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老兵敗走記  作者: 下田 信
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第二章 脱走記

折角の計画が土壇場になって根底から覆されてしまった私は、全くこの度の失敗だけは地団駄踏んでも踏みたらぬ程の無念至極のものであった。

がしかしいかに悔んでも元に戻る筈のものでもない。

一応これまでの事は天運と諦めるが、これを以て絶対に将来をあきらめてはならないと固く心に誓った。

つまり必ずもう一度機会を待って当初の計画を遂行することだ。

私は気をながくして其機会を待つ事とした。

その日から始まった飛行場内の収容所生活は当初から何の規制もない各個気儘自儘な生活ばかりの毎日で、私には全く堪えられない程不快な日々の連続であった。

何分収容数日を過ぎても上部からは何の指示も命令もないのだ。

勿論正式な給与などあろう筈もないから、各グループ毎勝手気儘に炊餐し又振舞っているのだ。

尤も収容されている部隊そのものが、私達同様方々から寄せ集めの雑軍ばかりだから、統制ある生活などは、その事自体望んでも無理な話だったかも知れない。

ようやく全員舎外に集合せよとの命令を受けたのは、たしか収容後一週間位を経過した頃だったと思う。

我々は何事ならんとぞろぞろ、ぞろぞろ指定された地点に集って見た。

処がやがて現れたのは丸腰のままの富永中将である。

そして我々に要旨次の様な訓示を与えた。

「我々は不幸戦争に破れ今やソレン軍の管理下に在る。

しかし今次戦争に於ては両軍協定の結果絶対に捕虜の抑留はしない事になっている。

故に諸君は早晩に故郷に帰れる事は既に確定した事であるし、又この点に関しては特にソレン軍最高指揮官の明確な言質も得ている。

しかし今現在地を引揚げるについては、全施設の整備清掃を行い終局時に於ける軍の名誉保持に努めたい。

よって近日中に在留全部隊を作業大隊に編成替する。

その目的は飽くまで施設の整備清掃であるから諸君は決して諸種の風説に惑わされず軽挙盲動を慎まなければならぬ。

以上である。

だがこれを聞いた瞬間私の胸には昨夜係友の林一等兵から秘かに囁かれたある事柄が思い浮んできた。

即ち同君は日露協会学校で教鞭を取っているハルピン生れの同校出身者であったから露語に関しては一流の権威者であったのだ。

勿論同君は在隊中にもそんな事はおくびにも出さなかったし、又収容所入所後も全然素振りにも見せなかったが収容三日目偶然のことからソ連将校がこれを知ってその後の通訳は特にソ連軍から指名されて殆んど専門に同君がこれに当っていたのである。

勿論通訳に当った事柄に関しては一切を絶対に口外せぬよう日ソ両軍当局から厳重に申渡されていたのであるが転属して同部隊に入隊以来年令、境遇其他が似通っていた関係上特に親しい私には、時に応じてそれとなくいろいろの情勢を洩らしてくれていたのだ。

そしてその前夜同君は秘かに私に

「今日の話の様子では今度部隊は輸送大隊に編成してソ連領内に移動する計画があるようだ」と話してくれた。

つまり今富永中将は捕虜は絶対に抑留せぬと言い又部隊を作業大隊に編成替して兵舎の整備清掃に当らせると言う。

十二分にあり得る事だ。

要は兵の動揺を防ぐ為には輸送大隊を作業大隊と言い換える位の言葉のあやは又致方もあるまい。

だが私にとっては林君の言葉が富永中将の訓示よりも数層倍も信頼性がある。

事態は明瞭となった。

必ず当初の計画を実行しなければならない。

その中に数名の僚友がこの案に賛成し、決行直前には班員二十七名の過半数に当る十八名がこの計画に加わる事になった。

我々はそれとなく営舎内の各所を見廻り、脱走に必要な物資の整備に努めた。

何しろ飛行場の倉庫内には衣料其他色々な必需品が相当量其儘に放置されているのだ。

殊に空家同然の事務室の抽出の中から、コルト2号拳銃二挺が実弾一函と共に発見されたのは意外な収獲であった。

当初移動先は間島省の明月溝との噂が立った、私にとっては願ってもない好い話である。

何分間島省は私の十余年の任地であるし、殊に明月満は私の勤務する延吉県公署の所轄行政区で附近の地理は隅々まで判っているばかりでなく、街長初め警察署長其他街の有力者は殆んど旧知の間柄である、又近在部落の屯長なども大ていは顔馴染である。

私はこの噂には殊の外喜んで同地についたらどんな手段でも脱走出来るし、又脱出できたらいずれ色々な人達の御世話になる事だろうからと、その御礼にするつもりで当時地方には極度に不足している純毛のシャツ類を適宜梱包して自隊のトラックの上に秘め万端怠りなく準備を整えていた。

処が数日後に実際に行われる事となった移動先は、移動は移動でも兵舎から約二キロ程はなれた山麓に急設された天幕村だったのである。

計画は根本からやり直さなければならないが決行の機会は目前に訪れた。

我々は出来るだけ敏速に行動出来るよう携帯品は最小限に止め、取敢ず着換用の肌着一枚、靴下二足、食糧は乾めんぼうを主とした約三日分とし其日の来るのを待つこととした。

方法は何気ない顔で天幕村に着いたら、各個適宜警備兵の隙を見てすぐ前方の灌木林に飛び込みその儘山を越えて向う斜面の安全地帯に出る事だ。

又決行者が一体となって同時行動をとれば、すぐ目につくからその日は特に二、三名宛にわかれ適当な部隊に適宜紛れこむ事とした。

方法は簡単だが何分にも命がけの仕事だ。

手段は十二分にも周到でなければならない。

我々は殊更らに平静を装い準備に万違算ないよう心に期した。

愈々天幕村へ移動の当日となった。

多分収容所入所後二週目位だったと思う。

移動隊は二列縦隊に並び約五十米間隔位に軽機関銃を抱えたソレン兵がついている。

私のまぐれ込んだ部隊は略先頭の部隊だったので間もなくその天幕村に着いた。

しかし私はそのままぐんぐん天幕村を通り越し恰も用便する場所を探す様な格恰でそれとなく周囲を見廻したが、別段監視兵も注意を向けてはいない様だ。

瞬時を逃さず灌木林に飛びこんだ。

丈余の灌木が茂り下が叢続きになって身を隠すには絶好の地帯だが、何しろ上空からは丸見えの筈だ、下手に動いたら上空を旋回している哨戒機の餌食は間違ない。

心は逸れど発見されればそれまでの事極力視界に入らぬ様地面の上を地虫の様に這いつくばった儘身をよじらして軀を進めたり、中腰のまま叢林の中を馳け抜けたり全くその後の一刻の行動は無我夢中の状態だったので、明白な記憶がない。

兎にかくようやくの思いで第一の関門である斜面を登り切って向う斜面に辿りついた時はあまりの緊張の為暫くは口も利けない程の思いだったが、気がついて見ると幸い誰も発見された者もいないらしく心配された銃声もきこえて来なかったようだし又天幕村の方にも別に変った気配もしなかったようだ。

そのうちに同じ思いの僚友の誰彼の顔がそこここの叢から現れて来た。

暫らくして互に数え合って見ると十八名の予定が十一名だけだ。

やはり十八名の中には決行の直前怖気ついた者も居るだろうし、又適当な機会を得ずそのまま残留したものもいるだろう。

ただ私の一番心淋しく思ったのは在隊中何くれとなく御世話になった桜井班長の顔と、入隊以来一番親しくしてきた林一等兵の姿の見えぬ事であった。

一応の人員も揃ったので我々はその儘眼前に聳える次の山嶺を越える事とした。

その山嶺を越えれば最早やソレン哨戒機の眼からも逃れ得られるだろうし、又吉林方面に通ずる道路もある筈だ。

更に元気を出し約二時間の時間を費して、我々はようやく広く拡けた盆地帯の見える向う斜面に辿りついた。

見下せば予想通り中央部には吉林方面に通ずる道路が縦走し、約四、五キロ置きの問隔で集団部落が点在して見える。

最早やソレン機の眼も届くまいし、又こんな山蔭の部落にはまだソレン軍も来てはいまい、我々はすっかり安全地帯に脱出出来た安堵に酔い、又その後の社会情勢の変化などには全然気がついて居らぬ儘に何の警戒心もなくその山を降り平坦地に出て、又堂々とその道路を吉林方面に向け歩み出したのである。

そして私達は左方に見える集団部落の前に数十人の部落民が蝟集してこちらを注視しているのを見つけても、物見高いのはこの民族の常で見慣れぬ我々を珍らしがって見守っているだろうとその儘部落に近づいて行った処、約百米位になると部落民の表情には容易ならぬものが見える。

第一手に手に棍棒を持ってしかも血気盛りの男ばかりではないか。

私の脳裡には瞬間に戦国時代に於ける落武者剝ぎの故事が浮んだ。

だが中国に於ては決して故事ではない。

変乱の度毎に繰り返されて現在までも続いている民族の習性だ。

これはいかんと一歩立止ったと同時だった、わあっと喊声を揚げた部落民達は一斉に我々を目掛けて襲い掛って来たではないか。

多少の武器を持っていても所詮多勢に無勢だ、どうせ十一名だけでは敵うべき筈もない。

我々は即時身を飜して又もと来た方向へと一散に逃げ出したが部落民の追撃は仲々に止みそうにもない。

二キロ近くも逃げ続けたがだんだんにその距離は縮まってくる。

咄嗟先頭の者が左折して山地に向う小路に逃げこんだが、はや最後尾の者は先頭に立つ部落民には極く至近の距離にまでに追いつめられている。

万己むを得ない。とっさに私は右手側の叢の中に身を潜め僚友をやり過し部落民の迫るのを待った。

無残だが外に方法がない。

そして私は目をつぶるようにしてその上半身目掛けてコルトの撃鉄を引いた。

覿面である。この民族には何より火器が怖いのだ。

先頭の男が悲鳴をあげて倒れると、一斉にきびすを返し蝴蛛の子を散らす様に一散に逃げ去ってしまった。

だが我々の状況も決してその儘で安泰ではなかったのだ。

ようやく中腹まで馳け登って部落の方を見下すと、先刻逃げ帰った部落民の外その何倍にもふくれ上った後続の部落民の大群が一斉に道路の東西に拡がり出し、しかも馬を走らせて隣部落に連絡に行く部落民も見える。

万事は了解した、山狩りを始めるつもりなのである。

我々もこの儘では一刻も過ごせない。

十数日間の収容所生活では社会情勢の変化には全然気づかずに居ったが、この部落がこれであれば当然他の部落も同じ筈だ。

つまり我々の敵は最早やソレン、中共軍ばかりでなく目に触れるものは異民族である限り凡て敵と思わねばならない。

従って我々の今後の行動はすべて人の目にふれない夜間にするか又は人里はなれた山間地帯に入るかその外にはない筈だ。

差当りこの部落民の執拗な追及からは早急に逃れなくてはならない。

我々は己むなく再び山嶺に引返してその山系伝いに取敢ず西方に進んで見る事とした。

しかしそれは結果に於て一人の僚友の命を奪い又我々を疲労困憊の極に追いやった自然界の無言の脅威に対し全然無知のまま飛びこんで行った我々の敗北だった。

殊に高圧電線を辿れば必ず市街地に出ると判断した事は距離を無視し途中の地形を無視した第一の違算だった。

地図上に見れば極く微少な河の一支流の如く見られる一地点が実際にはその両岸数キロに及ぶ大湿地帯で終日かかっても渡渉可能地点すら発見し得ずまる一日を空費したが如き、又全然人跡未踏の地域ばかりだったので一日の行程が僅か数キロに過ぎない如き、種々の自然界の障碍の外、人間のにおいを嗅ぎつけると肌の出ているどこにでも構わず飛びついて、まるでナイフで抉る様な疼痛を与える山虻の大群にも全く手を揚げざるを得なかったし、又昼夜をわかたず我々につきまとって心身を悩ましたものに肌着の上からでも平気で口吻を突き刺す大縞蚊の多かった事だ。

折角休養をとり仮眠をしようと思っても次々と現れて我々に安眠の隙を与えない。

とうとう我々は行動三日目に至ってその継続不能を感知した。

隊員中二、三名のものが殆んど歩行不能の状態に陥ったのである。

殊にそれまでは比較的元気に見えていた土屋上等兵が最初に身体の平衡を失ってしまった、我々がいろいろと手をつくして見たがどうしても立上る力がない。

その中にとうとう意識不明の状態になってしまったのだ。

勿論我々には何等医薬品の持合せはなく又衛生看護に経験ある者も一人も居ない。

我々はやむなく其場に仮泊し出来得る限りの介護に努める事とした。

まず落葉を集め身体の楽なよう休み場を作り又枯枝を焚き身体を暖めるなど種々手をつくしたが夜分になると急激に体温が降下し又呼吸、脈膊も乱れて来た。しかし我々にはこれに対する何等の措置をも持合わしてないのだ。全くこの時位自分達の無力を口惜しいと思った事もなかったが、同上等兵の霊魂はついに私達の心からの神仏への加護祈願にも不拘、再び甦ろうとはしなかったのだ。

丁度三日目の夜十一時半頃である。

翌朝同上等兵の遺骸は全員出来得る限りの心尽しにより一応仮埋葬の格恰までにはこぎつげたが建てるべき標識とてない。

仕方なく傍の立木を削り焼杭を以て、氏名、年令、日時のみをなすりつけるようにし記して見たが恐らく一度降雨があればこの墓名は即座に消え、又この地を訪れる日本人とて永久にあるまいと思われる。

私達はその墓標に最後の別れを告げ再びその地を出発した。

しかし到底この儘この山中を彷徨するのは全員自滅の外はあるまい。

一応夕刻或は未明を選んで人里近くに出て見る事とした。

元気をふり起して歩み出したが既に相当歩行困難な者もいる、仲々思う様には行動も捗らない。

夕刻頃ようやく人里近いらしい地点まで辿りついた。

四囲を眺めて見ると間違なく京図線沿線しかも吉林、敦化の中間拉法近郊らしい。

一応人里には出たが今度は人目に触れぬ又特別の注意が必要となった。

取敢えず一端その場に休止して四回の状勢を更に見極める事とした。

だが尚よく見ると目前二キロ附近に部落らしい建物が見える。

人家があれば又その附近には畑もあろう、季節が季節だから場合によっては胡瓜その他何とか腹の足しになるものもあるかも知れない。

我々はそんな事を考え乍ら約一時間程その場に小休止を続け、ようやく夕闇が周囲を包み出して来たのを見定めて、此際にと足音をひそませ部落に近づいてよく見ると、どうも様子が変なようである。

遠くからは立木に遮られあまり詳しくは判らなかったが、どうもその部落は満人の農家ではない様である。

更に近づいて見るとまぎれもない、他の地方でもよく見かける日本人開拓部落だ。

だが不思議な事に全然人の気がないようだ。

我々は一度に緊張から解き放され急いでその部落に入って見るとこれは又駭いた、ひどい掠奪の跡である。

家財と名のつくものは何一つ見当らないばかりでなく、床板其他撚料となるものはすべて無残にはぎ取られ、ただ僅かに壊れた儘の鍋釜其他台所用品が二、三点土間に散らばっているに過ぎない。

何か食料品などと思って探して見たが飛んでもない。

畑の中には四、五寸位に伸びた白菜が数株見えているだけで口に入れるものなぞ薬にしたくもない。

又一兵士が食塩があるよと見つけ出してきた白色の粉末が実は化学肥料のこぼれと判って泣くにも泣かれない仕末、仕方なくその夜はその空家に仮寝して又明日の事は明日に考える事としたが、その際半分こわれた鍋で塩気もなしに煮た白菜の汁がその晩の唯一の副食だったのだから、世の中にもこれ以上の惨めさもまたとはありますまい。

そして私にとってはその夜その場所が、ゆくりなくも其後の運命を大きく変えるさだめの場所ともなったのである。

即ちその夜全員で今後の行動について互に忌憚ない意見を言い合う事とした。

ところがその意見は大きく二つに分れしかもその論点が全然正反対の全く妥協の余地のない意見になってしまったのだ。

つまり私の意見としては今後この儘この山中で行動を続けるのは絶対に不可能を前提として、人里近く出て行く事になるが全員一緒に行動しては、人目にもつきやすいし、又行動にも敏速を欠く、故にまず二、三名位宛のクループに分れそれで適当に連絡をとり乍ら行動するのが最良の策だとするに対して、二、三古年兵達は折角十名と纏っているものを少く分れる事には絶対に反対だ、たった二、三名だけでは万一の場合どうにもならない、と全く解散式以前と変らない。

尤もそれ以前にもお互の体力が限界点に達してくると兎角軍隊式の悪習慣つまり上命下従の最も悪い面だけがそろそろ地肌を出し初めて何となく全員協力の心が失われてくる兆が見えて来た矢先ではあったが、

つまり古年兵達は何くれとなく古参新参を鼻にかけ体力其他には何の関係なく薪拾い水汲其他の雑用一切は新兵だけに任し自分達は万事楽をしようと構えて来ていたのである。

勿論その夜にしろ只単なる意見の相異だけなら何も私にしろ敢て単独行動をとるまでには至らなかった筈だがその際私が最も唾棄しているその悪習が最も端的に且つ露骨に私の前に曝け出されてしまったのである。

即ちその時一人の古年兵が

「オイ新兵、お前エラク偉そうな口を利くが初年兵と言う事を忘れたか我々はまだ軍人だぞ軍隊と言う事を忘れているなら少し思い出すよう気合を入れてやろうか」と言って今にも跳び掛ろうとして立上ったのである。

幸いその時は傍にいた他の僚友がこれを押し止めてくれたので、満座の中で往復ビンタを食う恥辱だけは免れたものの心の中では到底その儘納まるものではなかったのだ。

なるほど言われる通り一番の新兵ではある。

だが人間としては最年長者であり、又世の中の色々な苦労をなめつくして来た事も、到底このあんちゃん達などの及ぶ処ではないだろう位の自負心もある。

しかも既に軍隊でもないであろう。

現に自分達自身部隊をはなれて今この山中に彷徨を続けている現状ではないか。

何をか言わんやだ。

其夜私はついに一睡もせず自分の行く手を考えた。

こんな徒輩の言うままになりこんな山中で野垂死をするのも無念至極だ。

また人間としても人生の責任の半分も果していない。

もう人の力は頼まない、凡ては自分で自分の運命を切り拓く事としよう、その上での失敗なら格別悔ゆる事もあるまい。

私はついにその晩その場に於て自分だけの単独行動をとる事に心を決めた。

そして夜半みんなの寝静まるのを待って静かに戸外に一歩を踏み出した。

真の闇夜ではあるが大体の方向は就寝前既に十二分に見定めて置いた。

兎に角この儘北方に進めば約二キロ位で吉林敦化を結ぶ東西への国道が走っている筈だ。部落から国道へ出る曲りくねった小道の様子も既に見極めて置いたが、何分にも真の闇夜の手探りでは仲々に思う様には歩も運ばない、水田に足を踏み入れたり小溝に落ち込んだり数々な苦労をしたが兎に角国道にたどりついた。

周囲の暗黒の中に灰色の道路が夜目にもくっきりと浮き出して見える。

固い大地の感触も亦久々のものだ。

何分今まで歩いて来た土は全然人間の通った事のない土の上ばかりだったから。

ほっとした気分で大きく一呼吸し躊躇なく東方へ向って歩み出した、今までとは全然正反対の方向である。

つまり又元の方向に逆戻りを始めたのだが決して錯覚を起したわけではない。

今までは僚友と共同の行動だったから、成るべく日本人の多い後方地帯へと西に向い吉林、新京方面に向って進んでいたのだが、単独行動となれば又別問題だ。

間島省内にはまだ家族もいる筈だし又元々の勤務地でもある。

私は暗闇の国道を胸を張り万歳でも叫びたい気持で進んで行った。約四キロ位も歩いた頃の事である。

ふと気がつくと前方約五百米位離れた右手の方向に灯が見える。

さては何かしらと瞳をこらして之に注目し乍ら歩いて行くと、明かに建物で又前方には二、三人の人影がいるのがちらちら灯火の中に浮いて見える。

この夜中しかも町とも思えぬこんな地点で何事かとよくよく見れば成程と頷けた。

これは市街地から少しはなれた京国線の一寒駅でその人影はまさしくソレンの兵隊が立哨しているのだ。

さてどうしたものかと暫らく考えたが幸いにも此闇夜だ、それにその地点は道路から少し下った右側数十米の処である。

万一見つかった処でこちらが先に気がついているから、若し様子が変なら又引返しも好い、度胸を定めてその儘通り過ぎる事とした、成るべく目の届かない道路の左側を通り、両眼を皿の様にして足音を忍ばせ段々近づいて行ったが、幸い向うでは全然気がついていない様だ。

尤も普通ならばこんな処を一人で人の通る時間でもないし地域でもない。

とうとう気づかれずにそのまま通り越すことが出来た。

だが此処を上手に通り越した安心感が、数分後には更により大きな危険となってはね返す素因を含んでいた事などには全然気づいていなかった私は、今度は何の心配もなく堂々と歩み続けていたが真の暗闇の為、他にも歩哨線があろう等とは夢にも思わず其儘ある満人部落の中に這入りこんでしまったのである。

勿論国道沿いの散在部落で集団部落ではなかったが兎に角数名の自警団員か或は中共兵がその暗闇の中で立哨していたものと見える。

私は突然その暗闇の中からいきなり大声で誰何を受けた。

誰味シュイヤッ」満語である。

あまりに突然な為私は何も考える暇もなく、身を飜えして脱兎の様にもと来た方向に逃げ出したが、早くも後からはバン、バンとその足音を目掛けて発砲しだしたのだ。

全く命あっての物種だ。

私は這々の態で逃げ続けたが、気がつくとその逃げ先は、先刻ソレン兵が立哨していた方向ではないか。

しかもその銃声で変事を知つたか四、五名程のソレン兵が哨舎前を右往左往に動き出しているのが見える。

万事休すか、この儘では前後からの挟撃を受けて逃げ場を失う事は必至である。

瞬間私は四囲を見回してとっさの判断で左側低地帯の叢に跳び込んだ。

叢はそのまま河原らしい砂地に続いている、さては河岸かと尚も一散に馳け続けて行くと三百米位先に背丈位の楊柳の生茂った河岸に出た。

いざとなれば河に跳び込めば好い。

ほっとした気持で身をかがめ後をふり返って見ると丁度両方から馳けつけた哨兵達が私が曲った地点あたりで行き合ったらしい。

相当の人数が、がやがや騒いでいるのが夜陰の為耳許近くの様に聞えて来るし又チラチラする懐中電灯の光の中に二、三匹の軍用犬の姿も見える。

又私が逃げたのが河原の方向と判ったらしく急に強烈な光芒が河岸目掛けて流れて来た。

携帯用の小型投光器まで持ち出して来ているのである。

最早や一刻の猶予も出来ない。

私は出来得る限りの手早さで軍衣を脱ぎその中に私物を包みゲートルで頭上に縛り其儘立泳ぎの姿勢で河の中に入って行った。

もう一安心だ。

若し発見されそうになったら品物はぬらしてもそのまま水にもぐれば好い。

子供の時からの鍛錬で二、三分位もぐっていても格別の苦痛にもならない。

又水泳は学生時代から相当の遠泳に慣れているから二、三時間位は何ともない。

大河の割に流れが相当に急だった。

私はなるべく無駄に体力を消耗せぬ様流れに従って只水に身体を浮かせるだけにした。

そしてようやく少しの安堵感を取り戻したのでふり返って今飛びこんだ上流の方の様子に目をやった。

勿論その時にはもうその地点には哨兵達が馳けつけて相当数がガヤガヤ騒ぎ乍ら盛に投光器を振回しているがその時私は自分の身の危険も忘れて少し滑稽な気持になった。

何故ならばその時哨兵達が盛に投光器をふり向けているのは全く方向違いの方角ばかりつまり私が跳び込んだ河の真向いや中流ばかり探しているからだ。

既述の通りこの河は大河の割に両岸が迫っているので相当早い流れだ。

それだから私の体は相当の下流へ押し流されている。

その上私自身全然水に逆らわない立泳ぎの姿勢で水に浮かんでいるだけだから私の位置は河岸からは余り離れていないが相当の下流になっているのを哨兵達は気付かぬのだ。

水中に漂っていた時間は自分では二時間ばかりだと思っているが正確には判らない。

そのうち自然に対岸に流れついた。

発見された地点からは恐らく七、八キロ位離れている筈だが深夜の闇夜の事だから果して安全地帯かどうか全く判断出来ない。

幸い上衣はそれ程ぬれていないので、すぐ暖をとれたが肌着と軍袴はすぐ脱いで乾かす為に水を絞らねばならない。

普通の状態ならば火を焚いて衣類を乾かし暖をとることも出来るだろうが、マッチもないし又あってもすぐ目標になる焚火なぞ出来得る筈もない。

東満の九月上旬夜半それも下半身丸裸のままだ、いくら身を縮めても歯の根も合わない程寒さが身に泌みるが、これも天命で仕方がない、夜明けまでじっと我慢するより致方もなかった。

全く地獄の責苦とも言うべき寒気と疲労にさいなまれる約二時間余、ようやく払暁も近くなって来たので四囲の状況も朧ろげながら判別出来るようになって来た。

注意して周辺の地形を見ると同地方の地形には珍らしく、両岸が切りたつ様に河面に迫り現在地のみが、東岸の中腹にゆるやかに続いている。

最早やつめたいとか気持が悪い等とは言っていられない。

人に見つけられたらすぐにも逃げ出さなくてはならない。まさか裸の道中も出来ぬだろうから。我慢して濡れたままの長袴を穿き肌着は手に抱えた、そして注意深く四方に目を配り乍らその砂丘を東側に登って見た。

処が意外にもそこは広く開けた平坦地ですぐ目前に元日本軍の兵舎が数棟並んで見える、元より兵一人居らぬ空兵舎が並んでいるだけだが、兵舎の中なら或は部落民の目から逃れて暫時休憩する事も出来るかも知れないと一先ずその中に入って見ると駭いた。

部隊の撤退と同時部落民の掠奪が行われたらしく床板一枚残っていない。

残っているのは僅かに外側の羽目板ばかりだがこの有様ならば、この羽目板も続けて掠奪の的となるのは考える余地もない事だ。

つまりこの状態では到底日中安閑としてこの兵舎に休んで居られない事は明白だ。

仕方なくその兵舎を出て少し小高い丘の様な叢林地に入って行くと方々に不思議なものが並んで立っている。

アンペラで覆いをした物資の集横所らしいが全然狼籍の跡が示されていないのだ。

不審に思って近づいて見ると成程無傷の理由がよく読めた。

裸のまま或は箱詰で積み重ねられている砲、爆弾及び銃弾の山なのだ。

成程ここならば安全地帯かと私はあまりの疲労の為に全然前後の事を考える暇もなく、その一群の中の手頃なアンペラ覆いをゆるめてその隙間にもぐりこんで一刻の睡眠をむさぼる事とした。

何分にも前夜は思いがけない事態の続発で心身とも綿のように疲れ切っているその上に、此処ならば絶対に部落民も近寄らないだろうから滅多に発見される事もあるまいとの安堵感もあったものだから、自分でも不思議に思う程夕刻まで十分の睡眠をとる事が出来たのだ、だが睡魔が去ると今度は急に空腹感が頭をもたげてきた。

もっとも今日は朝から何もたべずに一日を送ったのだ。

どうしても空腹感を充たすには人里まで出なければならない。

どのみちこれからは昼は山中に身をかくし、夜人里に出て行動すると言う人間生活の逆を行かなければならないのだから、人なみの生活などは夢にも覚付かないが、それでも差当りの空腹は何としても満たさねばならぬ。

夕刻を待って砲弾山を出た。

大体の方向は判っている地帯なので国道に沿い東へ東へと向って歩いたがこの附近になると相当部落も密集しているので警戒も厳重らしい。部落が近いとなると昨夜の二の舞をさける為国道を外れ近傍の畑地を通る事とした。

依然として食べ物にはなんにもありつけなかったが、夜半を過ぎた頃になると不思議にも腹の虫が空腹に慣れたせいか少しは落ちついて来たようだ。

夜明が近くなったので一応人里離れて近くの丘陵状の山林地帯に退避した。

丁度人里が見下せる地点だったので南方に目をやると約四キロ位向うの平地を京国線の列車が東に向って走っている。

あれに乗れば今日中にも自分の目的地へ着けるんだがなあ、と思うと急に自分の現在の身の上が憐れになってきた。

だが実際に又深刻に身の憐れさを味わったのはそれから数時間の後の事である。

駐屯地出発以来続いていた好天気がその日の十時頃から崩れて来たのだ。

しかも相当の土しゃ降りだ、出来るだけ密集した木の蔭をと選んで少しでもぐしょ濡れを避けようとしたが、所詮木の蔭草の蔭である。到底山中とは人間の住める処でないと諦めて、己むなく平地に下り四方を見渡すと丁度部落から部落へ通ずる田舎道の中間あたりに一間巾位の土橋が見える。

これも亦背に腹はかえられないと度胸を決めてその傍に行き、身を屈めてその下にもぐり込む事とした。

橋の下と言っても勿論人一人潜り込めば一杯位の隙間だ。

全くこれが人間様の生活か、ちゃんとした棲家のある狐や狸の方が却って羨しい位の惨めさだ。

軍衣は元より肌着までもうぐっしょりで寒さも一段とこたえるが、又場所が場所だからいつ村人が通るかも知れない。

到底一寝入り出来るどころの状態ではない。

徒らにがだ々々、がだ々々、ふるえ乍ら不安な刻一刻を送っているのだが雨の方は一向にやみそうもない。

到頭昼過ぎになってしまった。

雨はまだ降りやまないがこの儘じっとしていては体温が全部奪われてしまう様な気がしたので一応歩いて見る事とした。

真昼間だが幸い雨に濡れることの極度に嫌いな満人の事だ、外を歩いている者など一人も見当らない。

度胸を据えてそのまま道路を歩いて行くと右手に見える山裾のあたりに一軒の農家がある。そしてその裏手には物置らしい建物があってその裏側から山続きには一面に玉蜀黍の畑が続いて見える。

物置を探せば或は何か食物にでもありつけるかも知れぬ。

又家人に見つかっても独立家屋の事だから少々凄んで見せても差支えないだろう。

とに角私は余りの寒さと空腹の為にそれ以外の事は何も考えず、山裾の玉蜀黍畑に入りだんだん、だんだん農家に近づいて物置の裏側にかくれ暫らく農家の様子を窺うこととした。

しかしよく見ればその農家は一見して判る程の貧農だ、何だこれでは何も食物にありつけるどころではあるまい、とんだ見当違いといささか自嘲を感じ引き返そうとしたら突然その家の裏口が開いて、見るから見窄らしいその家の主婦が現れてずかずかに傍の玉蜀黍畑に近づくと、いきなりその中の四、五本を掻き取ってそのまま家の中に馳け込んだ。

成程食物は畑にあったのだ。

私は迂濶にも今まで食物はすべて煮たり焼いたりとの先入感で、周囲には全然気づかずにいたが牛馬は別に料理しなくとも結構それだけで生きて行かれる。

初めてそのことに気がついた私は、急に元気を出して早速もと来た道に引返す事としたがその途中畑の中から先刻の主婦がしたと同じく成るべく手頃の玉蜀黍の房を四、五本掻きとって来るのを忘れなかった。

だがしかし、やはり習慣は習慣である。

煮るか焼くかして食べ慣れた物を、そのまま生で噛ると言うことは余り心地よい舌触りではない。

全く言うに言われぬあじわいに、一瞬たじろいだが目的は最早や口に合う合わないと言う問題ではない。

何でも一応胃の腑に収めて当分の餓を凌ぐと言うにあるのだから、私は敢えて目をつむりその都度目を白黒させながらも、到頭その中の二、三本を無埋矢理腹の中に詰めこんでしまった。

結局うまいまずいは舌の上だけの話、一端胃袋に入ってしまえば格別の事もない。

私は生きるだけの手段なら案外手近かなところにあるものとその時に悟りを開き、又途中見出した山葡萄の蔓から曾て山の先輩から、

「君山に登って疲れた時は山葡萄の葉柄をかんで見給え、素晴しい清凉剤になるよ」と訓えられた言葉を思い出し、早速試みて見ると成程丁度サイダーの様な味がする。

これはしめたとそれから以後は手当り次第山葡萄の葉柄を噛むこととしたが、これがどれだけ疲れた身に役に立ったことか全く有難いみつかり物の一つだった。

だがその日の夕刻頃拉法、敦化の中間地点威虎嶺の中腹あたりに着いた時には、つくづくと今後の身の置き処について考えさせられることとなった。

大体この威虎嶺とは昔から頻々と虎が出て通行人を脅かすのでこの名があると聞いたが、今その虎の名所を只一人、人目を忍んでしかも夜道を通ろうとしているのだ。

やはり人間ならば人間らしく堂々と真昼間大威張りで通って見たいものだ。

その原因は何であるかと言うとただ単に軍服を着ているからに外ならない。

つまり私は軍服を着ているだけですべての人間の社会から追いやられているのだ。

故にまず入間の社会に戻るには前提として軍服を脱いでしまう事が先決だ。

ではどうしたら軍服を脱ぐ事が出来るか、ただ単に脱ぎ捨てるだけなら今すぐにでも出来るがまさか裸の道中もなりますまい。

絶対にそれに代る物がある事が必要だ。

どうしたら軍服以外の衣服を手に入れる事が出来るか?あれやこれやと思いあぐんだが人間結局思い詰めれば最終的にはその行きつく処はみな同じになるものかも知れない。私もとうとうその行きつく処に行きついた。即ち目的の為には手段を選ばず、と言う最も原始的且つ反社会的な方法である。

幸いこの威虎嶺の山裾には京図線の路線が通っているので、この附近の住民はこの線路を通って近道とする。

それだから私が適当な個所で待っていると必ず一人歩きの誰かと行き合う事となる。

但し軍服姿では相手が近寄らないから、近寄るまでは身を隠している必要がある。

そしてうまうま土民を捉えたら、あとは有無を言わさぬ事だ。

つまり早い話が山賊か追剝ぎをやろうと言うのである。だが外に絶対これ以外の方法がないとしたら仕方がない。

天も亦我を憐んで必ずこの神への冒瀆を許してくれるだろうと自己弁解をきかせ乍ら附近を歩いて見ると、丁度路線に迫った山裾を切り取った切通しの場所に出た。

人を待ち伏せするには絶好の地点である。

結局この上で人の通るのを待ち受けることとした。

勿論今の時刻では相当の夜更けだから誰一人通る人もあるまいが、明朝になると必ず通行人がある筈だ。

私は尚一層周囲の状況を確かめた上其夜はその場に野宿して明朝を待つ事とした。

盛夏は既に過ぎたし昼夜の温度差の激しい大陸のそれも北向きの山の斜面だ。

それに今朝来の雨で濡れた軍服もまだ充分には乾き切ってはいない。

相当に寒さも身に応えてくる。

仲々寝つかれもしなかったが連日の疲労の為、かえって夜が白む頃になってうとうとしだしたものらしい。

何やら人の通るような気配がすると思って身を起してその方を見ると、もう一人の満人がその場所を通り越して敦化の方へ歩いて行く後姿が見える。

しまった、今度こそ絶対に逃さんぞと心に誓ったその数分後だった。

又たしか西の方から歩いてくる人の足音がかすかに聞えてくる。

今度こそはと機先を制するつもりですぐそのまま線路上に跳び下りてその方を窺うと、これは又どうした事か、事もあろうに若い男ばかりが五、六名一列に並んでぞろぞろこちらに向ってくるではないか。

しかもあまり人相のよくない男ばかりだ。

私も駭いたが向うでも駭いたらしい。

何分早朝人の居る筈もない崖の上から自分達の目の前にうす汚れた一人の兵隊が突然降って湧いたものだから、一隣立止る気配を見せたが相手が日本兵それも一人だけと判ると再びその儘の姿勢で歩いてきた。

いくら拳銃を持っていても一人で五、六名相手では具合が悪い。

私も咄嵯の間に仕方がないので線路の片側に寄り、外側に向け放尿の姿勢をとったが軈て近づいて来たその男達はいずれも横目でじろじろ私を眺めながら何やらひそひそ小声で語り合って通り過ぎて行く。

言葉を聞くと朝鮮語である。

ははあ朝鮮人だなと判るとすぐ私は一計を案じ出し「ヨボシヨ(もしもし)」と朝鮮語でこの連中に向って後から言葉をかけた。

これを聞いた男達は瞬間ギョッとした様子で一斉に足を留め後方を振り向いたので、すかすさずに私は特別に慣れなれしい態度で、

「実は私はこの近くの兵舎で病気の為一人取り残された兵隊だが、本隊の行方が判らず困っている処ですが貴方達はこれから何所へ行かれるのですか」と訊くとその男達は満更ら嘘でもないと見受けたか稍安心した様子で、

「いや俺達は吉林から避難して来た朝鮮人だがこれから北鮮に帰る途中だよ」と言う。

そこで私は更に

「ああそうですか、北鮮に行かれますか、北鮮なら敦化を通るでせうが敦化には私の部隊がいる筈だし又他の部隊もいるだろうから途中まで連れて行ってくれませんか」と頼むとその男達は別に嫌な顔もせず、

「ああ好いよ」と言ってその儘歩み出したので私もその後尾について歩み出したが歩みながらもどうしたら当初の目的を達せられるかとその事ばかり考え

ていたが、ついに一計を考え出しすぐ前を歩いている男に、

「貴方は逃げる途中で随分難儀したと見えて上着がひどく裂れているが、私は部隊へ帰ればいくらでも代りがあるから私の軍服と取換えてやろうか、私のは野営したので少し汚れているが元々兵舎を出る時着換て来たものだからピンピンの新品だよ」と言うとその男は私のこの突然の申出でに一寸戸惑ったような顔付をしていたが隣の男から

「お前取換えて貰ったら好いよ」と奨められたのですぐ其場で取換る事とした。

これで第一の目的は達したがまだ長袴と軍靴がある、下手にしてこの機会を失えば又容易にその機会をつかむ事は困難となろう。

私は思い切って一番ボロ靴を穿いている男とボロズボンを着けている男にそれぞれの交換を申入れた。

処がその男達は反って私が一緒に連れて行って貰える御礼にするのかと思ったらしく何の疑いもなく気軽に応じてくれた。これで完全に立派な乞食姿の中年男が一人出来上った。

もう何も心配はいらない。

まだ元のまま身につけているものはしっかり肌につけている若干の私物品と越中褌だけだ、勿論拳銃は気づかれない動作で手早くある個所に隠匿した。

もう大丈夫だ、もう絶対に今後人の目を恐れる必要がない。

私はすっかり安心してその男達と一緒に敦化に向って歩いて行ったが、その途中この男達が私の目の前で二度と見られぬ物凄い余興を極く簡単に又自然的に演じてくれたのも忘れられない一つの思い出となった。

即ち敦化の街に近づくにつれ私達は街の方から歩いて来る数々の満人に会ったが、その人達は言い合わした様に一見してそれと判る日本人住宅からの掠奪品を、山の様に車に載せ或は背に負い手に提げて歩いて来るのだ。

朝鮮人の若い男達はその有様を目にすると、しばしば顔を見合せうす笑いを浮べ乍ら何やらひそひそ小声で囁き合っていたが、そのうち一人の満人農夫がやはり驢馬の背に掠奪品を満載し自分も身動きも出来ぬ程身体一杯につけ、少しく群から離れて来かかると見るや、いきなりその満人に一斉に跳びかかり何の苦もなく一撃のもとに路傍になぐり倒してしまったかと思うと、その掠奪品を全部あべこべに今度は自分達の手に配分してしまったではないか。全く凄じい光景である。

或は日常気がつかないが人間の社会で日毎夜毎に繰り返されている弱肉強食の現実の姿をその儘端的に又赤裸々に見せてくれたものかも知れない。

だがその男達はその後も別に変った素振りもなく笑い声を交え乍ら、何事もなかった様にその儘敦化に向って歩いて行ったのには、どうしても私には割り切れぬ何物かが残って、これが民族の感覚の相違かしらと思うより外なかったのだ。

だがこの事は私にとっては言わば第三者の問題で格別の事ではなかったが、その後に現れた敦化市街入口での難関だけは、全く今思い出しても身ぶるいする程の恐しい生死の関門となったのである。

即ち私は何の不安もなく揚々と敦化の街に近づいて行った。

最早や軍服も脱いだし何も恐れる事はない。全然そのつもりであった。

だが近づいて行った敦化の街には既に市外から潜入する日本敗残兵捜検の為、市内入口に監視所が設置され十数名のソレン兵がその配置についていたのである。

勿論その時の私にはその使命其の他については皆目判らぬ事であったが、何分にもソレン哨兵には一度こりごりした経験がある。

自然一行からは数歩も晩れてしまう仕末となった。

風采は一応完全な乞食姿であるが身体検査を受ければ一ころである。

第一日本人以外には絶対に使わない越中褌をしめている。

そしてそればかりでない、その紐の先にはコルト2号拳銃が実弾入りのままでぶら下っているのだ。

先頭を見れば早やその朝鮮人の若い男達は、ソレン兵の合図に従って左折して哨舎の方へ歩いている。

何分にも若い男ばかりの五、六名の上、一人ずつとは言え日本の軍服をつけ軍靴を履き又袴を穿いている男が交って居れば、見ように依っては反って異様にも見える筈だ。

疑われても無理もない。

しかし私にとっては絶体絶命だ。

今更ら逃げ出す等とは思いもよらぬ、即時銃殺される事は見えすいた事だ。

万事休すか。

私は凡てを諦め目を閉じた。

そしてもうどうでもなれと観念した。

しかしその時私の足だけは不思議にも、そのまま無意識の中に私の身体を一直線に街に向って路上を進めて行ったものと見える。

別に又決してどうしよう等と言う作為などは全然考えもしなかった。

それなのに私の足だけはそのまま自然に路の上を歩き続けていたのだ。

その時の気持は全然今でも思い出せぬ。

或は半分精神喪失の状態で私の身体だけがその様に動いていたのかも知れない。

とにかく私は今にも後方から銃弾を浴びせかけられる様な幻覚と、或は後方から追跡して来たソレン兵の逞しい腕がいきなり肩先に掴み掛って来る様な幻想の為に、全然他を考える余裕もない夢遊病者の状態で街の入口の方に向って歩いて行ったものと見える。

途中ふり向いて身の安全を確めるなどの余裕も勇気も到底起る筈がない。

依然亀の子の様に首をすくめ両手を下腹部の上に握り合わし、又両眼は半眼に開いて丁度首の座に据えられた囚人が刑吏の断を待つような格恰でのろのろのろのろ、街に向って歩いて行ったもののようだ。

街の入口近くに差掛かると路上に一人の老爺が立停ってしきりと哨舎の方を眺めていた。

その傍に近寄り姿勢は相変らず街の方に向いたまま肩越しに後方を指さし「向うの方に何かあったのですか?」と訊くとその老爺は私の風態を一瞥し、

「あれは日本人がソレン軍に捉っているんだが一体お前はどこの人間だ」と訊く。

私は咄嗟の機転で先刻の朝鮮人が言った通り

「実は私は古くから吉林に住んでいた朝鮮人だが逃げる途中で悪い奴に持物を全部とられこれから北鮮まで行くのにどうしたら好いか考えあぐんでいる処です」と言うとその老爺は私の言葉を真に受けて、

「ああ朝鮮人か、朝鮮人なら心配ないがしかしお前朝鮮人は役所からの達しで皆標識をつける事になってるがお前はどうした」と言う、そこで私は更に、

「いや実は私は子供の時から吉林の山奥の方に貰われて育った者だから、北鮮に親族がいるだけで満洲国内には全然知合がないから誰も身許を引受けてくれる者が居ないからそれで困っているんですよ」と答えるとその老爺は頗る親切気のある男と見えて

「ああそうか、それは気の毒だな、それでは私が一緒に行って話をしてやろうか、私はこの街では先祖代々の古い家だから役所の方でも顔が利く、それに私の家にはたくさんの使用人がいるから家の作男だと言えば何とかなるだろう」と誠に思いがけない有難い事も言ってくれる、正に地獄で仏とはこの事である、私はこの老爺の思いもせぬ好意によって、その日からはセルロイドの小札に露字を以て“コレヤン”と書いた朝鮮人の標識を貰い、これを胸につけ今後は白昼でも堂々人目を怖れず行動出来る事に希望の胸をふくらまし、次の行動に移る準備を整えて行った。

まず敦化の街で手初めに満人式の頭陀袋を買いこれに数々の食料品を詰め込み、又折角威虎嶺で変装の為取換えたぼろ靴だが、これもこれからの山道では到底持ちそうもないから新しい地下足袋に履き換え、最後の難コースである吉林、問島両省境のハルバ嶺に向って敦化の街を出発した。

だが街を出て省境に向って行くと、段々に私の周囲には同じ省境へ向う朝鮮人避難民の群が数を増して来た。

何分当時満洲国内に居住する朝鮮人の大半は北鮮に接続する地帯に居住し殊に間島省はその住民の八十パーセントが同民族で純然たる朝鮮の一部と変らぬ状態であった為、各地方で種々の迫害を受け出した朝鮮人がその天国である間島省に向って続々避難を開始したのは当然の事であるが、その為偶然同方面に向って引返した私の周辺には続々と避難民の群が後を絶たず、自然同国人の気易さから色々と話をしかけて来る者が多くなって来たのである。

勿論相手が満人であれば問題ではない。

朝鮮人だと言って立派に通るが、本物の朝鮮人に対して私も同国人だとはどうしても言い切れない。

第一に言葉そのものが私の解するのは単純な日常会話の程度である外、朝鮮語には絶対に日本人には真似の出来ない発音上の限界点がある。

初めは成るべく人の群に近づかない様に、又近づいてくる人には出来るだけ遠ざかる様に努めて来たが仲々そればかりでは通せない場面も出来てくる。

万己むを得ない場合には殊更らに満語を以て応答し、私は生れは朝鮮人だが小さい時から満人の家庭で育てられた為に朝鮮語は忘れてしまった等と胡麻化していたが、見慣れた者からは満人と日本人との間には、一挙一動にもすぐ判別出来る習慣上の差異があるものだ。

私は省境が近づくにつれ目的地に一歩近づく楽しさと、だんだん数を増してくる避難民の視線の不快さに、全く複雑な心境のまま省境に向って進んで行った。

だが、愈々省境のハルバ嶺を越える段取りになると、嫌応なしに私は朝鮮人避難民として一般避難民と同一行動をとらなければならない破目に陥った。

つまりハルバ嶺はその両側数キロの地点までは徒歩の行進も可能だが、その山頂部数キロはどうしても列車の世話にならなければ通られない地点である。

私もやむなく世話人達の指示に従いその列車に乗り込む事となったが、出来得れば乗客の混む客室内には入らずに済む方法はないものかと、四方を見廻していると丁度機関車に直結した炭水車の上にも避難民の一部が乗っている。

炭水車の上ならお互いに話を交す必要もあるまいと考えた私は早速その炭水車の上によじ登ることとした。

既に先客が五、六名適当に位置をとり思い思いの姿勢をとっている。

が私が登って行くとその先客達が途端に互の顔を見合わし乍ら奇妙な顔をした。

やはり同民族とはどこか変った動作が見られたに違いない。

私は殊更らに無関心を装い皆の注目を無視してその場に座を占めると、早速朝鮮人の習慣通り両膝を立て両腕をその上にのせ顔を埋めて無言の行に入る事とした。

しかし私への関心は仲々去らぬらしい。

殊にすぐ左側に座っていた二十五、六才位の若い男は、列車の動揺につれ殊更らに私の身体を車外に押し出す様な仕草をしたり、又「この野郎おかしな野郎だな」と口の中でつぶやいたり盛に何かの反応を試そうとする。

だが私は絶対にその手には乗るまいと努めて平静を装っていたが、更に今度は次の様な難題を持ちかけて来た。

つまりその男は全然私の方には顔も向けずにわざと口の中でつぶやく様な小声で

「おい隣の男、お前煙草を持っているかい」と訊いて来たのだ。

言うまでもなく私に朝鮮語を知っているかどうかを試す為の質問だ。

私もその儘知らん顔をしているのも変なのでやはり無言のまま、そしてその男と同じく顔を膝上に埋めたまま懐中から煙草を出して差出すと今度は又

「マッチはないか」と言う。

又前と同じく顔も見ず同じ動作でマッチを出すとそのまま暫らく煙草を吸い続けている様子だったが、今度は改めて私の方へ真直ぐに顔を向けしかもはっきりした日本語で

「おい君一寸頼みたい事があるんだが」と切り出して来た。

私も愈々お出でなすったなと観念したがその男は更に言葉をついで

「俺は新京から逃げて来た朝鮮人だが、日本人がぶざまな事を仕出かしてくれた為、着のみ着のままで逃げてきて、まだこれから北鮮まで行かなければならない人間だよ、見る通りのざまな上所持金も一銭もないんだ、君は見た処相当ひどい格恰はしているが持物は新品で食物も煙草も随分豊富の様だね、身なりは隠していても金だって不自由はしない御身分でしょう。

それで頼みと言うのは外ではないが、少し金と食物を恵んでくれないかと言う事だ、多分嫌だと言うだろうが日本は敗けたんだからな、そして我々はその為に無一物となって逃げて来た朝鮮人だよ。

調子の好い時には随分日本の為に働かせられたもんだからな。よく考えて貰いたいよ」まさに弱身につけ込んでの脅迫だ。

普通の状態では余り通用せぬ光景だろう。

しかし先日も敦化郊外の満人農夫襲撃事件にも見られた民族の残虐性だ。

どうせこのまま済むとは思われない。

はらわたが煮えくり返る様な気持だが大事の前の小事でもある。

それにこの山嶺を越えれば又何とか方法も見つかるだろう。

私は全然言葉は発しなかったが腹の中では

「この大馬鹿野郎ッ」と怒鳴ったつもりでこの憐れな馬鹿男の言う通りにする事にした。

いや、外に致し方もなかったのだ。

列車が峻険を以て鳴るハルバ嶺を越えようやく目指す間島省延吉県の最西端駅亮兵台についたのはその日の夜半頃である。

同駅は既に朝鮮人避難民の天国である間島省の一部であると共に私の目指す延吉県の最西端駅でもある。

その為同駅には夜中にも不拘同地方の朝鮮人有力者達が多数出迎え、列車より降りた避難民達は一応村の朝鮮人公学校に収容する手筈になっている様子であった。

私も様子が判らぬ儘そのまま避難民の列に加わり一緒に歩み出したが、途中図らずもその出迎人達の話が耳に入った。

「まさかこの中に日本人が紛れこんでいるような事あるまいな」と言っているのである。

私はその言葉を聞くと同時に何気ない素振りで早速隊列を離れ、夜陰を幸い人家の軒先を伝って村外れに脱れ、もうこんな処にもぐずぐずしては居られないと京図線の路線を探し出しその上を東方に向って歩み出した。

数週間前までは同胞扱いにしていた朝鮮民族がもう同胞でもないと判れば、比較的簡単に考えていた県内の逃避行も仲々容易でない事になる。

まして大概の屯長は顔馴染だなどとは言って居られない、顔見知りが却って危険となった。

食料は折角敦化で大量に仕入れたが昨夕刻列車上で強奪同様とられてしまい、残りは僅かだが又人里に出れば途中で味を知った玉蜀黍もあろうし、又真くわ畑もあるだろう。

それに大体の地形は殆んど知っているのが何よりの強みだ。

こんな事を考え乍ら相変らず線路上を歩き続けていたが、夜明け頃延吉県の西端都市明月溝の郊外近くに着いた。

救化飛行場に収容されて数日後に部隊移動の噂が立ち糠喜びした思い出の土地であるが、現状はどうなっているか全然判らない。

勿論在留日本人は一人も残っていないだろうが元来が県の治安上の要点だったので十数回も訪れた事がある。

しかし現在では顔見知りが多い事がかえって危険だ。

うかうか街中は歩けない。

地形を知ってる山裾を迂回して茶条溝に出る事にした。

茶条溝は京図線の明月溝、銅仏寺の中間駅で長い在勤中にも余り立寄った事のない土地だが戦争が苛烈化し牛豚肉の品不足の際、この部落では専ら食用の為犬を多数飼い附近小都市に売歩いたと言う話を耳にはさんだ事がある。勿論真偽の程は判らないが部落が近くなってくるとそんな話が思い出されて来た。

コレヤンの名札はつけているが部落の有力者に顔馴染の者も居る。

念には念を入れろで矢張り部落内の道は敬遠しこの村を通り過ぎた。

しかし村を過ぎれば知る人もあるまいから又県道に出て次の小都市銅仏寺に向って歩き続けた。

相当に頑張り続けたが着いた時はもう正午を過ぎていた。

身体も相当疲れているので附近の玉蜀黍畑にでも入って一休みしようとも思ったが目的地まではまだ四十余キロもある。

どうしても明日中には辿りつきたい。暫時街はずれで小憩の後更に元気を出して次の目的地老頭溝に向って出掛けることとした。

次の街老頭溝は元日本人経営の天宝山鉱業所の入ロに当るので相当数の日本人も居住していたが、朝鮮人天国の間島省では珍らしく満人の多い街で、又街の形態も中心部は純然たる満人街だ。

しばしば街の入口で色々考えて見たがもう哨兵も構う気がなくなった。

それに満人の多い街だから又何とか言い抜けも出来ようとその儘市街地を通り抜ける事とした。

ちらほらソレン兵も見えるが比較的街の様子が落付いている。

又自分が心配していた事柄もどうやら杞憂のようで誰も私などには注意を払っていない。

久々にゆっくりした気分でこの街を通越した。

次は大図鉄道の起点朝陽川、まだ数キロの距離があるがそこまで着けば目的地延吉にはもう十キロだけだ。

どうしても今日中に朝陽川までは行きたい。

まるで物の怪にとりつかれたように、疲れた軀に鞭打ち鞭打ち、又歩き続け歩き続けようやくその目的地朝陽川に着いたのはその日も大分更けた頃であった。

此の地点は京図線から龍井、開山屯に通ずる鉄道の分岐点に当る為旧満鉄関係の施設が多く、従って日本人も相当数居住し私の同郷人土井さんの家もすぐ近くにある。

だが今は街の様子がすっかり変っている。

話によると近傍の日本人は全部日本人小学校に収容されていると言う。

或は土井さんもいるかも知れない、又知人の誰かしらに会えば或は延吉方面の情勢も判るだろうと、急いで日本人小学校へ行って見た。

ところが門前を警備している居留民の男たちは絶対に私を門内に入れないと言う。見ればなる程、コレヤンの標識を胸につけているし、又御面体もどうやらこの民族に似通っている様だ。

言葉をつくして日本人であると話し又標識の件も色々説明したが、頑として聞き入れない、尤も風態を見たら誰でも警戒するだろうし又言葉と言ってもこの附近の朝鮮人には、東北生れの私などよりよっぽど流暢な者も居る、言葉だけでは信用も出来まいし又風態を見れば疑われても無理もない。

しかも時刻も時刻だ、もうこれ以上説いても絶対無駄だと悟ったから私は

「それではもう結構です、どうせ私はこれまで山に伏し野に寝、野宿ばかり続けてきた人間だから別に中に入れて貰わなくても苦痛ではない。反って今まで人の目を怖れ夜昼ゆっくりする暇もなかったが、今此処で貴方達に見張って貰って安心して眠れる事なぞ望外の幸福です。色々とお騒がせしましたがどうぞ御免下さい」と言ってその儘道路の向側に寝転んでしまったから相手も一寸は呆れたらしい。暫らく仲間同志で何やらぼそぼそ話し合ってるようだったが私もその儘寝入ってしまった。

丁度東の空がようやく赤く染め出した頃である。

私は自分の耳許で何やら話している人声によって目を醒した。

見れば昨夜私の入門を断った警備員とその仲間らしい。

「成る程これが昨夜の男か、しかしほんとうに日本人かも知れないな」等と話していたがその中に

「もし、もし」と私の方へ話しかけて来た、そしてもしほんとうに延吉へ行く人なら、今延吉、朝陽川間の道路は全部ソレン軍に占拠されて、昼夜とも一般通行は禁止されているが、夜明け頃の今時分なら何とか通行出来るとの話だから今すぐこれから出掛けて見たらどうか」と言う、満更ら出鱈目とも思われないので、私は早速その好意を謝しすぐその場から出発する事とした。

出掛けて見ると成程道路の両側には隙間もない程ソ連軍の幕舎が立並んでいる。

少々薄気味悪いがええ儘よとそのまま歩いて行くと所々にソ連軍の歩哨が道路際に立って道行人を監視している。

仕方ないからその前を通る時には全くの白痴を装いわざわざその傍に近づいて、意味のない笑顔をしたり又口の中でぶつぶつ判らない言葉を呟いて見せたりした。

ところが何処の歩哨も言い合したようにニヤニヤ笑い乍ら手を振り振り向う様から追い払ってくれる。

全く思いがけない簡単な通行手形だった。

これに味をしめた私はその後は殊更らに道路を右に寄り左によろけ又ぼんやりと用のない処に立止って左見右見を繰り返して見せたり全く白痴の如く振舞って無事目指す延吉街に着いたのは、忘れもしない駐屯地出発以来既に一ケ月を経過した昭和二十年九月十日午前十時頃であった。

しかしようやく苦労して辿りついた延吉の街も決して我々に安穏に日を送らしてくれる街ではなかったのです。前述のようにこの街は在満朝鮮人の天国間島省の省都である上終戦直後現北鮮首相金日成の指令により蜂起した朝鮮独立青年隊の手によって省公署、県公署の高級日本人職員全員日本大使館事務所長外各界知名日本人の殆んどが終戦と同時に虐殺され或は拉致された儘行方不明になっているなど略々全滅同様の状態になり殊に旧日本領事館関係者には徹底的な粛正が加えられ同族の朝鮮人たりとも主要役職にあった者は一人残らず抹殺されている有様で兄の家族と共に旧日本小学校の一隅で細々と生をつないでいた自分の家族と共にお互の無事を喜び合っていられたのもほんの束の間に過ぎなかったのだ。

翌々日頃同地朝鮮人会からこの学校は今後朝鮮人子弟の公学校として使用するから即刻立退けとの命令を受けた。

当時同市街に在った日本人の家屋は既に大半原住民に占拠され残された少数の家屋も徹底的な掠奪の為僅かに残骸を止めているに過ぎない有様で満足に残ってる家屋なぞある筈がない、我々も万己むを得ずまだ方々に散在している個人宅か又は集団で残っている各官公庁の社宅居住者に無理に頼んで同居させて貰う外絶対に方法がなかったのだ。

私達兄弟も元百草溝分館在勤時代の知人である東野さんにお願いして旧省官舎の同氏宅に全員同居させて貰う事になった。

しかし東野さん親子三人暮しの居室に例え部屋数が三部屋あるにしても私達十一人の家族が一度に転げ込んでしまったのだ。

通常の社会常識では全然考えられない事だが当時の日本人間ではそれが通常一般の事柄で他に何等の方策もなかったのである。

これでどうにか当座の住いには有りついたが其後すぐに現れ次第に数を増し飽く事もなく我々の血肉を絞り生活を破壊し去っていったのは、昼夜の別なく我々の居宅にトラックで押しかけ(道案内は全部朝鮮人)現金は勿論貴金属時計ラヂオでも目星しい物は洗いざらいに強奪して回るソ連兵の残虐だった。

二重窓に厚板を釘付けにし有刺鉄線を張り巡らしていてもスコップで抉りとり畳を上げ米櫃を逆さにし植木鉢の底まで探る徹底した傍若無人の振舞を我々は只呆然と手をこまねいて見送っている外致方なかったのだ。

又女性は老若を問わず髪を切り男装しなければ身を守られない悲惨極まる世の中だった。

しかもその上更に青壮年の男には連日のようにソ連軍の使役の為の人間狩がある。

一旦連れて行かれたが最後終夜労働だろうが二十四時間労働だろうが一向にお構いない。

終日牛馬のように勝手気儘にこき使われる。

私も病院の水汲みの為夕刻から夜明けまで一刻の休むひまもなく続けざまポンプを押させられたり又寒中岩石のように凍った山の土を堀り電柱を立てる労役に使われたり数限りない経験がある。

結局我々は引揚の為同地を離れた翌二十一年八月二十五日まで敗戦の代償として国に代り戦勝国軍隊の為無償の労役を無制限且つ年中行事のように連日強制されていたのだ。



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