第二話 オモイの作戦
天岩屋戸。
それは高天原の集落にほど近い岩山の洞穴を整えて作られた修行場であり、歴代の日巫女が祈祷の練度を高めるために籠もる場所である。その重い扉には内側から鍵がかかるようになっており、外側からは食料を渡すための小さな小窓くらいしか開け閉めできない。
オモイは岩屋戸の前で深く溜め息を吐く。
「昔の君は……この場所をあんなに嫌がってたのに」
幼い頃のアマテルは、それはもうこの岩屋戸に入ることを嫌がりまくっていた。
そのため先代の日巫女が集めていた人面付の壺をうっかり叩き割ったり、先代の日巫女が大切にしていた珍しい黒曜石偶の濃いイケメン顔を削ってノッペリさせたり、先代の日巫女が部屋に飾っていた琉球産のガラス細工にウンコの絵を刻んだりして、無駄な抵抗を繰り返していたものだ。
しかし……今の彼女は自らすすんでここに籠もると、他者との接触の一切を絶ってしまった。オモイは胸が締め付けられるような気持ちで、静かに決意する。
「……僕が君を、この岩屋戸から出すよ。絶対に」
■ □ ■ □ ■
それは偶然か、はたまた必然か。
日巫女が天岩屋戸に籠もるようになると、途端に大和国には災いが降りかかるようになった。
西にある集落では高床式倉庫で火災が発生し、貴重な穀物類の大部分が焼けてしまった。一方、東にある小さな集落では誤って毒キノコを食べ、働き盛りの男が一気に何十人も亡くなった。かと思えば、今度は南の集落が突如隣国に攻め込まれて大勢の女を連れ去られる。極めつけは北にあるいくつかの集落で、急に疫病が流行り、老若男女が長く苦しむことになったのだ。
当初、各方面からは日巫女を責める声が上がった。
「日巫女様は何をしておられるのだ!」
「尊いお役目を放棄するというのか!」
「早く次代の日巫女を任命させよ!」
日巫女を引き留められなかったオモイは謹慎を命じられ、しばらく高殿へ近づくことすら許されなくなった。
そのため彼は、ひたすらアマテルに食料を届けたり、身体を拭うための清潔な布や水を差し入れたり、絹の下着やカラムシの貫頭衣を持ってきては汚れたものと取り替えたりと……扉越しにではあるが、甲斐甲斐しく彼女の世話を焼いて過ごしていた。
「そろそろ肌寒い季節になってきたろう? 工房でイノシシの毛皮を加工してもらったんだ。これで少しは温まってくれ」
この頃は空模様もどんよりと濁っている。
長雨が続き、各地で河川の氾濫が起きるようになると……だんだんと、人々の口に上る言葉は変化していった。
「日巫女様、我々を見捨てないで下さい!」
「無礼をお許し下さい、どうかお助けを!」
怒りが焦りに変わると、叱責は懇願に変わる。
オモイは大勢の大人たちから「日巫女様と話をさせてくれ」と頼まれるが、ただ微笑みを浮かべて首を横に振っていた。そもそも彼自身、自らが仕える日巫女の――アマテルの顔を見ることさえ出来ていないのだ。
そんなある日のことだった。
いつものように岩屋戸に向かおうと宮室を出たオモイの前に、一人の男が現れる。
「オモイ兄ちゃん……」
そう言ってしおらしく項垂れるのは、アマテルが天岩屋戸に引きこもる原因となった男。
須佐之男衆の頭領をしているタケハヤは、いつもの猛々しさなど見る影もなく、力なく地面に両膝をついていた。
長い髪は左右で角髪に結われているものの、どこかボサボサな印象が拭えない。肌も荒れ、爪も髭も伸び放題で、その顔はすっかり憔悴しきっているように見える。
「おやおや。誰かと思えば、あの泣き虫で有名なタケハヤ殿じゃないか。好き勝手に暴れ、神殿で脱糞し、実姉の顔に泥を塗る行為はさぞ楽しかっただろうね……それで、一体どの面下げて僕の前に現れた?」
普段のタケハヤであれば、そんな言い方をされれば怒って殴りかかって来ただろう。
しかし今の彼からは、そんな獰猛な気性は微塵も感じられない。むしろオモイの言葉が胸の奥深くに突き刺さったようで、目に涙すら浮かべている。
タケハヤは地面に両手を付き、額を擦り付ける。
「オモイ兄ちゃん……俺を殺してくれ」
「は?」
その言葉に、オモイの声は鋭くなる。
「俺は……生きていちゃダメな人間なんだ。心が騒つくのを、暴れることでしか収められない。真面目にやろうと思っても全て裏目に出て、それでまた荒れて、滅茶苦茶なコトをやって……何度も姉ちゃんに迷惑をかけて……俺はここにいるだけで、みんなに迷惑をかけちまう」
タケハヤは身体を起こし、腰の鉄剣を鞘ごと手に取ると、柄をオモイ方向に向けて静かに地面に置いた。そのまま、しばし沈黙の時間が流れる。
はぁ、と苛ついたように息を吐きながら、オモイはその鉄剣を拾い上げる。そしてそれを、自らの腰巻きに挿し込んで腕組みをした。当然、タケハヤを殺すつもりはない。
「本当に自分勝手な男だ」
「……オモイ兄ちゃん」
「お前は、自分のことしか考えられないのか? アマテルはいつも、何を思ってお前を庇っていたと思う。彼女がお前に向けていたモノが、ただの同情や義務感だけだと本気で思っているのか?」
オモイはタケハヤの貫頭衣の胸ぐらを掴み上げる。
そして、普段の彼とは全く違う鋭い目をした。
「僕がお前を殺して、それであの陽だまりのように優しい彼女が、何を喜ぶと思ってんだ。この馬鹿」
ゴチンと思いっきり頭突きをする。
しかしタケハヤはポカーンとするばかりで、ぶちかました方のオモイが額の痛みに悶絶し始めた。慣れないことをするからである。
「オ、オモイ兄ちゃん、大丈夫かい?」
「くっ……あーもう、図体ばっかりデカくなりやがって……だけどまぁ丁度いい。僕を手伝え、タケハヤ」
オモイは目の端の涙を拭いながら告げる。
「お前はちゃんと反省したんだってことを、アマテルに示したいんだろう。それで、色んなことをやり直したいと思っているはずだ。それなら、僕の作戦に協力しろ」
その言葉に、タケハヤは口をパクパクと魚のように動かしてから、コクンと小さく頷いた。
■ □ ■ □ ■
天岩屋戸にほど近い天安河。
その河原には大勢の男女が集まっていた。
彼らは全て、オモイの声掛けに応じた者たちである。
仕事柄、アマテルと接する機会の多い者は、彼女の性格を熟知している。ガラにもなく閉じこもってしまった彼女を心配する声も多いのだ。そんな者たちにオモイが協力を依頼すれば、皆二つ返事で応えてくれた。
天岩屋戸に着替えを届け終えたオモイが、その足で皆の集まる河原へとやってきた。
「やあ皆、少し待たせてしまったかな」
オモイがそう問いかけると、真っ先に顔を上げたのは踊り子のウズメであった。
彼女はまだ年若いが、祭祀の中で祈りの舞を奉納する仕事をしているので、アマテルとの関係も深い。彼女らは仕事を通じてあっという間に仲良くなり、これまで年の離れた友人のように気安い関係で過ごしてきたのである。
「アタシらは大丈夫ですけど……日巫女様は?」
「あぁ……相変わらず、塞ぎ込んだままだ」
「そっかぁ……」
その言葉に、場の空気が重苦しくなる。
しかし、その空気をガラリと変えたのもまたオモイの一言であった。
「アマテルを救う作戦がある。皆に協力してほしい」
そうして彼は語り始める。
今回の作戦の大まかな全体像と、どのようにしてアマテルを岩屋戸の外に出すのか。彼女の性格も踏まえた上で、どんな物をどんな風に使えば最も効果的に彼女を救うことができるのか。
あまりに突拍子もない作戦なので、皆はポカンと口を開き、一様に困惑の表情を浮かべていた。
「――というわけで、皆にはまず“楽器”になるものを集めて欲しいんだ」
オモイはそう告げるが、皆はまだ互いの顔を見わせて固まっている。
「楽器と言っても、土笛や琴のようなしっかりしたモノでなくて良い。むしろ叩くと色々な音が出るだけのガラクタを、出来るだけ種類多く集めてほしいんだ。木片や金属片、土器でもなんでいい」
「そんなの集めて、役に立つんですか?」
ウズメが入れた合いの手に、オモイはニヤリと口の端を持ち上げて堂々と言い放った。
「我らが日の巫女様に、朝を告げる長鳴鶏だ。出来るだけ騒々しく、雑多で、統制なんて取りようのない混沌の方が彼女らしいだろう?」
そう説明すれば、皆は異口同音に「なるほど」「そりゃそうだ」「日巫女様だもんな」と納得の声を上げる。彼女本人にしたら酷く失礼な話だろうが、引きこもっていてこの場にいないのが悪いのである。欠席者に発言権などない。
ようやく皆も作戦に対して前向きになったようで、楽器集めについても「簡易的な銅鐸を作るか」「竹を使うのはどうか」「大壺に皮を張って叩くか」などと活発な議論が交わされている。
次いでオモイは、今回の作戦に最重要な二つの道具を用意してほしいと告げる。
「全身を映せるほどの大きな鏡、八咫鏡とでも呼ぼうか。これの作成は……リドメ。君にお願いできるかい?」
「あいよ、鏡作りなら私に任せな。ちょうど工房に良い腕の鍛冶師がいるのさ」
リドメの心強い言葉に、オモイは深く頷く。
「よし、頼んだ。次に八尺瓊勾玉だけど、これを作れそうな者はいるかな」
「ここは儂の出番じゃな。とにかくたくさんの勾玉を作らせて、豪華な飾りを作りゃいいんじゃろ?」
「なんと……タマオヤさんに動いてもらえるなら期待できます。だいぶ手間をお掛けしますが」
タマオヤは「良い良い」と手を上げて口の端を持ち上げながら、目を爛々と輝かている。
オモイは、これなら思い描いた作戦を実施できそうだと、ホッと胸を撫で下ろした。
「あとはそうだな……コヤネとフトダマはこういった催し物を企画するのが得意だろう? 色々と知恵を拝借できないだろうか」
そう言うと、盛り上げ好きの血が騒ぐのか、お調子者二人は揃ってずずいと前に出ると、ドンと胸を張る。
「おうよ。司会進行はこの俺、コヤネにお任せあれ」
「他の小道具はこの俺、フトダマにお任せあれ」
うやうやしく礼をしてから、二人は互いに拳をぶつけ合ってニヤニヤと作戦会議を始めた。
たぶん……たぶん、大丈夫だろう。こういうのは得意な奴に任せるのが一番良いのだと、オモイは自分に言い聞かせる。あまり深く考えてはいけない。
「あと……タジカラくんには一つ力仕事を頼みたい」
「うっす」
「そんなところかなぁ……皆からは何かあるかい?」
オモイがそう言って皆を見れば、ピンと元気よく立った腕が一本。
彼女……踊り子のウズメは、ダンッと地面を踏んで大岩の上に立つと、もう我慢できないといった様子で小躍りをしながら叫び声を上げた。
「オモイさん! アタシも日巫女様のために何かやりたいです! お仕事下さい! 何かないですか?」
そのあまりの勢いに、オモイは思わず乾いた笑いを漏らしながら……よし、と心を決める。それじゃあ、彼女には全力で協力してもらおうか。
「そこまで言うのなら、ウズメ。君にはこの作戦の肝である、最も重要な役割をお願いするよ」
「おぉ、何ですか? 何でもやりますよ?」
「言ったな? とびきりの舞台を用意してやる」
こうして、大和国が始まって以来の……いや、倭の島々のどの国も、いまだかつて経験したことのない賑やかで混沌とした「お祭り」作戦が始動したのであった。