後註
私達が牡丹江出発直後見失った本隊の動静は其後私が在勤した引場促進連盟全国協議会事務局に於て都内或は各府県留守家族及び遺家族の口から三叉路を過ぎた後右折道路をとりハルピン方面に向う途中一面坡附近に於てソ連軍の捕虜となり全員シベリヤに抑留された事が判り、又私が敦化吉林の中間地点拉法近郊開拓部落から単独脱走した際残留した九名の消息は翌二十一年九月末頃引揚船を待つ為に臨時に設けられていた胡呂島の収容所(旧日本人小学校の空校舎で周囲に鉄条網が張られ常時中国兵が周辺を監視していた)の構内で偶然にその時の古年兵二名に邂逅し詳細に其後の様子を聞くことが出来たがそれによると翌早朝矢張り私が心配した通り空腹の為、前後を忘れ無謀にも門の開いている集団部落に何の警戒もなく入りこんだ処四隅の哨舎に待機していた自警団の反撃を受け更に門外に逃れ出たハナをソ連兵の機銃掃射により辛うじて逃げ終せたのはその二名だけだと言う。
そして更に又私が当初に召集された虎林の部隊は私達と交替した平陽の前の部隊等と共に南方転進の途次沖縄沖に於て敵潜水艦の魚雷攻撃を受け一兵の生存者も残らなかったと言う。それを聞いた途端私は自分も若し普通一般の一兵士だったら今頃は――と思うと思わずも身ぶるいを覚えると同時に少々くすぐったい気分にもなった。
つまり私は軍隊では全然役に立たない劣等兵だったお蔭で現在でも元気で暮して居られる、さすれば劣等兵たる事が命拾いの素因となったようなもので誠に皮肉な人生の一縮図でもあるものだ。
了