千手観音
「ちょっと関わり合いにあうのは嫌なのであとはよろしくお願いします」
まるで影のように今村は姿を消した。こうやって生きていくのが彼の身上なのだろう。すると、父がよたよたとやってきた。
父の顔は若干青くなっていた。食べ過ぎたのだろう。その横に巨漢と美女が立っていた。挨拶した男はサングラスをしている。
美魔女が突然名刺を差し出した。弓彦が名刺を見るだけで肩書がいくつもある。
・幸せの学習 主宰
・社会を明るくする運動 代表理事
・北九州市改名運動 代表取締役
・NPO法人 小倉から反社会勢力を撲滅する世界運動 代表理事
目で追っていくだけで多すぎる。その端っこに名前があった。
「名前は千手観音美子と申します」
「センジュカンノン?」
変な名前に弓彦が驚いた。美子は微笑んだ。父は青い顔をしているが、それでいて美魔女の美貌に吸い込まれそうな顔をしている。父が聞く。
「センジュカンノンってあの、仏様?」
「はい。いやしくも仏様のお名前をいただいておりますの」
美魔女・千手観音美子は微笑んだ。隣には巨漢がぼんやりと立っている。開会の挨拶をした男だ。先ほどとは打って変わっておとなしくなっている。サングラスをしているのでどこを見つめているかわからない。
「私はこの名前、神にいただいたお名前を長年ありがたく使っております」
「神様からいただいたんですね」
「ええ。神様から口寄せをいただきまして。要は神様が私に乗り移って、お名前を主人に告げてこの名になりましたの」
「イタコのようなもんなんでしょうか?」
父が聞く。口寄せと聞くとそのようなものを連想するが美子は否定した。
「イタコではないですよ。あんな、死霊だけでなく生霊も呼ぶなんておかしいですわ」
「違うんですか、それはよかった。ははは」
父は青ざめた顔をしていたが美魔女の微笑みに誘われて笑った。
「そんな現役バリバリの人は呼び出したって出てきませんよ。だって忙しいですから」
美子は笑った。
たしかに毎日公務で忙しい政治家の生霊がそう簡単に降霊されては、降霊している間の公務が誰がやるのか。海外の政治家では時差の問題もある。寝ていても生霊は降霊されればたたき起こされて現れるのか。
仮に呼び出されても寝ぼけまなこで具にもつかない会話をされれば仕事が滞るであろう。
「先日はマリーアントワネットと会話をしましたわ」
美子はほほほほと笑った。
「パンがなければお菓子を食べればいいでしょう、と言っておりましたわ」
「おいって」
と弓彦が言いそうになったのを父が制止した。
「しかし美子さんもマリーアントワネットぐらいお美しいですぞ」
ちなみにこのパンのくだりは「パンがなければ小さいパンを」だそうなのだが、これは反マリーアントワネット派が創作したデマらしい。革命期のフランスの暗黒面を感じる内容である。
ともかくも、美人だがこの女のいうことは胡散臭い。それを敏感に感じ取った弓彦が口を開いた。
「おいって、この『北九州市改名運動』って今朝アンケート来たってもんよ」
「おや、よくご存じで。有志があちこち回っておりますわ」
千眼美子は笑った。
「今日来たのはカヤマだったってもんよ」
「加山くんは福岡から北九州に引っ越してきて、それからどっぷり北九州に染まった人ですのよ」
「知り合いって。大学の」
「そうでしたか」
「どんな仕事をしてるってもんよ?」
「仕事ですか…あまり詳しくは言えませんが」
美魔女は少し口を濁した。
「なんでも国際関係のお仕事なんだとか」
「はあ」
商社マンでもやっているのだろうか。弓彦はその説明では全く分からなかった。
「まあ、ともかくも仕事をしているわけですよ。おほほほ。あなたと加山はどんな関係で?」
「…下宿先が一緒だったってもんよ」
「そうなんですね」
さすがにかつて下宿先の隣の部屋に住んでいて、リクルートスーツを借りた一件で付き合いがなくなったとは話しできない。向こうはそんなことを覚えているのだろうか。なんとかして美魔女と会話したくて隣でうずうずしていた宏明が尋ねた。顔色が良くなってきている。
「その北九州市改名運動って何ですか?」
「小倉駅を北九州駅に変えるってもんよ」
弓彦が答えた。少し宏明は機嫌が悪くなった。息子には聞いていないのだが。
「おい、そんなことをやったら北九州の駅はみんな北九州駅になってしまうぞ」
「おいって、北九州の主要駅は小倉だから小倉が北九州駅になるってもんよ」
「主要駅は黒崎も戸畑も折尾もみんな主要駅だ。一概に小倉を北九州としてはいかん」
「それを一つにしようとするのがこの運動なのですよ」
千眼美子は微笑んだ。隣には小太りの男が突っ立っている。相変わらず目は死んでいる。宏明は少しむきになっている。
「俺は若松もんだが戸畑とか小倉とかそんな奴はすかん」
「もっと共存共栄をしていれば北九州市ももっと栄えると思いますわ」
「小倉もんは若松もんと違う。黒崎もん、戸畑もんとも違う」
「そうやって分裂しているから総合的な発展ができないのですよ。最近のグローバリゼーションとか共存共栄とか昔から言われてた言葉じゃないですか」
美子が答えたが、宏明は不機嫌になった。
「そんなもんはすかん。小倉も戸畑も田川も飯塚もすかん。何が悪い」
宏明は珍しく怒っている。
「おいって、何怒ってるってもんよ」
「そんな知らん。すかんもんはすかん」
多文化共生・グローバリゼーションという言葉が一般化した昨今、他民族との共生は人類の課題であろう。だが、地域だけでこれだけ多様化し、ここまで憎しみあっているのは福岡県の特異性なのだろうか。ともかくも宏明は拒絶している。
「うゅっ」
突然妙な言葉を発すると宏明は真っ青な顔をしてトイレに走り出した。
怒って血流が頭に行ってしまい、本来稼働すべき胃が大量の消化物を処理できずに機能不全してしまったのであろう。
弓彦は美子と隣の挨拶した男と3人になってしまった。多勢に無勢。このままでは負けてしまう。
美子の隣には目の死んだ小太りの男が突っ立っている。弓彦はどうもこの男が気になってしょうがなかった。
「おいって、隣のよくテレビに映る北の総書記の弟によく似ているなってもんよ。ちょっと前に事件に巻き込まれて…」
「それがだれかよくわかりませんが、あなた、名刺をお出し」
「ハイ」
小太りの男は名刺を出した。『社会を明るくする運動 主幹 千手観音隆法』とある。
「りゅうほう?」
「タカノリデス」
「タカノリはもともとは中国の遼寧省の出身でして、霊山・泰山、蛾眉山で口寄せの修行をしてきた霊魂を呼び出すエキスパートですのよ。私なんて羽黒山で3年、恐山で3年修行しただけでまだまだ新米ですのよ」
美子が説明する。よくわからないがそんなものなのか。
「タカノリは中国人ですが、日本の法名をいただいてこの名前で通っていますの。元の名前などなくなってしまいましたわ」
「これからもタカノリをご了承ください」
目の死んだタカノリがそう言った。
どこかで聞いたことがあったセリフだったが、弓彦がおいって、という前に、ほほほほ、と甲高い声を上げて謎の夫婦は別の参加者へ向かった。
後には弓彦が残された。
弓彦は冷えてしまった舌平目のムニエルを食べると、またブロッコリーをあさりにサラダのテーブルに向かった。
そこへ、ふらりと今村がやってきた。ウーロン茶を持っているだけである。
「さっきもどっかの店長からマージンが低いだのさんざん言われましたよ。純利益の半分を本部に持ってかれるんでしょ?私はそれだったら組合作って本部とやりあったほうがいいってアドバイスしましたよ」
「おいって」
「あ、そうそう。会いましたか、千手観音夫妻と」
「おいって、あの人たち何者ってもんよ」
弓彦からすれば今村も「何者」の部類なのだが、それ以上に輪をかけて怪しいのが千手観音夫妻であった。
「美人でしょう?だまされそうになるぐらいに」
「おいって」
「あの人は新手の新興宗教ですよ。『幸せの学習』という」
「幸せ?」
「似たような、どこかで聞いたことのある名前の新興宗教とは一線を画しているようですよ。なんとかとかいう至高神が世界を作っただの言っているらしくて、その意識の一部がイエスキリストやアラー、ブッダなんだそうです。だから世界三大宗教よりも格が上なんですよ」
「おいって」
「その至高神が地上に降り立ったのが彼女なんですよ。彼女は現人神なのです」
「おいって、ブロッコリー食べさせろってもんよ」
弓彦を無視して今村は続ける。
「彼女のいう霊天上界には、神格、つまり高級神霊としての格を持った人が大勢いるわけで、神様はひとりだけじゃないんですね。そして至高神の教えによって宗教間の対立問題は解決し、お互いの融和をもたらすんだそうです。どっかの新興宗教と全く教義が同じですね」
「おいって、きゅうり食べさせろってもんよ」
「あと、彼女はチャネリングができます。霊媒ですね。至高神の生まれ変わりだから何でもできるんですよ。ここも例の新興宗教の教祖と同じですね。ただ死んだ人しかできないそうですよ」
「おいって」
「彼女の歳は50歳ぐらい。でも美人なので30代に見えそうです。旦那さんも50歳ぐらいでしょう。大学生の息子がいると聞いてますよ」
一方的に話すと今村はまたどこかへ去っていった。弓彦はまた、きゅうりを流し込んだ。
結局父は戻ってこなかった。
会はその後千手観音美子の「至高神を信じれば救われますよ」というよくわからない言葉で幕を閉じた。
異業種交流会の締めの言葉とは全然思えなかったのだが。会場の出口では美子とタカノリが満面の笑みで美子が表紙になった「純銀の法」なる書物を販売していた。これは異業種交流会ではなくて新興宗教の勧誘セミナーじゃないかと弓彦は思った。
美子の周りには人だかりができている。彼女の妖気に誘われて先ほどまで店長会で疲れた顔をしていた店長たちが握手してもらって書物を購入している。日々の夜勤で疲れた店長たちや会社の不満しかないOLたちの心の隙間に至高神・美子の言葉がどんどん入っていくのだろう。こうして新興宗教の信者は増えていくのだろうか。
弓彦が真っ青になって倒れている父を発見したのは会が終わってトイレに入ったときのことである。洗面台でうずくまっていた。弓彦は立食パーティでの食べ過ぎに気を付けようとつくづく思った。




