13.ストロベリー侯爵は甘えたい。
ラヴィーナさんを探すと決意した日の夜、私はイシドール様の部屋を訪れた。
部屋の扉が静かに閉まり、イシドール様がソファに腰を下ろす。私はその対面に座るように勧められたけれど、どうにも落ち着かず、手を膝の上でぎゅっと握っていた。
厚手のカーテンに覆われた窓の向こうは、すでに暗い。執務室の中は、ランプの明かりだけがぽうっと灯っていて、やたらと心音が響く気がする。
「……今日はずっと、何か言いたそうだったな」
低く落ち着いた声。けれどその裏にあるのは、“気づかないふりをしてあげる”優しさじゃなかった。気づいたからこそ、見逃さなかった声だ。
私は、思いきって唇を開いた。
「……ラヴィーナさんのことを、探したいんです」
その瞬間、彼の瞳がわずかに揺れ動く。
すぐに返答はなかった。でも急かさずに、私はゆっくりと待つ。
「どうしてだ?」
静かな問いかけ。
どうしてだか私は、少し怖くて身を震わせた。
なにかを壊してしまうかもしれない──そんな予感がして。
でも。
「シャロットの涙を見て、そう思ったんです。あんな悲しい顔、もう二度と見たくありません」
声が、震える。けど、言葉は止めたくなかった。
シャロットのために。
「私は、あの子に──母親と会わせてあげたい」
イシドール様は目を伏せ、椅子の肘掛けに片肘をついて、指先で唇をなぞった。その姿に、理性と感情がぶつかっているのが見える。
「……探したことは、ある。だが、見つからなかった。いなくなった直後の話だが……」
その言葉に、胸の奥がぎゅうっと苦しくなった。
探してなかったんじゃない。見つからなかったんだ。どれほどの絶望と共に、それを諦めたんだろう。
「だが、レディア。仮に見つかったとして……彼女がシャロットに会いたくないと言ったら? 何も言わずに出て行ったラヴィーナが、ここに来るとは思えない」
イシドール様の声は冷静で、どこか諦めのような響きを含んでいた。まるで、既にその答えを知っているみたいに。
たしかに、それは現実的にあり得る話だと思う。何も言わずに消えたラヴィーナさんが、娘に会ってくれる保証なんてない。むしろ、拒まれる可能性の方が高いのかもしれない。
──それでも。
私は唇をぎゅっと結び、ほんの少しだけ視線を落とす。気持ちを整えるために、拳を握った。
たとえラヴィーナさんがこの屋敷には戻れなくても。少しでもシャロットに会いたいと思ってくれたなら、この場所じゃなくたって、会う方法はいくらでもある。
本当に会えるかどうかは、今この瞬間に答えを出すことじゃないもの。
今は、このまま何もしないでいることの方が、よっぽど怖い。
シャロットはずっと泣いたまま……前に進めない。
誰よりも、あの子のために。
「それでも、やっぱり……“知らないまま”ではいられないんです」
私は思いを言葉に乗せる。
「それがどんな答えでも。ちゃんと、会って……気持ちを伝えなきゃ、きっと、あの子は“どうして”を抱えたまま大人になってしまう」
ずっと、自分は捨てられたんだと思ってしまうかもしれない。母親に、愛されてなかったんだって。
それが、どれほど残酷か──それを想像しただけで、胸が張り裂けそうになる。
私のように、最初から愛されなかった子じゃないもの。
あの子は……愛されていた。それは、シャロットを見ていればわかること。
だから、捨てられたなんて思いを、少しでも抱かせるわけにはいかない。
イシドール様はゆっくりと顔を上げて、私をまっすぐに見た。
その瞳に浮かぶのは、疑いじゃない。
迷いと、痛みと──それでもなお、誰かを信じたがっている、眼差し。
「……もし、シャロットが……俺ではなく、ラヴィーナを選べば、どうなる……っ」
その言葉があまりに本音すぎて、胸がぎゅっと締めつけられた。
イシドール様がこんな顔をするなんて、思ってもみなかったから。
自信に満ちた人だと思ってた。常に前を見て、誰よりも堂々としてて、ブレなんてものとは無縁のように見えていたのに。
でも、そうよね。
イシドール様だって、お父さんなんだ。たったひとりで、女の子を育ててきたんだ。
何度も悩んで、揺れて、怖くなって、それでもシャロットのためにって歩き続けてきて。
その愛が、いまさら誰かに否定されるような気がして……怖いって、そう思ってしまうのも、当然じゃない。
私はそっと、イシドール様の手の上に自分の手を置いた。
その指は少し強張っていて、ぎゅっと拳を握る寸前みたいに力が入っていた。
でも私の手に触れた瞬間、少しだけ、その熱が溶けていく。
「イシドール様……」
静かに名前を呼ぶと、彼の目がゆっくり私を見た。
不安を隠せない目。誰かに傷つけられるくらいなら、自分で先に壁を作ってしまうような、そんな目。
「それでも、私たちは、シャロットのために動くんですよね」
私は言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「何があっても、どうなっても、彼女が自分で選べるように──そのために、動くんです。イシドール様を否定するためじゃない。ラヴィーナさんを正当化するためでもない。シャロットに、知る権利があるから。……それだけです」
イシドール様は小さく瞬きをして、視線を落とした。
「……あの子に、知られたくないことも、ある」
「ありますね」
私は即答した。人には、誰にも見せたくない部分がある。自分でも直視できない部分だってある。
特に、イシドール様は……ラヴィーナさんに一目惚れして、求婚してしまった。侯爵からの縁談は断れないと、多分わかってて。
だけどそれは仕方のないことだと思う。イシドール様は、自分の思いにまっすぐだっただけ。相手に想い人がいると知ってたら……きっと、引いていた。そういう人だから。
「でも、それも全部含めて。決めるのは、シャロットです」
イシドール様の肩が、すこし震えた。たぶん、こらえてる。今にも崩れそうな気持ちを、どうにか支えてる。
私は、もう一歩だけ近づいて、彼の肩に自分の額をそっと預けた。
ぬくもりが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
「大丈夫です。どんな結果になっても、私、ちゃんとそばにいますから。イシドール様も、シャロットも、ひとりにはしません」
私の言葉に、イシドール様の呼吸が乱れたのが、わかった。
彼の指が私の手を握り返してくれる。
このぬくもりが、ちゃんと届いているならいい。
完璧な正解なんてわからないけど、一緒に悩んで、一緒に進んでいけばいい。そう思えた。
私たちはしばらく、黙ったまま手をつないでいた。
その静けさは、ちっとも苦にならなくて。むしろ、ずっとこうしていたいと思ってしまうくらいで。
しばらくして、イシドール様がそっと私の手を引いた。
気づけば、彼のベッドの端に一緒に腰掛けていて、肩がほんのすこしだけ触れ合っていた。
胸が、どきんと鳴る。
「……こんなふうに、誰かに弱音を吐いたのは、いつぶりだろうな」
低くつぶやいた声は、どこか照れていて、でも少しだけあたたかい。
その横顔を見上げると、私の心もあたたかくなる。どこまでも誠実で、不器用で、でもちゃんと人を大切にする人。
「たまには、甘えてくれてもいいんですよ?」
「君にか?」
その顔は、少し困ったような、甘えるのが恥ずかしいような、そんな苦笑だった。
「私、けっこう頼りになるんです。……たぶん」
イシドール様が小さく息を洩らした。
笑ったのかな、と思って顔を向けたら、思ったよりも近くて、びっくりする。
私の額と彼の額が、ほんの指一本ぶんくらいしか離れていなかった。
「……レディア」
イシドール様の、甘い声。
……こんなベッドの上で、そんな声を出しちゃいます?
今さらながら、緊張してきた。
逃げるつもりなんてない、けど……
私はまだ、シャロットに母親だと認められていない。
もしかしたら、一生認められないかもしれない。
そう思うと、胸が痛んで──
「本当に……君がそばにいてくれて、良かった」
……。
私もです。
私もなんです、イシドール様。
シャロットがラヴィーナさんを選んだらどうしようって気持ちは……私も同じ。
だから、あなたがいてくれることが、本当にありがたくて……嬉しくて。
ああ、もうだめ。私は本当に、イシドール様が好きなんだなぁって。
自分の気持ちを隠せなくなって、私はそっと、イシドール様の胸に顔をうずめた。
その体は驚いたように固まったけれど、次の瞬間には、やさしく腕をまわしてくれる。
「私も、甘えていいですか……?」
「ああ。もちろんだ」
私はイシドール様の胸にぎゅっと甘えた。
シャロットは、私とラヴィーナさんだったら、きっとラヴィーナさんを選ぶから。
本当の母親なんだもの。シャロットはママが大好きなんだもの。当然の話。
でも……きっと、それでいいんだ。
シャロットが、幸せなら、それで。
そんな私の心を見透かしたように、イシドール様は私を強く抱きしめた。
胸の鼓動が、私の耳に響く。
一定じゃなくて、少し早くて、でもそれがなんだか愛おしい。
ふいに、彼の指先が私の髪に触れた。そっと、耳の後ろをなぞるようにして、それから髪をすくうようにして、首筋にふれて。
息が止まってしまう。
「……俺も、少しだけ」
イシドール様の唇が、私の髪にそっと触れた。
それだけなのに、全身がじわっと熱くなる。
「イシドール様……好きです……離れたく、ありません」
「それは……誘っているのか?」
「ふぇ!? ちがっ」
そういう意味で言ったんじゃないですからっ!
って、顔を上げたら視線がぶつかって……。
「──っ!」
「ッ!!?」
あ、危ない!!
もうほんの少しで、キスしちゃうところだった!!
不意打ち過ぎたのか、イシドール様のお顔が赤くなってるんですけど……!
イシドール様は口元に手を当てて、少し私から視線を外した。
「まったく……いい加減、待てないのだが……」
「す、す、すみません……」
「君が、魅力的すぎる」
そんなこと言ってくれるの、イシドール様くらいですよ?
でも……素直に、嬉しい。
「俺も、レディアを愛している。もしもシャロットがラヴィーナを選んでも……君は、俺と共にいてくてるか?」
ストロベリー侯爵……。
その答えに拒否なんて、するわけがないでしょう?
「もちろんです。どうか、ずっと……イシドール様のお傍にいさせてください……」
「……良かった」
イシドール様は、心底安心した笑みを見せて、私の手を取ると──
私の指に、何度も音を立ててキスを……っ!
「え、ちょ、唇以外ならキスしていいと思ってませんか!?」
「……だめなのか?」
「なんか……い、いやらしいです……っ」
カァァッと音が出そうなほど顔が熱くなる。
どうして平気なんですか、この人は!
「甘えさせてくれるんだろう?」
「……っ!」
ずるい。こんな顔でそんなこと言うなんて、ずるい。
でも、私は深呼吸して──さらに五回くらいして──言った。
「……まだ、シャロットのことで、きちんと答えを出してませんから」
ぴた、とイシドール様の指へのキスが止まる。
ふわりと距離ができたけど、その距離は冷たくない。
「……確かに。君の、そういうところが好きなんだろうな」
「えっ、真面目で面倒くさいところですか?」
「……ああ。実に面倒くさい」
えっっ!!
目を見開くと、イシドール様はふっと笑った。
ああもう……! その顔、反則なんですってば……っ
「でも俺は、そんな君だから、惚れている」
……そんなこと言われたら、怒れませんけど……っ
「私も、イシドール様のそういうとこ、好きです。不器用で、ちょっとヘンテコで、やたらと色気まき散らしてくるところも」
「……君にしか見せていないはずだが」
「ふふ、知ってます。光栄です」
こんなふうに笑い合えるのが、なんだか嬉しかった。
さっきまで泣きそうだったのが嘘みたい。
「きっと私たち、大丈夫ですよ。十年後も、ずっとこんな感じで話してるんだろうなって、私思うんです」
イシドール様が一瞬きょとんとして──次の瞬間、小さく笑った。
「……頼むから、十年後はキスくらいさせてくれ。これでも割と、我慢しているんだ」
「えっ、でも最初は私の気持ちを尊重するって、余裕でしたよね」
「もう割と余裕はない。君のせいだからな」
「ストップ! 待てですよ、イシドール様!」
「俺は犬か?」
イシドール様の言葉に、私たちはぷっと吹き出した。
笑いが収まると、イシドール様は目を細める。
「もう少しだけ、一緒にいてくれるか?」
その声は低く、穏やかで、胸の奥に静かに染み込んでくるようで。
私は、ゆっくりと頷いた。
「……はい。私も、もう少しだけ、こうしていたいです」
私たちの間に、ぬくもりだけが残る。
言葉よりも静かなこの時間が、かけがえのないものに思えた。
誰かに選ばれること。選ばれないこと。
まだ何も決まっていない未来のこと。
けれど今は、こうして寄り添えることが、ただ嬉しくて。
不安や寂しさを抱えていても、それを分け合える誰かがいるだけで、人はこんなにも救われる。
イシドール様の胸に、もう一度そっと額を預ける。
その手が、何も言わずに私の背を撫でた。
あたたかかった。
愛されているんだって、心から感じて。
そして、愛する人が目の前にいることに、私は感謝した。