17.ストロベリー侯爵、元妻を見つける。
翌朝、まだ眠っているシャロットをイシドール様に任せて、温泉に入ることにした。
「昨日はシャロットがいたから、せわしなかっただろう。ゆっくり入ってくるといい」って言ってくれて。
イシドール様、優しい。
脱衣所に入ると、掃除をしている人がいた。宿の人だ。
「あの、お風呂って今大丈夫です?」
声を掛けると、見事な金髪のその人は振り返って、笑顔になった。
「もちろんです。どうぞ」
うわぁ、めちゃくちゃ美人。
この宿に来て初めて見たから、裏方さんかな。こんなに美人なのに裏方なんて、もったいない気がするけど。
でも人にはそれぞれ事情があるものよね。
「タオル、お出ししておきますね。こちらの石鹸はサービスです。ぜひお使いください」
「わぁ、ありがとうございます」
「ふふ。では、ごゆっくりどうぞ」
そう言ってその人は、優雅に立ち去っていった。
立ち居振る舞いが本当に淑女って感じ。
やっぱり高級宿の従業員は、しっかり教育がされいるのね。
イシドール様と同い年くらいの、気立てが良くてスタイル抜群の美人さん。
そんな人の接客を受けると、自然と笑顔になってしまう。
中に入って体をもらった石鹸で洗うと、ほんのりジャスミンが薫ってきて、幸せな気分に浸った。
「あんな美人に生まれてみたかったなぁ……なんて」
もし、私がさっきの人みたいに美人だったら。
両親も兄も、私の存在を無視しなかった……かもしれない。
「ないものねだりしても、仕方ないか」
くすんだ灰色の髪も、低めの身長も、スタイルがいいとは言えないこの体も、すべてを愛してくれている人がいる。
そう思うだけで、ちょっと無敵な気持ちになれる。
体を洗い終えると、パチャッと温泉に浸かって。
私は、その幸せに浸っていた。
***
「りょこう、たのしかったー!」
屋敷に帰ると、いつもの日常が始まった。
あれから二週間も経っているのに、シャロットは何度も何度もこの話をする。
「ね、またいこう! パパ!」
「そうだな、また行こう」
「じゃあ、あした!」
「明日は仕事があるから無理だ」
「えー、パパのけちっ!」
シャロットがほっぺを膨らまして怒っていて、イシドール様は落ち込んでいる。
やだ、どっちもかわいい。
「シャロット、無茶言わないで。パパのこと、大好きでしょう?」
「うん、すき! だぁいすき! ごめんね、パパ!」
「シャル……」
シャロットがハグを求めにいって、イシドール様がそれに全力で応えてる。
もう、本当に仲のいい親子なんだから。ちょっと嫉妬しちゃいますよ?
「レディアおねえちゃんもいっしょにハグー!」
「わ、私も?」
「おいで、レディア」
いえ、イシドール様までそんな当然のように言われましても!?
二人にあんな風に手を広げられたら、行くしかないじゃない!
えーい、もう! 飛び込んじゃうんだから!
「きゃーーっ!」
「レディア……っ」
二人にぎゅうっと抱きしめられて……私も抱きしめ返して。
こんな幸せな時間が、一生続けばいいって……そう、思ってた。
その日の、午後のこと。
探偵が調査結果を携えて、屋敷へとやってきた。
「お忙しいところ、失礼いたします。ご依頼いただいた前夫人の件について、調査がまとまりました」
シャロットはちょうど家庭教師とお勉強中で、私はイシドール様と並んで座り、その報告を聞いた。
「……それで、見つかったのか」
「はい。前夫人、ラヴィーナ様の所在が判明いたしました」
見つかったんだ……とうとう。
部屋の空気が変わった。心臓がどくどくした。多分、イシドール様はそれ以上に。
「場所は、北西の山沿いにある温泉町、ロナヴェルです。最近は観光地として整備が進み、上流階級の避暑地としても人気が出始めています」
イシドール様の手が止まった。
ロナヴェル──それは、私たちが旅行で訪れた、あの町の名前。
「その町にある、エルブランシュの館という宿で、前夫人は働いていました」
息が詰まりそうになった。
あそこだ。あの宿。
その瞬間、思い出した。
あの見事な金髪。
淑女と見まごう優雅で完璧な立ち居振る舞い。
渡されたジャスミンの香りの石鹸。
そして──天使のような、笑顔。
「その宿で、“サリア”という名を名乗っております。宿の所有者の血縁者ではありません。正式な戸籍も変えておりました」
「二週間前、俺たちが旅行に行って泊まった宿だ。まさか……すれ違っていたとは」
「なんと、そうでしたか」
ドクンドクンと心臓が鳴る。
あの時にシャロットたちと鉢合わせなくてよかった……なんの情報なく会ってしまうのだけは、避けたいもの。
お互いに心の準備がいるはず。
シャロットはもちろん、イシドール様と……ラヴィーナさんにも。
探偵は淡々と、でも丁寧に続ける。
「ラヴィーナ様は現在、元庭師の男性とその街で暮らしており、間に一人男児が生まれております。一歳半です。現在は三人で、慎ましくも幸せに暮らしている様子です」
静かな声だった。だけど、その一言で何かが終わったような気がした。
一歳半。
つまり……ここを出た時には、妊娠してたんだ。
ううん、多分逆。妊娠したから、ここを出た。その方が辻褄が合う。
絶対、ショックだ……イシドール様……。
どうしよう、隣を見られない。
思った通り、イシドール様はしばらく無言で。
胸が、痛くなる。
「……よく調べてくれた。追加の報酬を用意しよう。受け取ってくれ」
探偵はお金を受け取ると帰っていった。
二人っきりになった部屋で、私はようやくイシドール様を見上げる。
「あの……大丈夫、でしょうか……」
「……気にしてくれるな。予想はしていた」
愛していた人の、不貞。それは、どれだけ苦しいことだろう。
なんて声を掛ければいいのか、わからない。
ぎゅっと奥歯を噛むと、イシドール様はその顔を少し緩めた。
「レディア。本当に気にしなくていいんだ。ラヴィーナの不貞があったからこそ……俺は君と愛し愛される喜びを知ることができた」
「イシドール様……」
その言葉は嬉しい。嬉しいのに、なぜだか悲しさが吹き荒れる。
「ラヴィーナさん……すごく、すごく綺麗でした……っ」
「レディア? まさか、宿で……」
「会いました。私、ラヴィーナさんと知らずに……!」
言葉が止まらない。止められない。
あの宿での一瞬一瞬が、胸に鮮明に焼きついている。
「すごく綺麗で、気さくで、優しくて……美人なのに気取ったところがまったくなくて……それなのに、立ち居振る舞いは淑女そのもので……」
思い出すだけで、胸が締めつけられる。
ふわりと香ったジャスミンの匂い。あの金髪。
シャロットの母親だから、美人だってわかってたけど。想像の遥か上をいってて。
「……女性として、完璧な人でした……」
言った瞬間、ぶわっと感情があふれた。
なんで? どうして? 涙が勝手にこぼれて、視界が歪む。
「私、あんな人に勝てない!! シャロットの母親にも、あなたの妻にも! なれるわけがないじゃないですか!」
叫んだ。
もう、頭の中がぐちゃぐちゃ。
胸が苦しくて、息もまともにできなくて、ただ感情だけが口から飛び出していく。
なんで、なんで、なんで──!
あんな綺麗な人が、優しくて、完璧で、笑ってて……。
イシドール様に一目惚れされるような人。
その人と比べて、私に何があるっていうの?
無理……勝てっこない。
怖くて、悔しくて、情けなくて、惨めで、涙が溢れて止まらなくて。
喉の奥が熱くて、全部ぶちまけてしまいたかった。
親にも、兄にも。私は“いないこと”にされて育ってきた。
話しかけても返事はなくて、部屋に入れば空気が凍って、いつだって疎ましがられて──
そのたびに、自分がどれだけ不要な存在なのか、痛いほどわかった。
そんな私が……あんな綺麗な人に、敵うわけないの。
シャロットの母親になれるわけがない。
イシドール様の隣に並べるわけが、ない。
イシドール様は優しいから、私を救ってくれただけ。
ただの同情、だったのに。
私が好きになってしまったから……シャロットが私に懐いちゃったから。
ただの優しさで愛してるふりをしてくれただけって、気づかなかった。
「レディア」
「私……ここで必要とされてるって……思い込んで……っ」
「レディアッ!!」
手首を取られると、ぐいっと引き寄せられた。
予期せずイシドール様の胸の中に飛び込んでいく。
「君を必要としている。俺も、シャロットも」
「でも……ラヴィーナさんが戻ってきたら……私なんて、用済みじゃないですかぁ……ぁぁぁあああっ!!」
子どもみたいに声をあげた。喉が引きちぎれそうなほど。
怖い。怖い。捨てられるのがとてつもなく。
今さらながら、シャロットの気持ちがわかった。
愛している人に捨てられるのは、愛されていると思っていた人から捨てられるのは……こんなにも、つらくて不安になる。
捨てないで、捨てないでって、何度も叫びたくなってしまう。
「……君は、俺を信じられないか?」
イシドール様の声が、低く、けれどはっきりと響いた。
「ラヴィーナがどんなに美しかろうと、優しかろうと──もう、俺の心は動かない。たとえ過去を思い出しても、戻りたいとは一度も思わなかった。だが、君がいない未来は考えたくもない」
息を呑む。胸がきゅうっと痛くなる。
「これは同情なんかじゃない。君に触れたいと思った。笑ってほしいと思った。手を繋ぎたい、抱きしめたいと思った。……全部、愛してるからだ」
真剣な瞳。熱くて、胸に響く言葉の数々。
「怖いなら、信じられないなら、何度でも言う。君を、手放したりなんてしない。絶対にだ」
「イシドール……さま……」
……私は、本当に大馬鹿だ……。
どうして疑っちゃったんだろう。
こんなにも、こんなにも、愛を注いでくれている人なのに。
ぐすっと鼻をすすると、私は涙目のままイシドール様を見上げた。
「ごめんなさい……私、自分のことしか考えていなかった……」
そんな私に、イシドール様はそっと目を細ませる。
「いや、いいんだ。そうして不安や不満をぶつけてくれる方が、急に消えられるよりもよっぽどいい」
イシドール様の手が、私の涙を拭っていく。優しく、温かい指で。
「すまなかった。俺の過去が、君を不安にさせてしまった」
少し目を伏せたイシドール様に、私は空気を震わせる。
「違うんです……!」
私は首を振りながら、胸の奥から溢れ出す言葉を止められなかった。
「イシドール様の過去を不満に感じたわけじゃありません……あんなに素敵な人と、あなたが本当に夫婦だったって、思い知らされた気がして……」
声が震える。喉の奥がつまって、言葉が途切れそうになるのを、必死でこらえた。
「私が……あなたにふさわしくないんじゃないかって……思ってしまったんです。子どもみたいに……自信がなくて、すぐ怯えて、疑って……」
自分の情けなさに、また涙がこぼれそうになる。
「それでも、あなたが好きなんです。どれだけ怖くても、惨めになっても、あなたのそばにいたい。笑っていてほしい。私だけを見てほしいって、思ってしまう……」
そう口にして、ようやく気づく。
私は、どんな形であっても、この人と共にいたいと願っていたのだと。
「こんな私でいいのなら……ずっと、隣にいさせてください……」
祈るような気持ちで、絞り出した言葉。
それがイシドール様に届いてほしいと、心の底から願っていた。
「ふさわしくないだなんて、もう二度と言わないでくれ。俺には君が必要で……誰よりも愛おしい人なんだ」
また、涙が溢れてくる。それをイシドール様があたたかい手のひらで拭っていく。
「俺の方からお願いする。ずっとそばにいてほしい。これから何があろうとも、俺の隣にいてくれ」
喉が詰まって、声が出せなくて。
私はこくんと頷いた。
そんな私にイシドール様は見たこともないような甘く優しい顔をして。
「愛している、レディア」
全身がとろけそうな愛の言葉を囁いてくれる。
「私も、です……っ」
「愛してる」
「私も……」
「愛してる」
「私も……!」
「キスしたい」
「私も……って、え!? ダメですっ!」
慌てて否定すると、イシドール様はふっと笑っていた。
今、流れでいけると思いましたね!? 危うく乗せられるところだったじゃないですか……っ!
「残念。ガードが固いな」
この人は、本当に、もう……っ
でも、次の瞬間にはイシドール様は──
「泣き止んだな」
そう言って、嬉しそうに顔をとろけさせる。
本当に……かなわない。
「私だって、いっぱい愛してますから!」
私の言葉に、イシドール様は「俺もだ」って笑った。