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トキの事情

 早朝。誰もいない教室。

 窓の外からは朝練に勤しむ運動部の声がする。朝とはいえ段々と気温は上がってきている。そんな中でもこれだけ必死に打ち込めるものがあるなんて幸せだな、と他人事のように思う。

 しかし、ハッとしてすぐに思い直す。


 俺にもあるか。


 俺は母譲りの色素の薄い栗色の髪を軽く払った。

 側から見れば俺は今、澄ました顔で読書をしているように見えるだろう。それでいいと思った。俺の中身なんて、誰も、ましてやあの人にも知られてはいけない。


 知られる気もないけど。


 完全に運が俺に味方したと思った。

 まぁ、その『運』は所詮人工物で、本物ではない。俺とあの人の間には運命なんて存在しないのだと思い知らされる。

 でも、俺は運命なんてくだらないものに興味はない。

 俺の欲しいものは俺が自分で手に入れる。

 そのための第一歩をようやく踏み出せたのだ。気分が高揚してくるのを我慢するのも大変なんだな、と思ってもいない愚痴を思い浮かべる。

 俺は考えごとをするふりをして昨日のことを思い返した。




「俺、のせいだよな……」


 付き添ってもらった保健室で、痛がるふりをする俺の腕を凝視しながら、神妙な顔で千秋先輩は言った。その顔を見た瞬間全身鳥肌が立ち、破顔しそうになるのを必死に堪えた。


「あの、病院行くならお金とか……」


 言いかけて押し黙ってしまう。学生の月のお小遣いなんてたかが知れている。もし仮に俺の怪我が重大だと払いきれないと思ったのだろう。

 困り、泣きそうな顔に背筋がぞわぞわする。

 この瞬間が永遠なら良いのにと思ってしまう。


「大丈夫です、そんなに大した怪我じゃ……いたた」


 でもこの瞬間を永遠にしてしまったら、先輩を手に入れることが叶わなくなってしまう。それでは本末転倒だ。


「少し不便な生活になるかもしれないですけど、勝手に俺がしたことなので」


 直訳すると、不便な生活になるので身の回りの世話を手伝ってください、だ。

 だけど、察しが悪いのか、先輩から思ったような進言は出てこなかった。


「でも……俺のことを庇ったせいだし……」


 千秋先輩は絶対に俺と目を合わせようとしない。


 俺の顔を見ると何か思い出す?


 分かっていても聞きたくなる。そして歪む表情を見て、この人は今、俺との思い出を反芻しているのだと実感したい。

 でもやめておく。これでも子どもの頃の出来事は性急すぎたと反省しているのだ。勢い余ってキスまでしてしまったのは自分でも予想外だった。


「何か俺に出来ることとかあるか……?」


 本当に千秋先輩は子どもの頃から真っ直ぐで愚かだなぁと寧ろ感心すらする。


「本当に大丈夫で──あ、」


 俺はわざと今思い付いたような顔をする。


「もし、本当にもし良かったら、なんですけど、購買にパンを買いに行って欲しくて……」

「……パン?」


 どんな願いを想像していたのか、急激に先輩の警戒心が解けるのを感じた。


「はい。俺いつもお昼ご飯は購買のパンを食べているんです。ただいつも買う時に結構人が集まるので、この腕だと少しだけ危ないかなと思って」

「あー、確かに、ウチの購買は戦争みたいだって聞いたことあるな……」

「そうなんです。違うもの食べろよって言われちゃったらそれまでなんですけど……」


 千秋先輩は悩むような顔で眉間に皺を寄せた。我ながら良いラインの注文を考えたと思っていたが、少し苦しかっただろうか。

 勿論、購買でパンを買ったことなんて一度もなくて、そもそも腕の怪我すら嘘なのだから、俺が本当に困っていることなんて一つもない。


「………………分かった」

「え、本当ですか?」

「それぐらいなら、多分……大丈夫だと思う」


 多分大丈夫。ギリギリ譲歩された感じではあるが今はまぁいいだろう。


「ありがとうございます! あ、俺、(あかね)トキっていいます」

「トキ……?」


 不意打ちで名前を呼ばれて息が詰まる。

 好きな人に名前を呼んでもらえるなんて、何回も夢に見た光景だ。例え、その後に続く言葉が想像通りでも、嬉しいことに変わりはない。


「なんていうか……」

「変わった名前ですよね。うちの母親のセンスなんですけど……」


 言われる前に自ら畳み掛ける。


「茜……って呼んだ方が良いのか……?」

「…………え?」

「いや、名前……呼ばないのは流石に不便だし」

「あぁ、なるほど」

「茜って呼ばれると嫌とかは……?」

「嫌……?」


 先輩が何が言いたいのか分からず、首を傾げてしまう。


「ほら、女の子の名前みたいで、その……俺も千秋って名前で散々揶揄われたから……」


 千秋は男女問わず使われている名前だと思うが、それを揶揄ってくれた馬鹿がいたお陰で俺の名前呼びが成立しそうだ。


「特にそういう事はないんですが……でも、そうですね、どっちかって言うと名前で呼んでもらえたら嬉しいです」

「…………分かった」


 先輩は未だに複雑そうな表情のまま了承してくれた。顔に出てしまうほど心の中がぐちゃぐちゃになっているのに、俺を気遣ってくれるその言葉が愛おしくて仕方がない。


「あ、もうそろそろ帰りましょうか?」


 時計を見ると18時を回っていた。このままこの空間で喋り続けたら自分が何をしでかすか分からないため、早めに切り上げることにした。


「あ、あぁ、そうだな」

「じゃあ、明日からよろしくお願いします」


 俺はなるべく警戒されないよう、先輩から目線を逸らしてそう言った。



 先輩が進学した高校を調べて、周囲の反対を押し切って入学した。どうやって近づこうかと、考えている内に夏になってしまった。

 考えれば考えるほど、先輩に拒絶される未来が思い浮かんで、声を掛けることが出来なかった。

 だから保健室で出会えたのは本当に偶然だった。咄嗟に先輩のことを知らないふりをして見せたが、先輩のことはもう既に基本的な事ならなんでも知っていた。

「やっと見つけた」

 つい口をついて出た言葉だったが、妙にしっくりときた。今初めて先輩に会ったような高揚感が胸いっぱいに広がって、堪えられなかった。

 それと同時に、急に不安になる。

 自分はこんなにも臆病で不安定な人間なのだと初めて知った。そのくせ、先輩を前にするとタガが外れてしまう。

 昔からそうだった。

 先輩を欲しいと思った次の瞬間には噛み付いていた。これでもう、この人は自分のものだと思うと、反省はすれど後悔は全くなかった。



 カタン、と小さく教室の後ろのドアが鳴った。ゆっくりと視線を向けると、見知った顔の男が一人、こちらを遠巻きに見ていた。


「やっと来たか」

「トキくん…………」

巳波(みなみ)、お前、自分のしたこと分かってる?」

「だって」

「だって……?」


 普段出さないような低い声で凄むと、巳波は首をすくめた。元々小柄だというのに、更にコンパクトになり、ただひたすら俺の視線から逃れたいように感じた。


「トキくん、怪我は……?」

「俺はしてない」

「良かった!」

「良くない」


 安堵する巳波の顔を見て苛立ちが増す。万が一、先輩が怪我をしていたら、俺はこんなに冷静に話が出来なくなっていただろう。


「だって、あいつ、トキくんに近づこうとしたじゃん……! そんなの許せないよ! トキくんはオレのなのに」

「お前のじゃない」


 自分が言えた話じゃないが、巳波の認知の歪みは凄まじい。一応、幼馴染という関係で付き合い続けてきたが、先輩に手を出そうとするなら話は別だ。今すぐにでも縁を切ってやりたい。

 だけど、こいつにもまだ利用価値があるかもしれないと考えている自分もいる。

 なんせ、強引に運命を作ってくれた立役者でもあるのだから。


「先輩に手出しするな」


 有無を言わさない声で押し付けるように言う。巳波はそれ以上何も言わずに、泣きそうな顔になりながら教室を出て行った。

 俺は息を吐き出して、カーテンが引いてある窓に近寄った。窓際の空気は既に暖かくなっていて、今日も一日が始まるのだと俺に知らせてくれた。

 もう少ししたら先輩が登校してくるだろう。

 いつもこの窓から見られているなんて知らずに、あの目障りな幼馴染と横並びで自転車に乗りながら。


「…………千秋くん」


 昔呼んだ名前を口の中で転がす。

 今はまだ馴染んではいないが、その内言い慣れたものになるのだろう。

 早くその時が来ないかな、と俺は強い日差しに目を細めた。

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