15.ストロベリー侯爵、脱ぐ。
翌朝。
ふらふらする。
昨日のことを考えすぎて、よく眠れなかった。
鏡の前で髪を整えながら、何度も深呼吸を繰り返してみる。
「だ、大丈夫。……落ち着いて、昨日のことなんて、なんともなかった。普通。全部普通。なにもない」
ぶつぶつ自己暗示を唱えながら、なんとか顔を整えて、そして──
「おはようございます、イシドール様」
朝の挨拶と予定の報告をしに書斎の扉をノックすると、いつも通りの落ち着いた声が返ってきた。
「入ってくれ」
昨日のことは忘れた。忘れた。忘れた。
そう言い聞かせながら入った瞬間。
「……顔、赤いな」
「えっ……!? い、いえ!? そんなことっ……っ」
え、本当に?
もうさすがに平気だと思ったんですが!?
ばっ、と顔をそむける。
意識しすぎて、手に持っていた書類がぷるぷる震える。
イシドール様は椅子にもたれたまま……見てる……私を、見てる……!
「昨日の夜、眠れなかったか?」
「……っ、う……そ、それは……」
うそ、バレてる? もう昨日のことなんて、忘れてくれたらいいのに! なんなら私よりしっかり覚えてそう!
「何を考えていた?」
何その質問……もちろん、考えていたのはイシドール様のことですが。
それはもう、イシドール様しか浮かんでませんでしたが!
それを言えと? 今??
お腹の奥からじゅうって熱くなる。なにこれ恥ずかしい……!! 無理!
「べ、別に……特別なことは、何も……」
「そうか。何もなく、顔を赤くしているんだな。夜も眠れずに、か?」
静かに、わずかに笑うような声。
……わざとだ。もう、イシドール様って意外に意地悪なんですから!
抗議しようと顔を上げる。
その瞬間、イシドール様の眼差しに、息を呑んだ。
昨夜と同じ。
やさしくて、強くて、どこまでも甘い。
ぞくり、と背中をなぞるような感覚が走る。
「レディア」
「……っ、はい」
心臓、これ以上跳ねたら飛び出るからやめて!
「昨日、俺が……あのまま君に触れていたら。君は、止められたと思うか?」
──何、言って。
「それとも……望んでいたか?」
「~~~~っっっっっ!!???」
心臓が爆発する音が聞こえた気がする。
顔が熱い、いや熱すぎる、死ぬ。これは死ぬ。
「しっ、知りません! なんの話か分かりませんっ!!」
今日の予定表をイシドール様の机に叩きつける。
もう、顔が熱すぎるっ!
さっさと戻ろうとしたのに、扉のところまで来て、私の手首はやんわりと掴まれてしまった。
「……その反応。君のそういうところが……可愛いんだ」
耳元で囁かれた瞬間。
私の思考は、完全に凍結した。
「な……っ……」
この人は。
あの夜、寸前で止めておいて。
そのくせ、何事もなかったような顔で──
今日もまた、寸前まで追い詰めてくる!!
ずるい……っ、ずるすぎる……!!
「レディア」
「……なんでしょう」
「今日の予定では、昼の一時から空いているな。書庫の整理を手伝ってくれ」
それ、そんな至近距離で言う必要ありました!?
というわけで、お昼。
「きょう、あつぅい。シャル、おべんきょう、やるきでないー」
陽が高くなるにつれて、どんどん気温が上がってきた。
今日の一時からしばらくの間は、シャロットは家庭教師とお勉強の時間。
けど確かに、この本格的な夏の暑さじゃ、勉強なんて身が入らないよね。
「シャル、みずあそびしたぁい」
「それはまた今度ね。もう先生がいらっしゃるから、がんばってきて」
「はぁい」
シャロットは素直に部屋に戻って行き、私はイシドール様と書庫に向かった。
書庫と言っても、今は使われていない倉庫のようなところ。
昔の記録が必要みたいで、イシドール様が探している間、私は周りを整理していく。
「……たしかこの辺りに、例の記録があったはずなんだが」
「イシドール様、窓を開けてもよろしいですか? 暑くて」
「ああ、空気を入れ替えよう。気をつけてくれ」
天窓しかなくて、私は梯子を登ると、その窓を開けた。
その瞬間。
「きゃああ!!」
ぶわっと風が吹いて、私は梯子から放り出されて──
「レディア!!」
イシドール様が私を抱き止めてくれたのと、同時だった。
バタンッ! カタンッ
何かが、閉まる音。
「大丈夫か、レディア」
「あ……ありがとうございます……っ」
危ない、死ぬかと思った。
今は、心配そうなイシドール様を間近で見て、別の意味で死にそうだけど。
いや、でも今はそれどころじゃない。
私たちは、恐る恐る扉の方を見た。
──閉まってる。
イシドール様は私を下ろすと、その扉を開こうと試みていた。
けど……開かない。
「マズいな。……床のかんぬきが衝撃で降りたか。普段は使っていないんだが」
「じゃあ、開かない……?」
「……ああ、誰かが来るまで、な」
外は炎天下。通り抜けられない風は、中々入ってこないし。
よりによって、今日はいつもよりさらに暑い。汗が滲んで、服が張りついてくる。
普段は使うことのない書庫。誰かが通る気配もないんだけど……。
ちょっと、まずくない?
喉、すごく乾く。
「……暑いですね……」
「悪い……脱ぐが、いいか?」
「えっ……えっ!? いえ私は……だ、大丈夫です……!」
「俺の話だ」
イシドール様は耐えきれなかったのか、ぐいっとシャツのボタンを外す。
ひとつ、ふたつ、みっつ……ボタンをよっつ。
それだけでも、あの、お肌が、見えちゃうんですけど!?
執務仕事ばかりしているのに、いつ鍛えてるんですか、その胸筋!
えっちょっ……ちょっと待って……無理……見てるこっちが熱中症……!!
「……なんだ。そんなに見るなら、全部脱いでも構わないが」
「み、見てませんっ」
「ふ……そうか?」
ぐいっと顎を指先で引かれた。
目が合う。心臓が、どくんと跳ねた。
「レディアは大丈夫か? 顔が、赤い」
それ……イシドール様のせいですから……っ
イシドール様はゆっくりと、私の横に座る。
さっきまでより近い。暑さと、距離で、息が上ずる。
「……レディア。やはり、君も脱いでくれ」
「ふぁい!?」
「変な意味じゃない。いや、少しあるが」
あるんですか!?
イシドール様は汗の滴る体で、ふっと私を見た。
いえ、そんな色気を放出されましても……本当に目のやり場にこまるんですが!
ああ、もうダメ。あまりの色気に当てられて、頭がぼうっとして──
「レディア! 悪い、少し脱がすぞ」
「だ、だいじょ……っ」
「だめだ。……紐を緩めるだけだから」
低く落ち着いた声。でも、どこか熱を帯びていて……その声音だけで、胸が苦しくなった。
背中にあるコルセットの紐を、イシドール様の指が探る。
「少し……失礼」
するりと、締めつけていた紐が緩んだ。呼吸が、少しだけ楽になる。
服の隙間から風が入りんで。素肌に触れたイシドール様の指先の感触が、鋭く意識に残った。
「……これで、少しは楽か?」
イシドール様の顔が、近い。
汗をぬぐうようにそっと頬をなでたその指先が、なぜか震えていた。
ただのやさしさ。なのに、息が詰まるほど色っぽくて、逃げ出したくなるほどドキドキする。
私は、答える代わりに、かすかにうなずいた。
イシドール様が、そっと私の耳元で囁く。
「こんな状況でなければな……」
そんな言葉に、私は朦朧としながらも、ふっと笑ってしまう。
「こんな状況じゃなければ……どうしたんですか……?」
「君を抱いていた」
さらりと……言い過ぎなんです、イシドール様……。
「もう少しの辛抱だ、レディア。そろそろおやつの時間だからな」
「あ……シャロット……」
私の声に、イシドール様が頷く。
「シャロットは君と一緒におやつを食べたがる。その時に姿を見せなければ、探すだろう」
イシドール様がそう言った瞬間。
「パパー! レディアおねぇちゃーーん! どこ……どこぉ!?」
泣きそうなシャロットの声が聞こえた。どうしよう、また不安にさせて……。
「シャロット、ここだ! 開けてくれ!」
「パパ!! パパの声!!」
その安堵の声に、泣きそうになってしまう。
うんしょうんしょとかんぬきを上げて、その扉が開くと、涼しい風が舞い込んできた。
「パパ! レディアおねえちゃん、どうしたの!?」
その瞬間、私の体はふわりと浮いた。
「少し、具合が悪いだけだ」
「おねえちゃんが……し、死んじゃうの? やだぁ!!」
「死なせてたまるか。大丈夫だ、すぐに治る」
私はそんな声を遠くに聞きながら。
水を含むと、そのまま意識を手放した。
***
ふっと目を開けた瞬間、ぼやけた視界に飛び込んできたのは、泣きじゃくる顔だった。
……え? だれ……?
目が少しずつ焦点を結びはじめる。
「れ、レディアおねえちゃ……っ!!」
──シャロット。
気づいた瞬間、胸が締めつけられる。
小さな身体が、私の胸にぎゅっとしがみついている。肩はがたがた震えて、顔をうずめたまま泣いていて──
「やだ……やなの……! 死んじゃ、やなの……っ、死なないで……!!」
こぼれる涙が、ぽたぽたと私の首もとに落ちる。
服の布ごしに伝わってくる小さな手の力が、あまりにも必死で、愛しくて……苦しい。
こんなに泣かせて……ごめんね、シャロット。
体が暑い。頭痛も吐き気もして最悪。
だけど、シャロットの涙だけは、鮮明に映る。
私は、震える指を持ち上げて、シャロットの柔らかい金の髪をそっと撫でた。
「……シャロット。大丈夫よ。私は……ここにいるでしょう……?」
その言葉に、びくんと小さな肩が震え、シャロットが顔を上げた。
ぐしゃぐしゃになった涙顔が、私を見て、ぴたりと固まる。
「……おねえちゃん……? おめめ、あけたぁ……っ」
「シャロットが呼びかけてくれた、おかげ……それに、助けてくれてありがとう……」
私の言葉にシャロットはまた一瞬だけ固まると、直後わっと声を上げて私の首に飛びついた。
「うぇえええんっ、ほんとに死んじゃったかとおもったぁああ~~~!!」
わんわん泣く声が、胸に響く。
泣かせたくないのに、心配かけちゃった……ごめんね、シャロット。
ふとシャロットの後ろに視線を伸ばすと、その先にイシドール様が座っているのが見えた。
無言で、額に手を当てて俯いてる。
その指先がかすかに震えているのが見えた。
「……イシドール様……?」
声をかけると、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、いつもの落ち着きとは違う色が宿っていた。深く、暗く、悔いと痛みを滲ませるような表情。
「……すまない。俺のせいだ」
本当に、この人は……すぐに全部を自分で背負おうとするんですから。
「イシドール様のせいなんかじゃありません。あれは事故です。私の方こそ、気をつけていれば……」
そう言葉にしても、まだ苦しげな顔のまま。
きっと、シャロットの泣き顔を見たから、なおさら自分を責めてる。
私は、シャロットの頭を撫でながら、そっと微笑んだ。
「……私は、大丈夫ですから。ね?」
それでもイシドール様は、言葉を出せずに黙ってる。
ああもう……この人って、ほんとうに……不器用なの。
でも、そこが愛おしいのよ?
私はふっと目を細めて、言葉を変えた。
「じゃあ……償いの代わりに、今度、一緒にお出かけしてください」
その言葉に、彼は少しだけ顔を上げた。
「……お出かけ?」
「ええ。シャロットも一緒に。三人で、どこか楽しいところに行きましょう。暑くないところがいいですね。おいしいものがあるところも……!」
「……それでいいのか?」
その問いかけに、私はうなずいた。
「それがいいんです。お詫びも、お礼も、そして楽しい思い出も……まとめて、全部。三人で分け合いましょう?」
そのとき、私の胸元にいた小さな体がむくりと起き上がる。
「おでかけ!? シャルもいくの!?」
涙の跡が残る顔で、ぱあっと輝くような笑顔になった。
あなたのそういうところも、私は大好き。
「ええ、行くでしょう?」
「いくー!! パパ、いこ! おねえちゃん、いこっ!!」
「……ふ」
イシドール様が、ようやく小さく笑った。
よかった。やっぱり、好きな人たちには笑っていてほしいもの。
「わかった。なるべく早いうちに……計画しよう」
「やったぁ!!」
シャロットがくるくると喜びの舞を始めちゃった。かわいい。
私はその姿を見ながら、ふと、イシドール様と視線を交わす。
彼は、とびきりやさしい目で、私を見ていて。
その顔が甘くて、甘すぎて……熱中症以上の熱が、私の身体を襲った気がした。