11.ストロベリー侯爵、焦る。
初夏の午後、やわらかい日差しのなかで。
私は、シャロットの勉強部屋にいた。
「今日の課題は、“書いて伝える”ですよ、シャロット様」
家庭教師のマリーヌ先生がそう言って、シャロットに紙を一枚手渡す。
シャロットは不安そうに眉をひそめた。
「かくって……おてがみ?」
「そう。お手紙は、お話の代わりに、気持ちを伝えられる魔法なのです」
それを聞いて、シャロットの目がきらりと光る。
「まほう……! それなら、やってみる!」
さすが先生、シャロットのやる気の引き出し方をよくわかっていらっしゃる。
シャロットは机に向かって、一生懸命に羽根ペンを握っていた。
私は後ろで刺繍をしながら、その背を見守る。
紙に何度も書いては、ぐしゃぐしゃにして捨て、また書いて。
シャロットのそばには、くるくる丸められた失敗作が小山を作っていた。
そして──ついに。
「……かけた!!」
椅子から立ち上がったシャロットが、高々と紙を掲げる。
隣で見ていたマリーヌ先生が、にっこりと微笑んで頷いた。
「わたしてくる!」
「はい、どうぞ」
先生の許しをもらったシャロット。
イシドール様のところへ渡しに行くのかしら?
……と思いきや、私のところへやってきた。
「見せてくれるの?」
「ううん、これはね、あげるのよ。レディアおねえちゃんに、はじめての、おてがみ」
「え……私に?」
胸の前に大切そうに手紙を、私に差し出してくれる。
小さな手紙。折り目はまっすぐじゃなくて、ところどころインクが滲んでいる。それでも──
レディアが一生懸命書いた、初めての手紙だ。
『れでぃあへ
おねえちゃん、いつもあそんでくれてありがとう。
どこにもいかないでね。
やくそくよ。
だいすき。
しゃろっと』
胸がぎゅっと締めつけられて、声が出なかった。
ただただ、愛おしくて、あたたかくて、こみあげてきて──
「ありがとう、シャロット。こんなに素敵なお手紙、はじめてもらった」
私は椅子から降りると、そのまま小さな体を包み込む。
シャロットも、私をぎゅうって抱きしめてくれる。
「ねぇ、うれしい?」
「もちろん! これ、シャロットにもらった宝箱にいれるわ。私の、二つ目の宝物!」
「ほんとぉ? やったぁ〜!」
喜ぶシャロットを前に、私は涙を我慢する。
──きっと、何年経っても忘れない。
この一通は、世界でいちばん小さくて、あたたかな魔法。
だけど、誰よりも大きな「だいすき」が、つまっている。
そう思えたことが、何よりの宝物だった。
***
街に夏祭りがやってきた日。
私たち三人は、少しおめかしして、賑やかな通りへと出かけていた。
シャロットは新しい薄桃色のワンピースに、白いリボンの帽子をちょこんとのせて、「おまつり、はじめてなの!」とはしゃいでいる。
ふふ、かわいい。
「見てー! あっち、くるくるまわってる!」
「落ち着いて、シャロット。順番に回りましょ」
私は笑って言いながらも、胸の中は同じくらい高鳴った。
実は私も、お祭りなんて初めてなのよね。
それも、シャロットとイシドール様と一緒に来られるだなんて……こんなに幸せなこと、ない。
「祭りは人が多い。はぐれないように、俺のそばを離れるな」
そう言って、イシドール様は私の手をとった。
ほんと、さりげなく手を握りますね?
「……子どもじゃないんですから」
「そうだな。君は俺の愛しい人だ」
耳元でささやかれて、顔がかぁっと熱くなる。
その横で、シャロットがぱちくりとまばたきしていた。
「……レディアおねえちゃん、いま、おかおが、りんご」
「ちがうの、これはその、日差しのせいで……!」
けどシャロットはすぐにニパッと笑って、次の興味のある露店へと走り出した。
どうやら、私の言い訳に興味はなさそう。
「レディアもおいで」
すっと手を引いてくれるイシドール様。
すんごく甘い顔をするものだから、周りの人たちが「あれ、恐怖侯爵じゃない?」と目を丸めていますよ!
注目されてるようで、すごく恥ずかしい……っ
「パパー! レディアおねえちゃーん! これたべよう?」
露店のパン屋で、ハーブパンをひとつずつ買った。
焼きたての香ばしい香りに、シャロットが目をきらきらさせる。
「しゃろっと、あったかいパンだいすき! おいしい〜っ!」
「よかったわね。あら、これチーズとレモンカードが入ってるのね」
「本当だな。これはいける」
お祭りの日だけは、貴族も庶民も関係なく、こうして気兼ねなく外で食べることができる。
ふふ、本当に贅沢な時間。
「レディア」
「はい?」
名前を呼ばれて見上げると、イシドール様はふっと目を細めた。
な、なに? かっこいい。
「ついている」
私の唇に運ばれる、イシドール様の長い指先。
そっと、私の唇に触れて──指を、自分の唇に当てた。
「……イ、イシドール様っ!」
「ごちそうさま」
ちょ、どうして平然としてるんですかっ
し、心臓が持たない。
そんな中でも、シャロットは別の露店を見つけて、はしゃいでいる。
「レディアおねえちゃん、みてー! このおはな、ちいさいけど、においがいいのー!」
「ほんとね。それにかわいい。シャロットにぴったりね」
そんなふうに笑い合いながら、祭りを堪能していた。
そして一瞬、人混みに押された、その直後。
「……あれ、シャロット?」
さっきまで隣にいたはずのシャロットが──いない。
辺りを見回しても、ふわふわした白い帽子も、楽しげな声も、どこにもない。
「……シャロット?」
一瞬、胸の奥がひやりと冷たくなる。
慌てて近くの露店の陰や通り目を向けた。
「シャロット! どこ!?」
祭りの喧騒が、急に遠ざかっていくようだった。
手の中の温もりすら、頼りなく感じる。
どうしよう……どうしよう、どうしよう!!
焦る私の手を、イシドール様がぎゅっと握る。
「……落ち着け。今、俺たちが取り乱しては駄目だ」
イシドール様の声は低く落ち着いていて。
けれどその瞳の奥には、明らかに焦りの色が見える。
当然よ。シャロットは侯爵家の令嬢なんだもの。
もし──もしも誰かが狙っていたら。
お祭りの喧騒に紛れて、悪意が手を伸ばしていたら。
「……いや、そんなの……っ!」
焦りが喉を締めつける。
もしシャロットに何かあったら、私……!
足が、手が、震える。でも今は、震えてる場合じゃない!
「……シャロット! どこなの……!」
イシドール様の手を離して駆け出そうとすると、グイッと引き止められて抱きしめられた。
「……一人で行かせられるわけないだろ。君まで見失ったら、俺は正気でいられない」
低く抑えた声。けれど、その中にある焦りは隠せていなかった。
「ごめん……なさい……っ」
「絶対に俺のそばを離れるな」
手を、改めて握り直して──
私たちは、シャロットを探しに走った。
「シャロットー! どこにいるの!」
「シャル! どこだ!」
二人で名前を呼びながら通りを駆ける。
露店の間、通路の影、人ごみの中──どこにも、シャロットの姿はない。
「……お願い、返事して!」
胸がつぶれそう。
さっきまで、あんなに笑っていたのに。
何かあったら──もし今、どこかで泣いているのだとしたら──
「おねえちゃん……」
その時、背後から、震える声が聞こえた。
振り返ると、そこに──帽子を片手に、しょんぼりした顔のシャロットが立っていた。
「シャロット……!」
すぐに駆け寄って、ぎゅっと抱きしめる。
「よかった……よかった……!」
イシドール様も安堵の息を吐き、額に手を当てるようにしてしゃがみ込んだ。
「……ほんとに、無事でよ……かった」
その声は、かすかに震えている。
怖かった、本当に……イシドール様も、私も。そしてきっと、シャロットも。
「シャロット……どこに行ってたの?」
「えっと……においがしたから、パンやさんのほう……。でも、もどってきたの。ひとりで、だいじょぶだったよ」
「そう……もう、心配したんだから。絶対に一人で行かないで」
私はそう言いながら、ぎゅっと抱きしめる。
こくんと頷くシャロット。
少しの間とはいえ、シャロットも私たちを探して……つらかったに違いない。
「気を取り直して、祭りを楽しむか」
「そうですね。シャロットは、私と手を繋ぎましょ」
「……うん」
安心感で気持ちが軽くなった私は、左手にシャロット、右手はイシドール様と手をつないだ。
アクセサリー屋さんでは、イシドール様がシャロットに髪飾りを買ってあげている。
きっとそれも、シャロットの宝物になるわね。
でも、ふと気づく。シャロットの手が──冷たいまま、戻らない。
「……シャロット、どうしたの?」
「え? な、なんでもないよ。シャル、べつに、へいき」
ふにゃっと笑うその顔。
なんだろう……なんとも言えない、この違和感。
それでも、なぜか言葉にできないまま、私はそっと手を握り返すだけだった。