思い出
伊豆弓彦と父が特急列車に乗って出発したのは朝のことである。
久々に父と博多に出かけたのは年に1度の店長会があるためだった。弓彦の勤めるコンビニチェーンは国内でも最大手であり、福岡県内だけでもその数は400店舗ある。店長だけでもちょっとした田舎の小学校の全児童数を軽く超えてしまう数である。各店舗の売り上げをいちいち報告していては1週間はかかってしまうので、ざっくりした会社の売り上げと方針だけを伝えて終わってしまう形式的なものである。そのため、2人とも気乗りせず、面倒くさいなぁとぶつぶつつぶやきながらの博多出張となった。
滅多に着ることのないスーツを着て父と2人博多駅に降り立つ。会場はすぐ近くのホテルである。以前行ったことのあるホテルだ。
「おい」
「もんよ」
歩きながら父が話しかけた。特急列車の車内で少し仮眠をとったが起きている間はずっとエビせんを食べている。
「店長会の後は昼食レセプションがあるらしいぞ。たまにはコンビニ弁当以外のものも口に入れておかないと、コレステロール値が上がってしまうから、父さんは今日エビせん以外は何も食べていないんだ」
父は朝から相当量のエビせんを食べていたはずである。それでもレセプションで食べる気満々とはなかなか食欲旺盛な60代である。
「おいって、俺っちはそんな話聞いてないから朝は鮭弁当を食べてしまったってもんよ」
泰彦は天を見上げた。
スーツを着て博多駅を歩くと、つい昔のことを思い出す。学生時代の福岡県内を豪雨が襲ったあの日のことを。
学生時代のあの日…
その月は、活発化した梅雨前線の東上に伴い各地で豪雨となった。北部九州から中部地方にかけて局地的に時間あたり100ミリの降水量を計測。大規模な被害が発生し浸水災害や土砂災害を引き起こしていた。
その当時、福岡市内の大学に通う学生だった弓彦は就職活動を開始していた。友人からリクルートスーツを借り、その当時下宿していた大学近くの家からバスに乗って博多駅へ向かっていた。折しも梅雨である。九州北部はとくに6月末から雨が本格化するのだが、近年のように集中豪雨が頻発しなかったころである。すぐに雨もやむだろうといつもの楽観的観測で会場へ向かっていた。
洪水のように雨が降る中、バスは博多駅へ向かっていた。道は川のようになっている。ドアが開いて乗客が乗るたびに雨水が入り、急流下りのような様相であった。本当に就職説明会はあるのだろうか。弓彦は珍しく不安を感じたが、出席することにした。その当時高嶺の花であった携帯電話がやっと一般学生にも普及し始めたころである。だが、貧乏学生の弓彦はそのような文明の利器を持っていなかったので、就職説明会の有無を確認できなかった。
博多駅に到着したのは説明会の始まる午前10時を1時間を過ぎた午前11時のことである。博多駅界隈もひざ丈まで水があふれていた。弓彦は友人から借りたスーツのズボンをずぶぬれに濡らしながら会場へ向かったが、ホテルは臨時休業。入口には手書き、というか殴り書きで書かれた『就職相談会中止』という張り紙があった。主催者も相当焦っていたのであろう。
弓彦は雨の中ぼんやりとその張り紙を眺めると、無言でバスに向かった。冠水した博多駅周辺にはバスが数台止まっているだけで、毎日何万人もの乗降客のいる駅周辺にはほとんど人の行き来も見えなかった。
帰りもまるで激流下りのような状況であった。なんとか下宿先に帰り着いた弓彦は着替えると、そのままスーツを返しに友人のところへ向かった。スーツを借りた友人は下宿先の隣に住んでいる法学部の学生だった。黒縁の眼鏡をはめており、時折クイクイと動かす癖があった。
友人はドアを開けるとぐったりした顔をした弓彦を見つめた。
「雨の中大変だったね」
「おいって、川下りしてるみたいだったってもんよ」
「説明会はどうだったの?」
「中止って張り紙が貼ってあったってもんよ」
「…まあそうだろうね。ふつうそういう日にはやらないだろうね」
「連絡がつかなかったってもんよ」
「連絡してみたの?」
「俺っちピッチも携帯も持っていないってもんよ」
「…そうだね。大変だったね」
「これスーツってもんよ。ありがとうってもんよ」
弓彦はひざ丈まで水にぬれたスーツをくしゃくしゃにしてそのまま手渡そうとした。友人がいつも眼鏡をクイクイとさせる仕草が止まった。一瞬顔がこわばったのを見て何かを察したのか、ポケットの中にたまたま入っていた近所のスーパーのレジ袋に入れてスーツを渡した。濡れたままである。友人は袋に入った生臭いスーツを驚いた顔をして受け取った。
「あ、そう」
友人はそう呟くと戸を閉めた。それ以来、隣人でありながら関係が微妙になった。顔をあわせると軽く挨拶をする程度。他学部だったせいか、就職活動で忙しくなったのか、次第に顔を合わせなくなり、気が付けばいなくなっていた。確か名前は…カヤマといったか。あれ、今朝の黒メガネもカヤマといったぞ。
そうだった。まさかあんなところで再会するとは。
そんなことを思い出しながら店長会に出席し無難に会を潜り抜けると、そのあとのレセプションに参加した。




