイシドール様の元へと駆けていった。
「パパ!」
「どうした、シャル?」
「えっと……シャル……ママに、なにをはなすか、わすれちゃいそう……!」
「大丈夫だよ。言葉にならなくても、気持ちはちゃんと伝わる」
「……ほんとに?」
「ああ、シャルがママを好きなように、ママもシャロットをずっと想ってる」
イシドール様が優しく笑むと、シャロットはふっと表情を緩めた。
それでも手は、ドレスの裾をぎゅっと掴んでいる。
そして──
ラヴィーナさんがやってきた。
到着したのはお昼過ぎ。
簡素な馬車の扉が開き、そこから降り立ったのは──陽を受けて輝く金髪を持つ、優美な女性だった。
青い瞳が少し揺れて、迷いと期待を滲ませている。
控えめに微笑みながら、玄関へと歩を進めるその姿は、どこか緊張して見えた。
「……ママ?」
玄関ホールの陰から顔を出したシャロットの声が、空気を震わせた。
ラヴィーナさんの足が、止まる。
「シャロット……?」
お互いの姿を目にしたその瞬間、すべての音が消えたかのような、沈黙。
次の瞬間──
「ママあぁあああ!!」
シャロットが、駆け出した。
私の横を風みたいにすり抜けて、ラヴィーナさんに向かってまっすぐに。
あの勢いは、もう、思いが弾けたように。
会いたかったよね……ううん、ずっと、我慢してたんだもんね。
ラヴィーナさんも、腕を広げて待ってた。
もう、堪えきれないって顔して。
「シャル……シャル……!」
胸の中に飛び込んだシャロットを、ギュッと抱きしめて、二人して泣きじゃくってる。
「会いたかった……ずっと、あなたに会いたかったのよ……!」
「シャルも! ママに、あいたかったぁ……!」
シャロット、ママに抱きついたまま、声にならない声で泣いてる。
ラヴィーナさんも、きっと何度も同じ夢を見たんだろうな……シャロットを抱きしめる夢を。
肩を震わせて泣く母娘。
二人の涙が、お互いの頬を濡らしながら、長い時を埋めていく。
「大きくなったのね……こんなに……」
「シャル、ちゃんとおねえさんになったの! でも、ママにあいたくて、ずっとずっとがまんしてた……!」
「ごめんなさい……ひどい母親で、ごめんね……シャルのそばにいられなくて……」
「ちがうの! ママは、シャルのママだもん! シャル、ママのこと、だいすき……!」
……もう、だめ。
こういうの、だめなのよ私、ほんと。
気づいたら、目元を押さえてた。
バレないように、さっとハンカチで涙を拭き取る。
横にいたイシドール様は、無言でふたりを見ていた。
でもその目は、誰よりもあったかくて。
さすが、イシドール様だなぁって。私の大好きな人だなぁって。
「ママ、ママ、ママーーーー!!」
「シャル……っ」
そんな風に抱き合う二人を。
私とイシドール様は、静かに見つめていた。
それからしばらく、私たちはラヴィーナさんとシャロットをそっとしておいた。
今は、二人きりでたっぷり話す時間が必要だと思ったから。
最初のうちは、シャロットがあちこち連れ回してたみたいだけど、今は自分の部屋で落ち着いて話してるみたい。
……なのに、私はというと。
「……何の話をしてるんでしょうね……」
「レディア、それ、七回目だ」
「うっ!」
イシドール様の執務室で、落ち着かないなんてもんじゃなかった。
じっと座ってるだけなのに、心臓がずっとおかしな動きをしてるみたいで。
ソファーの端で手を握ったり開いたりしてる私を、イシドール様はいつもより優しい目で見てくれてる気がする。
「だって、気になって気になって、仕方ないんです……」
「……そうだな」
イシドール様の返事は短かったけど、なんとなく、わかる。
だって、机の上の書類が、そのまま手つかずで山になってから。
こんなこと、初めてだもの。
……怖いんだ。
きっと、私以上に。
沈黙が落ちたその時。扉の向こう、さらにその遠くの方から声が響いてきた。
「パパー! ママがおはなししたいってー! はいってもいーい?」
シャロットの明るい声に、イシドール様が立ち上がる。
「ああ。入ってきなさい」
その声に返事するように、バタバタっと足音が近づいて、扉が開いた。
ラヴィーナさんとシャロット。並んで、こちらを見ている。
私は思わずソファーから立ち上がった。
「あの、私……お邪魔だったら出て行きますね」
「いいえ、レディアさんもいていただきたいわ」
そう言ったのは、ラヴィーナさんだ。
彼女の目には、何か決意のようなものが宿っていて、私はただ頷くことしかできなかった。
椅子に座ると、シャロットが私の隣にぴとっとくっついてきて。
今から何が始まるのかと喉が渇いてくる。
そんな中、ラヴィーナさんが、ゆっくりと話し始めた。
「イシドール様……謝罪が大変遅くなってしまい、申し訳ございません。私はあなたの信頼を裏切り、決して許されない行いをしました。あなたを深く傷つけてしまったこと、心からお詫び申し上げます。アデルも謝罪を申し出ておりましたが……今回は、同席するべきではないと思い、彼には遠慮してもらいました。」
ラヴィーナの心からの謝罪を聞いて、イシドール様は少し首を横に振った。
「元は、俺が横恋慕してしまったことにあるのだ。一目惚れして、すぐ求婚してしまった俺に非がある。もっと君を知るべきだった。若気のいたりという言葉では済まされないことだが……許してくれ」
「イシドール様に非などありません。すべては私が悪いんです」
そんな風に言い合う二人に、シャロットが体を浮かせる。
「パパもママも、わるくないもん。ふたりとも、いい子いい子よ。だって、シャルのパパとママだもん。そうでしょ、レディアおねえちゃん!」
話を振られた私は頷いて、二人に笑みを見せる。
「ええ……お二人とも、自分の気持ちに素直な、優しい人よ。本当に素敵な両親ね、シャロット」
「そうでしょー!」
私が褒めると、シャロットは嬉しそうに天使の笑みを見せた。
そんな娘の顔を見たイシドール様とラヴィーナさんは、それ以上自責するのは辞めて、お互いを見つめ合う。
「シャルと二人で過ごさせてくださって、ありがとうございました。シャルに、今の私の状況と気持ちを、全部お話ししました」
彼女は全部シャロットに伝えたんだ。
今、一緒に暮らしている新しいご主人のことや、一歳半の子どもが生まれていることも、全部……包み隠さず。
「ママはね、シャルをすてたんじゃなかったのよ。ほんとうはいっしょに行きたかったんだって!」
ほくほくと話してくれるシャロットに、私はほっとした。
捨てられたんじゃないって、ちゃんと愛されてるんだって、わかった顔してる。
……よかった。
本当に、よかった。
シャロットの心が壊れる前に、ラヴィーナさんと話せて。
「今は家族三人で静かに暮らしていますが、シャロットがいればと思わなかった日はありません」
ラヴィーナさんの、真剣な瞳。次の言葉を、私は恐れながら待った。
「こんなお願いをする資格はないと、わかっています。でも……どうしても伝えたくて」
ラヴィーナさんは膝に置いた手をぎゅっと握り、まっすぐイシドール様を見つめる。
「私は今、温泉街の館で働いています。アデルと、一歳半になる息子と暮らしています。今日シャルに会うことを夫にも話しました。もし、イシドール様とレディアさんが許してくださって……シャル自身もそう望むなら──」
そこで一度、言葉を切り、ラヴィーナさんは静かに深く頭を下げた。
「もう一度、母として、この子と暮らしたいんです」
短く、まっすぐな母としての切実な言葉。
沈黙のあと、イシドール様の声が低く優しく響いた。
「……シャロットは、どうしたい?」
いやだ。聞きたくない。
答えを早く知りたくて、でも怖くて。
──だけどシャロットは、何の迷いもなく笑った。
「ママといっしょにくらす!」
私は──
一瞬、何が起きたかわからなかった。
隣にいるシャロットの笑顔が、あまりにも無邪気で、まっすぐで。
ああ、そうだよね。
そうなるかもしれないって、わかってたはずなのに。
イシドール様の指が、わずかに止まった。
それだけ。
表情には、まったく出てなかった。
でも、わかる。
きっと心の中で何かが軋んでるって。
私も、ショックで。
喉の奥がきゅっと詰まって、笑おうとしても口元がうまく動かなかった。
「……ママと一緒に暮らしたいなら、そうしていい」
穏やかに紡がれた、イシドール様の言葉。
わかってた。イシドール様は、そう言うって。どれだけ、苦しくても……
だって、そういう人だから。
イシドール様の言葉に、シャロットはぱぁっと顔を輝かせた。
「じゃあみんなでお引越しだね!」
予想外の言葉に、私は言葉を失う。
ニコニコ嬉しそうな笑みを振り撒くシャロットを見ると、胸が痛んだ。
そっか、わかってなかったんだ。
……ちがうんだよ、シャロット。
その「みんな」に、私も、イシドール様も入ってるんだよね。
でも、それは──叶わないこと。
彼女の間違いを正す勇気を、私は知らない。
ふと落ちた沈黙に、シャロットは首を傾げてる。
そんな娘に、イシドール様が小さく首を振って答えた。
「パパは行くことができないんだ。ここで仕事がある」
「……パパ、来ないの?」
シャロットの声に、急に不安が滲んだ。
「じゃあ……レディアおねえちゃんは、これるよね?」
……答え、られない。
もちろん、行けるわけがないんだけど。
イシドール様が代わりに、静かに告げてくれる。
「レディアも、行かない」
シャロットの目が、一気に潤み始めた。
私の胸に、何かがぐさぐさと刺さってるみたいに、痛い。
「……じゃあじゃあ、ママたちがここにくる!? みんなでいっしょに! おへや、いっぱいあまってるよ!」
ねえ、お願い──と、まっすぐな目で見つめてくるその顔が、たまらなくつらくて。
でも、ラヴィーナさんは、優しい顔で、首を横に振った。
「それは……無理なのよ、シャル……」
「どぉしてぇ……?」
ふにゃ、と顔を崩したシャロットは、今にも泣きそうで。
その顔を見た瞬間、私の胸はきゅうっと縮んだ。
「ママのところにいくか、パパのところにいるか、どっちかしか、できないの」
なんて、残酷な選択だろう。
六歳になったばかりの子に、こんな問いを突きつけて。
私たち大人は、なんて酷いんだろう。
「そんなの……えらべないよぉ……!!」
シャロットは顔をくしゃっとゆがめて、肩を震わせた。
唇がひくひくして、次の瞬間、堰を切ったように大声で泣き出す。
小さな手で目をこすって、涙をごしごし拭おうとするけど、どんどんあふれて追いつかない。
「……シャロット」
イシドール様が静かに呼んで、そっと膝の上に抱き寄せた。
その腕はいつもよりずっとやわらかくて、背中を優しく、とん、とん、とん、って。
「いいんだ。すぐに決めなくていいんだよ」
その声には、言葉よりも深い愛情が込められていた。
静かで穏やかな、でも決して揺るがない強さ。
シャロットを、本当に大事に想っているんだって。
ラヴィーナさんの気持ちも、痛いほど伝わっていた。
母として、どんなに悔やんで、どれほど愛してきたのか──その全部を伝えたからこその、シャロットの涙だから。
だけど、答えを出すのは、シャロット自身。
私は、今日六歳になったばかりの小さな背中を見ながら、心の中で祈った。
どうか彼女の選ぶ道が、どんなものであっても、あたたかい未来につながっていますように──と。