第一話 天岩屋戸
本作は全ジャンル踏破「文芸_歴史」の作品です。
詳しくはエッセイ「なろう全ジャンルを“傑作”で踏破してみる」をご覧ください。
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――大陸に生まれた強国「魏」からの使者が、どうやら邪馬台国の卑弥呼のもとへ挨拶に来るらしい。
そんな噂が流れたのは少し前のことだった。
大陸のあの辺りの地域で発生する国が、周辺他国を呼称する際に「邪」「卑」などとあまり良くない文字を使うのはいつものことである。だから当然、邪馬台国は大和国を指しているのだろうし、卑弥呼は日巫女を指しているのだろう。
誰もがそう信じて疑っていなかった。
だから、そこに付け込まれたのだ。
「倭の島々に、邪馬台国が乱立しております」
突然の報告に、大和国で日巫女の側近を務めている壮年の男、オモイは頭を抱えた。秋の収穫も悪くない結果で、祖賦も滞りなく徴収し終え、大仕事を終えたと油断していた時のことである。
国の中核を担う大規模集落、高天原。
河川から水を引いて幾重にも張り巡らされた環濠に囲まれ、神殿や宝庫のすぐ側に建てられた高殿では、日々多くの大人が国の政について話し合っているのだが。
そこに諜報組織である月読み衆から「邪馬台国がいっぱいあります」という信じがたい報告が飛び込み、その場の全員がまるで石斧を叩きつけられたような顔で「マジで?」「どうすんのこれ」と困惑していた。
「邪馬台国を自称する国々は……おそらく面と向かって責められ辛くするためでしょうが……少しずつ呼称を変えて事態をややこしくしております」
「……というと?」
「はい。邪馬女国、邪馬壱国、邪馬邪馬国、投馬台国、博多台国、真・邪馬台国、邪馬台国Ⅱ、神聖邪馬台国、邪馬台民主主義人民共和国……どの国も、昔からこんな国名でしたよという顔をして、しれっと滅茶苦茶な地名を名乗っておるのです」
そんな戯言に騙される奴がいるものか!
とオモイは考えていたのだが、現地の下戸や奴婢などは「ふーん、うちの国ってそんな名前だったんだぁ」と呑気にキビ餅を食っているらしい。
きっと魏の使者が道に迷おうものなら、彼らは心底からの親切で「あ、邪馬壱国なら南っすよ?」などと誤った案内をしてしまうだろう。
「各地の王も国名に合わせて、俺こそが卑弥呼だ、いや火御子である、秘美狐でございます、などと名乗り――」
あまりの混沌っぷりに脳が茹で上がりそうだ。
オモイは一旦思考を止めて心を無にした。どうせ茹でるのなら好物のイイダコにして欲しい。だめだ、ちょっと落ち着こう。
邪馬台国の卑弥呼を騙る奴らの目的は明白である。大陸の強国――魏と交易することで富を蓄え、同時に大きな後ろ盾を得ることで、周辺国との力関係を有利なものにしたいのだろう。もちろんこれは、大和にとっても看過できない大事である。
皆が言葉を失う中、一人の老人……前国王のナギが口を開く。
「我が息子タケハヤに命じて、倭の各地に乱立する偽の邪馬台国を制圧させてはどうだ」
引退しても、ナギ前王の権力は健在。
しかし、流石にその意見には誰も同調しなかった。
タケハヤ率いる須佐之男衆……そう呼ばれる戦士たちは、大和の国防を担う戦闘集団である。彼らは渡来人の血が濃いため大柄な者が多く、また男児は幼い頃から全身に猛々しい入れ墨をして強烈な威圧感を放つ。そして、その鍛え上げた肉体や研鑽した技を以って、他国との戦争で比類なき強さを発揮するのだ。
そんな彼らは日々「筋肉こそが筋肉だ」などとよく分からないことを言いながら、下戸の暮らす竪穴住居を建てたり、集落を守る逆茂木を修理したりと、力仕事の面で大活躍している。何かと頼りになる男たちなのである。
しかし、そんな須佐之男衆を任されているタケハヤという男は、前王の息子ながら、悪い噂ばかりが囁かれていた。
ナギ前王の妻が火傷が原因で亡くなった後、母を想って泣き暮らすタケハヤに、当初は多くの同情が寄せられていた。
前王が「私は引退する。長女には女王の地位を与えて国を任せよう。長男には月読み衆を、次男には須佐之男衆を任せる」と言った時にも、反対する者はいなかった。タケハヤに何か役割をやれば、少しは気が晴れるんじゃないかと皆が思ったものだ。
だが須佐之男衆を任されたタケハヤは、自分の悲しみをぶつけるように好き勝手に戦に出かけるようになった。しかも作戦など何も考えずに突っ込むばかりで、有能な人材をみすみす死なせ、国庫をいたずらに食い潰している。
今やタケハヤは、同情されるどころか、国中の鼻つまみ者になっているのだ。
皆の微妙な表情を読み取ったナギ前王は「ふむ」と不満げに吐息を漏らす。
「オモイよ。この件は我々だけで話し合っていて決まるものではなさそうだ。我が娘に――日巫女に占わせよ。それが大和の大方針となる」
「……御意」
うやうやしく頭を下げたオモイは……高殿を辞して、周囲に人影がなくなったところで、ようやく深い溜め息を吐いた。
黴の生えた老人が、いつまでも偉そうに。
表立って口には出来ないが、大和の王という重責を娘に押し付けたのなら、前王は無責任な口出しはせずに権力の座からとっとと退くべきなのだ。オモイはそんな風に考えていた。
政治権力の最高位である女王。
信仰を一身に集める日巫女。
本来ならその二つを手にした「大和国の女王・日巫女」は、誰もが羨むような輝かしい生活を送って然るべきなのだが……現実は、民衆が想像する姿からはあまりにも遠い。
我が物顔で居座る前王のせいで、彼女の役割は「合議では難しい判断を占いで決めること」と「長老衆の判断ミスの責任を負わされること」程度になっている。高殿への立ち入りすら「日巫女としての祈祷の妨げになるから」と禁じられているくらいだ。
日巫女とは、本来もっと尊い存在のはずである。世界の中で、日の昇る場所に最も近い倭の島々。その中で最大勢力である大和国の、未来を担う最上位の巫女なのだ。
特に彼女は、生まれた時から日巫女になることが運命づけられており、与えられた真名は――
倭の国を天から照らす、天照。
オモイとしては歯がゆい思いだった。幼友達としての贔屓目もあるだろうが、彼女は本当に太陽の化身のように眩しく笑う。本来、そんな彼女こそがこの大和で最も尊く、この国の舵を取るべき存在なのに……彼は、どうしてもそう考えてしまうのである。
■ □ ■ □ ■
日巫女の暮らす奥の宮室に立ち入る者は少ない。
その中でも、男として立ち入りを許されているのは側近であるオモイただ一人であり、周囲にいるのは数少ない専属の侍女だけである。
「アマテル、今帰ったよ」
オモイがそう告げると。
「はーい。オモイ? おかえりなさい」
その外界から閉ざされた居室には、陽だまりのように暖かく笑う四十半ばの女性――この大和の名目上の最高権力者である日巫女アマテルがいた。
着ている貫頭衣は普段使いしているものだが、カラムシの繊維を茜染めで鮮やかな緋色にした糸が織り込まれており、下戸の女などは一生着る機会がない代物だろう。犬歯や勾玉を使った首飾りも、高価なものなのに、厭らしくなく似合っているのはさすが高貴な生まれなだけある。
そんな彼女は、左右の手に木偶という人型の玩具を持って何やら遊んでいるようであった。
「木偶? それは一体どうしたんだい」
「うん。暇だったから寸劇をやってたのよ」
そう言って、アマテルは男女の木偶をピョコピョコと動かしながら、
『妻よ。今日は市で貝の腕輪を買ってきたぞ』
『まぁ素敵、夕飯は貴方の好きなコメとアワを炊きますね』
『なんだって、それなら鯛でも買ってくるんだった』
『そうしたら貝の腕輪が買えないでしょう?』
そんな謎のユルユル会話劇を繰り広げていた。
オモイは強張っていた頬をフッと緩める。
――なるほど、これが尊いという感情か。やはりこの大和国は彼女にこそ任せるべきであろう。
幼友達としての贔屓目にまみれたオモイの感想について、今この場でツッコミを入れられるような人物など一人もいなかった。おそらく今後もいないだろう。
アマテルが日巫女の役目と女王の地位を継いで、もうかなりの年月が経つ。その間、彼女は側近であるオモイと寝食を共にしながら、これまでに五人ほどの男児をポコポコと生んでいた。もちろん、男との接触は他にないので、誰の仕業なのかは明白である……が、そこは公然の秘密という形でみんなが知らないフリをしていた。
というのも、日巫女は表向きは「一生独身です」と宣言する必要があるのだ。五人の子どもたちは「いつの間にか生まれていたなぁ、不思議だなぁ」とぼんやりした扱いの不思議チルドレンとして、しれっと乳母を充てがわれ育てられているのである。
「そういえば今日、長男がね――」
そんな風に子どもの話をするアマテルの様子は、下戸の母親と何も変わらない。オモイはなんだか胸の奥がジンと暖かくなると同時に、これから彼女に話さないといけない「邪馬台国がいっぱい」の件を思うと、少々胃が痛くなっていたのであった。
木製の高坏に並べられた料理の数々を手づかみで食べながら、オモイは少しずつ彼女に説明をする。
「――そんなわけで、ナギ前王はタケハヤに他国を攻めさせてはどうかと言っている。しかし長老衆の誰もそれに賛同していなかった。僕としては……アマテル。君が舵取りをするべき案件だと思っているが。どうだろう」
オモイの言葉に、アマテルはうーんと首を傾げる。
「とりあえず、“卑弥呼”って字面が嫌だなぁ」
「……その話題はだいぶ前に通り過ぎたのでは?」
「あはは、ごめんごめん。真面目に考えまーす」
彼女は好物である桃を頬張って口をモゴモゴさせながら、視線をあっちこっちに動かして、ああでもないこうでもないと思案しているようである。
オモイはそういった仕草の一つ一つに「ふむ、日巫女という存在はやはり尊いな」と胸を高鳴らせていた。
「むぅ。やっぱり……魏との国交は重要なんだよね」
「そうだな。大和の今後を左右する案件だろう」
「だよねぇ……大和と魏の間にはかなりの距離があるし、魏自体も覇権国家とまでは言えない存在だけれど……それでも、魏との国交があるのとないのとでは、周辺国との力関係に大きな違いが出てくるんだよねぇ。分かってるけど、面倒だなぁ」
アマテルはふぅと憂鬱そうにボヤく。
確かに現在の大陸は、魏・呉・蜀の三国が争う厳しい時代に突入している。この先、仮に大和が困った事態に陥ったとしても、自国のことで手一杯の魏が遠路はるばる大和を助けに来てくれるようには到底思えなかった。実利という面では、そこまで魅力的ではないのだ。
ただ、それでも「大国に認められた」と箔を付けることは、何かと影響の大きいものなのである。
例えば……その昔、漢から金印を賜った奴国は、その一点だけを根拠に今日に至るまでずーっとずーっとデカい顔をしてふんぞり返っている。
それを思えば「大陸の強国と正式な国交がある」という事実は、倭の島々を治める上でかなり強力な武器となるのは間違いない。
「私だって、交易自体は好きなんだよ。オモイが北方から取り寄せてくれた琥珀の首飾りなんて私のタカラモノだし、琉球産の手の込んだ骨符細工なんて眺めてるだけで楽しいもん。だから、魏との交易自体は良いことだと思うんだ」
「うむ。大和全体として得るものも多いだろう」
「そうなんだよねぇ。はぁ。でも大変だなぁ……だって、タケノコみたいにニョキニョキ生えてくる邪馬台国をズバズバッとくぐり抜けて、魏の使者を大和まで連れて来なきゃいけないんでしょ」
アマテルが身振り手振りを大きくしてその困難さを語る一方、オモイはそんな彼女の仕草にひたすらホッコリしていた。
「魏のことよりもさぁ……問題はあの子だよねぇ」
「あの子?」
「タケハヤのこと。姉としては心配にもなるよ」
そう言って、アマテルは悩ましげに天井を見る。
身内だからという理由もあるのだろうが、彼女は弟であるタケハヤにかなり甘い。この高天原でタケハヤが問題を起こすたびに、火消しをして回るのが他でもないアマテルなのだ。
タケハヤが農作物を荒らし回ってると聞けば、アマテルは「本人は害虫駆除のつもりだったんです、ごめんなさい」と頭を下げに行き。
タケハヤが水田をめちゃくちゃに破壊していると聞けば、アマテルは「本人は畑を作ろうとしていたみたいなんです、ごめんなさい」と弁明し。
そうやってタケハヤに甘い態度を取っていること自体が、アマテルへの批判にも繋がってしまっているのだから、オモイとしては地団駄を踏みたくなる。
かといって、彼女に面と向かって「タケハヤにもう少し厳しくしろ」と言うのも、それはそれで難しいと思っていた。
そうして何もしなかったことが、あんな事態を引き起こしてしまうとは思いもよらずに。
■ □ ■ □ ■
考えるべきことはたくさんあった。
遠路はるばるやってくる魏の使者のこと、ニョキニョキと乱立する邪馬台国のこと、各地で量産される卑弥呼のこと、そして弟であるタケハヤのこと。
アマテルは様々なことに心を痛めながら、国の行く末を占い、国主として様々な判断を行っていく。もちろん巫女として、季節ごとの祭祀を執り行うのも彼女の仕事である。毎日忙しいことこの上ない。
最近では、ナギ前王が独断で行なった施策が失敗した時でさえ、皆から責められるのは女王アマテルの役になっていた。
どうやら前王に面と向かって非難を浴びせたくなかったようで、「どうして失敗する未来を占って軌道修正しなかったのか」などと彼女を責めるのである。それは無茶だろうと誰もが思いながら、誰も指摘できないまま時は流れていく。
そんな毎日を過ごし、太陽のように輝いていた彼女の表情が少しずつ陰り始めていた頃……突如としてその知らせはやってきた。
とある早朝のことである。
「オモイ殿! 大変です、とんでもないことが」
伝令の者たちが高天原の集落を駆け回る中、一人の女官がオモイとアマテルが過ごす宮室に知らせを持ってきた。
なんだか嫌な予感がする。
オモイは額に妙な脂汗を浮かべながらも、内容を聞かずにいるわけにはいかないため、女官に話を続けるよう促した。
「ハッ。実は昨晩、タケハヤ殿が須佐之男衆を集めて酒盛りをしていたのですが」
その前フリの時点で、オモイは叫びそうになった。
が、そこはグッと堪えて拳を握る。
「そうか。タケハヤ殿と須佐之男衆は何を?」
「ハッ。奴らめ、神殿の中を、その……糞尿まみれにする大騒動を起こしまして」
その報告を理解したくなくて、オモイは上を向くと天井のシミを数え始めた。あぁ、アイツついにやらかしたかぁ。
そうしている間も、女官は話を続ける。
「――掃除をしようにも、もう臭くて臭くて敵いません。今は貴重な祭具だけをとにかく退避させ、奴婢を集めて大掃除をさせようと計画しておりますが……最悪、神殿を焼いて建て直すことも視野に入れねばなりません」
なんてことだ。
オモイは頭を抱えて蹲りそうになった。ただでさえ忙しいアマテルに、これ以上の心労はかけたくないというのに……ここまで騒動が大きくなってしまえば、彼女の耳に入るのも時間の問題であろう。
ガタン。その時、背後から物音がした。
振り返れば、すっかり顔を青ざめさせたアマテルが膝から崩れ落ち、壁に手を当てて苦しそうに呼吸を荒げているではないか。
「アマテル!」
「私のせいだ……私が、私が弟との接し方を間違えたから……私のせいであの子は……タケハヤは……」
オロロロロロロロロロロ。
彼女の口から溢れ出た吐瀉物が床をビチャビチャと汚し、胃液の酸っぱい臭いがツンとあたりに漂う。オモイが慌てて彼女の背を擦る一方、近くにいた侍女は急いで掃除用具を取りに向かった。
「良いんだ。君のせいじゃない、アマテル」
「オモイ……私って本当にダメね。倭の島々を天から照らすどころか、弟一人ちゃんと導けない。大和国を背負う日巫女だなんて……そんな大層な役、私には務まらないわ」
そう言って、アマテルは幽鬼のように立ち上がると、オモイの手を振り払い、覚束ない足取りで歩き始めた。
「アマテル、どこに行くんだ」
「……岩窟に」
そう答える彼女に、いつもの快活さはない。
「岩屋戸に、少し籠もります」
暗く濁った瞳。
それはまるで、これまで当たり前のように世界を照らしていた太陽が隠れてしまったようだと……オモイはそんな風に感じて、体が動かせなくなり、去っていく彼女を引き止めることができなかった。