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老兵敗走記  作者: 下田 信
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第一章 敗残記

掌櫃的(ジャングイテ)、掌櫃的」

時ならぬ時刻に、只ならぬ苦力頭金太鳳の呼声に暁の夢を破られたのは、昭和二十年八月九日未明、東満地区平陽駐屯第二七〇部隊現地自活係仮眠室内の事であった。

元来がたとえ苦力頭と雖も絶対に立入りを禁ぜられている起床時間前の兵舎内しかも部外者の無断入室は固く禁止せられている経理関係事務室の事だ。不審と腹立たしさに不精無精と身を起した私は、しかし苦力頭の平素に似合わぬ真剣な表情に逢うと一瞬何かの緊張を覚え

「何かあったのか?」と問い糺した。

ところが苦力頭の答が又意外なるもので

掌櫃(ジャングイ)我的娘婦鬼(うちのかない)今すぐ実家に帰ると言っているんだよ」と言う。

それで私は途端に二、三日前苦力頭から話のあった、先月末頃部隊の手で苦力頭の宿舎に若干手を入れてやった御礼に、是非一度経理部関係の人達を家に招き一杯呑んで貰いたいと言っていた日が丁度この日に当るのでさてはその事について何か細君とごたごたを起し夫婦喧嘩の末がこの始末かと早合点し

「何だ、又太々(タイタイ)と一丁やったのか」と軽く言うと苦力頭の答は又ちぐはぐで

「いや戦争が始まったんですよ」と真面目な顔で言う。

勿論それまでにも一見社会情勢の変化などには一向無関心のように見受けられる現地人の間には、時に辺境に駐留する部隊将兵等には到底及びもつかない程の情報の正確さと敏速さとを持ってる事があり、間々一驚を嘆する事があるにはあったが、それにしても戦争が起ったとは余りに突飛に過ぎる、半信半疑我が耳を疑い乍ら

「馬鹿を言え、何が戦争だ、戦争なんぞ起る筈がないではないか」と言うと

「掌櫃こそどうしたんだ、あの飛行機の音が判らないのですか」と訊く。

そう言えば何かしら早くから遠くの方で、飛行機の飛んでるような音を夢うつつに聞いたような気もするし、又遠雷のような轟音も時々断続して聞えたようにも思われる。

だが、当時の状況からは別に他になんら考え及ぶ格別の資料も持合せてはいないのだから仕方なく

「あれはお前日本の飛行機が演習の為に飛んでるのだろうよ」と答えると

「掌櫃は日本の飛行機とソレンの飛行機の音の違いが判らないのですか?全然音も違うし速さも違うではないですか、それに第一日本の飛行機が何故自分の領土を爆撃するんだ」と仲々理屈に合った事を言う。

万更らの出鱈目とも思えないので、大急ぎで身仕度を整え又隣の馬野上等兵もゆり起して急ぎ舎外に出て見ると、成程苦力頭の言う通り、遙か南方彼方の山の梁線上に、恰も黒胡麻をまき散らしたように点々と飛行機の群が浮んで見える。

しかもその飛行機はただ単にソ領満領を往復しているばかりではない。

右方遙か薄明の空にうかぶ山嶺附近には、既に朦々たる黒煙が立ち込めて、しかもその黒煙を引裂くように断続的に炸裂する尖光が見えるのだ。

その方向は紛れなくも当地方唯一の炭田地帯がある筈だ。

事態は既に明白である。

最早や一刻の猶予もならない。

だが当時ソ満国境各地に散在する駐留部隊は、すべて純粋の留守要員のみで何等国境警備に要する装備は勿論、訓練すらも全く受けていなかったからこのような火急の事態に立至っても、これに対する応急措置などは何等取り得なかったのは、むしろ当然の事であったのだ。

つまり当時南方戦線の苛烈化と共に、所謂関東軍の精良と自負していた実戦可能部隊はすべて南方への転進を終り、残留部隊の主力また戦線縮少を企図した軍の命令により、既に演習を名目として数ケ月前から、後方第二線たる旧南満、東支鉄道沿線附近に陣地構築の為、後退していたのであるから、これに連絡してその指示を得る等の事は事実上絶対に不可能であり、従って留守部隊に於ては下士官兵は勿論当直将校と雖も一般市井に於ける弥次馬同様、只呆然としてこの事態の推移を見続けているのみより他致し方なかったのだ。

しかし一刻を出でずしてその地獄絵図の惨状は部隊自身の上に降りかかってくる事となった。

それまで東西に往復して炭田地帯の爆撃をくり返していたソレン編隊機の一群が、突如方向を変えたかと思うとその儘北に進路をとり、丁度我々の謂集している兵舎の方に向って直進してくるではないか、

「あッ、星のマークが見える、アメリカの艦載機だッ」一人の兵士が頓狂な声を張り上げたその瞬間だった。

突如機首を下げた編隊機の一群から一斉に火箭の様な機銃弾の雨が注がれ、更に兵舎に向っては小型爆弾の一斉投下が行われてしまったではないか。

其後の状況については語るも面映ゆい位のものであった。

根が作業不適格者として取残された現地召集の老年兵、それに所謂万年一等兵と称する極め付の素質不良者ばかりの留守部隊の事だ。軍人の職務本分など誰にもわきまえあろう筈もない。

ただおのれの身の安全を図ることのみに心を奪われて、互に押し合いへし合い我先に我先にと安全地帯を求めて右往左往に逃げまどってる姿は、これがむき出しにされた真の人間の姿でもあろうが、又一面緊急時に処する軍人の態度としては、まことに不可思議きわまる光景の一端でもあったのだ。

部隊が確たる信念もなく、取敢ず陣地構築の為図佳線沿線林口附近山腹に駐屯する本隊に合流すべく阿鼻叫喚の巷と化した兵舎を出発したのは既にその日も正午に近くなった頃であった。

部隊はもともと輜重兵の車輛部隊であったので平常時に於ては全部車輛を用いていたのであるが留守部隊には連絡用の二車輛を残してあったのみで他の車輛は全部本隊が作業を続けている林口、八道阿子の中間山麓地帯に出動しているので部隊の行動は全部徒歩となった、しかし事前充分の準備を整え又確固たる目的を有する行動と違い全くの突発的変事による言わば逃避行の外ならぬので、その装備なども各個ばらばらで或者は食料其他必要以外の私物をも携行し殆んど身動きも出来ぬ人もあれば、狼狽の為自分の装具必需品も忘れ着のみ着のまま難民同様の姿で隊列にもぐりこむ者など、申訳にも部隊の行進などとは申されぬ有様であった。

殊にその時隊内に流れだしてきたソ連戦車隊が既に兵舎数キロの地点村落附近まで迫っているとの風説は、部隊将兵の恐怖心を一層かり立てた上更に倉庫其他爆撃を免れた兵舎焼却の為残留した準尉以下十数名の要員が予定焼却時間を待ち切れず即時焼却を初めたので後方より炎々と燃え上る焔と黒煙とが益々隊員の逃足を早めさせる結果となり、既に数キロにして相当数の脱落者が生じる仕末となってしまったのである。

最早や統制ある軍隊の行進などとは御義理にも申上げられない。

部隊はただ惰性による物の流れのように頼りない足取りを交互に且つ無意識に繰り返しているに過ぎない。

その頼りない足取りの先頭部隊が第一目的地である虎林、小城子を結ぶ穆稜鉄道の一拠点密山に着いたのは早やその日も夜半に近い頃であった。

だが先頭部隊の着いた同駅の状況も又意想外の物凄じいものであった。

即ち我々が駐屯していた平陽は只の軍事施設のみであったが同地は東満地区の一拠点であり従って多数の同胞が居住しその上この街の周辺には数多の開拓団が在ったのであるから駅前の広場と言わず道路と言わず寸分の余地もない程に避難民の婦女子が座り込みひしめき合っている様は到底この世のものとは思われない悲壮極まる景観だった。

そしてこの地獄絵図を更に明確に我々の眼底に残さしたものは、時折我々の頭上に飛来して投下するソレレン偵察機のいまわしい青白い照明弾の光芒だった。

我々は取敢えず一先ず同一部隊に属する密山駐屯部隊の兵舎に行く事にした、然し我々の行った兵舎は全くのガランドウで片隅に半分失神したような数名の兵士が居るだけだ。

事情を聞くとここを撤退した駐屯部隊は途中の炭礦街で特殊工人が反乱しているのを知らずに通り大半の者がその街で虐殺されたと泣き乍ら言う、全く身の毛もよだつ様な話だ。

我々はすぐ駅頭に引返すと避難民は既に万を越しそうな数になっている。

だが列車が果していつ出発出来るかは全く見通しも立たないらしい。

一先ず仮眠をとる事となったが、仲々疲れ切っていても、睡眠をとられるような状態ではない。

依然がやがや騒ぎ続けている中に数刻の時が過ぎた。未明に近い頃である、突然部隊員は全員乗車せよとの命令が出た。

しめたと躍りあがるような気持をして、指示された地点に行って見ると、列車は列車だが全然無蓋貨車のそれも半数以上は台車ばかりの貨物列車である。なあんだ貨物扱いかといささか期待外れではあったが、考えて見るとあまり贅沢ばかりも言っては居られない。

何分にも今まで殆んど不眠不休の状態で、ようやく此処まで辿りついたのだから、貨物扱いでも御の字だ、もう苦情も言うまいと乗込んで見ると、同じ思いの僚友達も満更でもない顔付で乗りこんで来たが、列車が走り出すと昨日来の緊張感が幾分でもほぐれ出してきたものか、早速鼻歌などを唄い出してきた者もいる。

だが実際にその安堵感に浸っていられたのもほんの数刻の間に過ぎなかった。

丁度列車が密山、八面通の中間地帯に差掛った時の事である。

我々は後方から超低空を以て追尾して来た三機編隊の追撃機の攻撃を受け、瞬間のまに最後尾から最前列にかけ撫で切る様に搭載火器の一斉掃射を浴びせかけられて仕舞ったのである。

まったくあッと言う一瞬の間の出来事であった。

しかもそれで終ったのではない。

駭くべき軽快さを持ったソレン追撃機は、前方に於て瞬時機を反転したかと思うと、そのまま前方より後尾にかけ再び死の雨を降り注がせるのだ。

将に赤子の手を捩じるとはこの事か、何分にも俊敏隼の如き追撃機と牛歩にも等しい貨物列車の取合せだ。

我々は最早やこれまでと観念した。

しかしその時列車はひどい軌りを残してその場に急停車した。

多分機関士の臨機の措置と思うが、我々にとってもここの機会こそはまさに生死の岐れ路でもある。

一斉に言い合した様に車外に跳び出し、附近の叢に身を潜め一先ずその目標から逃れることとした。

機は更に執拗にも数回に亘り攻撃を繰り返したが、幸いにもその時その地域一帯に峡谷特有の濃霧が発生し出したのである。

全くの天祐であった。

何分狭い峡谷の事である。流石のソレン機もこれは攻撃を諦めて折返し東方に飛び去ったが、引返して見た車上の光景には全く思わず目をそむけざるを得ない惨憺たるものであった。

即ちソレン機の装備していたものは、対戦車用の機関砲だったのである。

列車は随所に側板を打破られ、又台車上には至る処人頭大の大穴が打開けられている。

だがそればかりではない。

不幸直撃弾を受けた僚友の中には、殆んど形骸もとどめない迄に吹き飛ばされ、一片の肉塊と化している者や、大腿部より下半身をもぎとられ上半身のみ徒らに車上に転がり居る者など既に十数名の儀牲者を出し、更に半死半生の状態で車上に蠢めいている者など数うるに暇もない位だ。

しかも部隊には一兵の衛生兵も附随していないし、又救急薬品等も全く持ち合わしてはいないのだ。

此世の地獄とはまさにこれなるかと思われる誠に惨たんたる状景であった。

が部隊はそのまま出発する事とした。

本来ならば犠牲者はそれ相応に処置し、又負傷者には然るべき手当を施した上出発するのが常道であろう。

しかし部隊にはそれを為し得る方途なく、又為し居られる場合でもなかったらしい。

列車は濃霧に閉された山間の峡谷に、哀愁の汽笛を残して出発した。

列車の軌音が幸い各所で起っている悲痛なうめき声を、幾分かは消していてくれるものの無傷の者と雖も、受けた打撃は決して尠くはなかったのだ。

誰も一言も発しない。

又各自殊更らに顔を見合わせない様、思い思いの姿勢をとっている。

恰も葬送列車のような部隊輸送車が、ようやく目指す下車駅八面通に着いたのは、早や太陽も西に傾いた午後四時頃である。

遺体の処置をどうするかは誰一人口には出さないが、みんな各自の胸にこびりついてる最大の疑問だった。

だが隊長は下車駅に着くとまず全員を駅頭に集めてすぐ人員の点呼を命じた。

やはり出発時の四分の三に減っている。

しかも現隊列中の三分の一も程度の差こそあれみな負傷兵に属する人々だ。

目指す集結地はまだ三十余キロ山道を登った遙かの山腹にあり、しかも集結予定時間にははや数時間を残すのみとなっている。

隊長は一体この場の措置をどうするか、期せずして我々の目は一斉に隊長の口許に注がれた。

だが命令は躊躇なく下された。

即ちその内容は

一、本隊は今即時目的地に向って予定の行動を起す。

二、状況が状況だから寸時の猶予も許されない。途中相当数の落伍者が出る事もこれ又必然の事である。だが落伍者が出てもいちいちこれに構っていては部隊全体の行動が不可能となる。仍て各兵はたとえ自分の隣の者が落伍しそうな状態になっても、決してこれにかかわってはならない。

三、若し已むなく落伍した者は元気の恢復次第すぐ部隊を追尾するか、又は附近所在の部隊に申告してその区処を受けよ。

四、車上の英霊は敵の凌辱を許さぬ為、車輛と共に処理する。その為山本曹長は兵十二名と共に所要器械を受領して即時之を決行せよ。

これが命令の全要旨である。

だが既に駅構内にも又現隊列中にも殆んど歩行不能の者が相当多数に居る。

人命は鴻毛の軽きに比せよとは予てより軍精神の根幹なりと訓えられて来たものではあるがこれは又何をか言わんやだ。

部隊は割り切れぬ思いを各自の胸に秘め乍らも隊命に従い行動を起す事になったが、現に見せつけられた軍令の非人道的冷酷さに、つくづくと自分の身の上にも思い至されるものがあるから、仲々に勇躍途につくなどと言う気分の起るべき筈もない。

これも上命なれば致し方ないと半ぼ諦めの気持で言わるる儘行動を起しはしたが、何分にも不眠不休の二日間の行動の末、それも終始登り勾配の山坂道となればいくら気を張っても、隊伍は次第に乱れて各小クループに分れ更に疲労の度が加われば自然一人歩きとなり決ってまず第一に重量のある毛布背嚢等を捨て、更に長銃を捨て弾薬盒を外し、ついには軍衣まで脱いで肌着のみとなってしまうのが凡ての落伍兵に共通する現象となって来た。

平時ならば兵器を捨てる等と言う事はまさに即時銃殺ものである。

だがしかしこの人間の最後の生命を保とうとするささやかな努力に対して誰が軍律を云々する事が出来るだろうか。

全くこの世のさまとも思えぬ人々の最後のあがきだったのである。

しかしその最後の足掻きにも不拘、宵闇の迫ってくる頃になると、よろめく様に運んでいた足の動きも止まり、路傍に崩れ落ちる様にうづくまる兵士の肌着のみが、夜目にも白く浮いていたのが後々までも忘れられない生涯の印象となって残っている。

そして又これにも増して私の脳裡に深刻な印象を与えたものは、軍の移動につれて急拠避難を開始した近在日本人開拓部落の避難民の群である。

元々この近辺部落の青壮年に当る者は、いずれも既に現地召集を受けて残留者は例外なく老幼婦女子に限られていた為、軍の移動を知って即時避難を開始したのであるが、第二の故郷を捨て営々辛苦の上積み重ねた資産をそのまま放置するにも忍びずあらん限りの家財を持って家蓄を連れ、又その家蓄の背にも山の様に荷物を満載し、殆んど身動きもならぬ状態で動き出したのであるから、到底満足な行進を続けるなどは思いもよらず、我々落伍兵同様、大半の家財はそのまま途中に放棄し最後に至ってはついに家財のみならず、一家全員がそのまま路傍の叢にうずくまり、うつろな目差しで路行く人の姿を眺めているさまは真に無辜の民に与える戦争の罪果これに過ぐるものはあるまじと思われる憐憫極まりない悲惨なる状景であった。

私のクループになった炊事班の兵達も、元々勤務柄演習其他の訓練に加わる事が少く、平素から鍛練不足の人達ばかりであったから、或は第一番に落伍するのではないかと心配されて居ったが、携行物が少く又列車被爆の際にも奇蹟的に一人の負傷者も出なかった関係上、思いの外元気な姿で山麓まで辿りついたが、山坂道にかかって来ると流石疲労も加わって自然歩度も鈍り出したが山の八合目あたりに差掛るとやはり一人歩行困難の者が現れて来た。

それは平素から温厚な人柄で、班員からは宗匠の名で呼ばれていた俳句愛好者の馬野上等兵である。

それまで殆んど無言のまま私の前方を歩いていた同上等兵が突然ゆらゆらと身体の均衡を失ったかと思うとそのまま路傍の叢に倒れ込んでしまったのだ。

駭いた私が早速同上等兵の身体を抱え起し

「どうしたのか」と訊くと薄目を開いた同上等兵は

「俺はもう駄目だ、俺には構わず先に行ってくれ」と言って又ぐったりしてしまった。

しかしこの儘捨てても置かれない、私は前方に進んでいる班員の誰彼を呼び留めて大急ぎですぐ来てくれる様お願いした。

隊命によれば落伍者は誰でもその儘に見捨てて行くよう言いつけられている。

しかし現実に僚友が目の前で落伍したらなかなかそのままこれを見捨てて行かれるものではありますまい。

私は出来得る限り全員が協力してくれるよう山頂はもうすぐ近い事又全員が手助けをすれば又何とかなる事を力説した。

外の兵員の場合だったら或はみなそのまま行き去ったのかも知れない。

しかし同上等兵はかねがね班内でも人柄が好いので、誰からも好感を持たれている。

誰一人不賛成を言う者はいなかった。

それで我々は一応現地で小休止をして善後策を考える事とした。

そして一計を案じ附近から丈余の細枝二本を切り出して来て、その中央に同上等兵の両腕を縛り、丁度幼児歩行補助器の理屈による担架様のものを作り、交互前後から抱え上げる様にして歩いて見る事とした。

だが実際にやってみると仲々容易なものではなかったのだ。

第一に担ぐ兵自身も相当に疲れ果てている。それに相当の登り山坂追だ。

小休止、小休止を繰返している中に漸次後続部隊に追い抜かれ、とうとう最後尾に取り残される破目となってしまったのだ。

そしてようやく目指す山頂の平垣道路に出た時にはとうとう全員歩く気力を失いその儘路傍に座りこんでしまったのである。

しかし誰一人不平を言う者はいない、運は天に任せよだ。

我々はどうせ本隊への集結時間には遅れてしまったのだし、又この儘の状態でこれから更に本部跡まで数キロの行進を続ける事はもう夢にも考えられない。

どうせ全員落伍したのだから、あまりくよくよせずゆっくり今後の事を考えようと、全員そのまま傍の草原に寝転んでしまったのだ。

どれだけの時間が経ったのかは判らない、だが我々は全員横臥のまま各個銘々に、旧知旧友或は故郷の事などを思い浮べ乍ら、しばしの静寂に浸っていると、意外にも部隊の過ぎ去った方向から数条のヘッドライトが輝き、エンジンの音が聞えてくるではないか。

暫時夢ではないかと我が目、我が耳を疑ったが夢ではない。

又反対側から来ればソレン軍かと疑うが自陣の方からである。

我々は一斉に路上に飛び出しその光芒に身を曝したが相手の方も駭いたらしい。

何分全然人の居らない筈の地点からいきなり人影が飛び出し、それも間違なく日本兵だ。トラックは急ブレーキをかけると同時、運転台から半身を乗り出した先頭車の男が、

「何だお前達、日本兵か、どこから来たんだ、そしてどこへ行くんだ」と大声で言う。

そこで我々が手短かに今までの経緯を話すとその男は呆れ顔で、

「何だお前達は二七〇部隊の落伍兵か、呑気なもんだ、お前達のこれから行くと言う部隊本部などはもうとっくに撤退してもう誰も居らんよ、それにお前達何も知らないようだが俺達は工兵隊の橋梁爆破隊で、すぐそこの橋の爆破に来たんだよ。

もう少し愚図々々しているとお前達も一諸に吹ッ飛ばされるか、或は向う側に取り残されて置いてけ堀にされるところだったな、とにかくこんな処に居っても仕方ないから、もう少し行った路の曲り角あたりで待っていろよ、作業が終ったら途中まで乗せてやっても好いからな」と願ってもない有難いことを言ってくれる。

全く地獄に仏とはこの事かと我々は一度に元気を取り戻し、指定の場まで辿りつき、橋梁爆破の光景を傍見することとなったが、暫くして起ったその炎光と爆音とを聞いているとふと図らずも、その向側にまだ取残されている落伍兵の誰彼、或のまだ蜒々と続いている筈の開拓団避難民のうつろな目差しなどが一瞬脳裡に浮び其後忘れ得ぬ思出の一つとなった。

私達は工兵隊の好意によりその地点より数キロの部隊本部跡、更に部隊本部移動先と目される図佳線林口の街を眼下に見下せる平坦地までトラック上の人となった。

普通徒歩行進ならば優に一日行程以上の距離である。

工兵隊は平坦地の三叉路を右折して自隊に帰るので、我々は厚くその好意を謝し再び目前に見える林口の街を目指して歩み出した。

大体の目算距離は約六キロ位だ。

途中道路の右側に満人の集団部落があったので、私達は大体の情勢を聞く旁々食糧の調達をしようと思ってその部落に立寄った処、全く思いがけなくも自隊のしかも同一班員だった主計兵石黒伍長に会ったのだ。

同伍長は車輛修理の為兵二名と共にこの部落に立寄ったのだと言う。

全くの奇遇を喜ぶと共に、我々は以後の行動は凡てこの車でする事が出来たのだから、図らずも生じた馬野上等兵の落伍がこの結果となり、人間万事塞翁が馬とは将にこれなるかとその幸運を喜び合った。

その後の行動については格別の事もなく続けられたが、目的地林口についても部隊本部は何れかに移動したのかその行方も判らない。

そればかりか我々と同時行動を起した留守部隊の消息すら判らない。

この上は更に南下して牡丹江に出るより致方ないので、我々はそのまま図佳線治いに牡丹江に向け出発したが、その行進中考えさせられた事は部隊本部はいずれの場合に於ても後続部隊には全然構わず、自分等のみ勝手に安全地帯、安全地帯へと後退し残留者には何等の連絡も指示も与えない為、後続部隊の撤収には一層混乱と無秩序を余儀なくせられたことと、居留民保護の重大使命を帯びている駐屯部隊がその撤退に際して例え軍の行動秘匿の必要ありとは言え、在留民には何等連絡もなく又指示を与えず自己等のみ逸早く安全地帯への退避を繰返した為に、結局最終的且つ最初にソレン軍の鉄靴の下に踏み蹂じられた者は、まず第一に軍により保護されるべき第一線開拓部落民であった事は、今次戦史の最終頁に終生拭い切れぬ汚点を残したと言っても、決して過言ではあるまいし、又このことは後日耳にした事であるが、新京より第一番に鮮満国境の安全地帯に退避したものは、関東軍司令部員及びその家族だったとの風評と共に、国民の肝に銘じて永く忘れ得られない事柄の一つでもあったろうと思う。

林口から牡丹江に向う図佳線沿線は、我々の駐屯地である平陽などから見れば地域的には第二線地帯であろう。

だが現代の戦争に於ては現実的に第一線第二線地帯の存在しない事は、既に我々が今まで通って来た市街地と言う市街地が、すべてソレン機の爆撃を受けて半壊の姿を晒していた事からでも証明出来る筈だが、我々はこの沿線を行進中誠に奇妙な光景に遭遇した。

即ちそれは現に我々が支離滅裂の状態で敗走を続けているに不拘、途中居留民の婦人会員達が平時軍の演習時などに見られるように、白い割烹着に会名入りの襷をかけ、普通時と異ならない態度で湯茶の接待をしていたからである。

この人達には数刻後に必然に降りかかってくる身の災禍などには全然気もついて居らぬ様子だったが、これも受ける私には何かしら心に割り切れぬ残屑が残り人知れず当てもない憤懣の情が湧いてくるのをどうすることも出来なかったのだ。

平陽から密山へ、密山から八面通へ、八面通から本部跡へ、本部跡から林口へ、林口から牡丹江へと本部の所在を求め行動を続けて来た我々が、ようやく本隊の一支隊である児島少尉の指揮する一小隊に遭遇したのは、駐屯地出発後三日目に当る八月十一日夕刻、牡丹江郊外掖河に於てである。

だが我々も撤退した留守部隊の全部ではない林口から牡丹江に向う途中邂遁した数車輛だけであった。

取敢えず我々は児島小隊に合流してその指揮下に入ることとなったが、部隊本部初め各隊の所在については児島少尉自身も全然把握していないと言う。

後続部隊は其後三々、五々と集って夜半頃には大半の部隊が略集結を終ったらしいとの噂が流れて来た、又本部将校の誰彼も無事着いたらしいとの風評も立っている。

それでは我々も出発後四日目でどうやら部隊らしい格恰がつくのかと、幾許かの安堵感も手伝って一同は久々に車上に安眠を貪る事とした。

処が翌朝はまだ夜も明けやらぬ中からソレン機が市街地の爆撃を開始した。

図佳線及び東寧、ハルピン方面を結ぶ鉄道の交叉点で、東満唯一の要衝でもあり又在留邦人も万近くを数えていた筈だ。

勿論現在は既にそのほとんどが避難の後で空家同然の街並ではあるが、多くの知人もいた街であるし又相当馴染ある街の風景でもある、だが事態はそんな感慨にしたっていられる状態ではない。

部隊内には既にソレン戦車隊が市街東方数キロの地点まで迫っているとの噂が流れ出してきている。

十二分にあり得べき事であり又格別に不思議な話でもない。

だがしかし我々が其日の正午頃受取った部隊命令だけは全く開いた口が塞がらず我が耳を疑うと言った得体の不可思議極まるものであった。

即ち我々は八月九日ソレン参戦以来初めて部隊として作戦命令を受取った。

そしてその内容と言うのは

一、戦局は諸兵既に承知の通り、今や最終的段階に突入した。即ち本牡丹江周辺は凡てソレン軍の重包囲下に在り絶対に脱出の途はない。

二、仍て我が部隊は地区司令官の区処下に本地域を死守せんとするものである。故に各隊は各々その管掌する全車輛を以て本市街東方十二キロの地点に在る、軍弾薬庫に至り能う限りの弾薬を受領し各周辺地区に帰り弾薬引渡しと同時、各到着部隊の区処を受け当該部隊の特攻隊員としての任務に服すものとする。

三、行動に移るについての装備は兵は凡て手榴弾三発及び糧食一日分とし他は絶対に携行してはならぬ。尚現在携帯する銃器其他は各隊長の指示により適宜処埋することとし、又特に敵謀報員の活動を妨ぐ為書信其他の私物は断じて携行してはならぬ。

四、行動開始時間は別に指示するが各隊は随時其の行動に移れる様即時準備の事。

以上の通りであって文言其他には別に異存がない。

しかしその行動の目的地である市街東方十二キロの地点とは、既にソレン軍の進出地域である事は命令第一条後段で明かに示されている事ではないのか、結局命令と事態とには完全に一日以上のずれが生じているのである。

思わずも僚友と顔を見合わしたがその眠底にはいずれも

「何を間抜けた事を」と口には出さないがみな極度の憤懣と侮蔑の色を浮べている。

が部隊命令となれば各隊長はこれを遵守するより致方もあるまい。

思わずも天を仰いでその碧く澄み渡った空の色を泌々と味わった。

「鳴呼、俺もとうとうこの土地が終えんの地となるのか、図佳線開通以前から知ってる街で又知友も多かった街であるが、今は全く無人の街と化したこの廃墟の街で、俺も自分の一生を終って仕舞うのか」

思わずの長嘆息と共にそんな思いが一瞬脳裡を掠めて過ぎた。

平常では見られない光景である。

装具の処理と言っても格別の方法などあろう筈もない。

各隊は各々その位置に帰ると一斉に装具を解きその儘路傍に積重ね出した。

尤も留守部隊からここまで辿りついた者の中には、殆んど装具と言う装具をしていない者が大半だったので、何程の作業もなかったけれど流石に私物の放棄だけは夫々気にかかる様子だった。

私も格別の物とてはないが召集以来肌身離さず持ち続けて来た二人の子供の写真だけは、例え命令とは言え仲々そのまま路傍の坭の上に捨て去るにも忍びず、ついその儘元の懐中に忍ばせてしまったが、これが奇しくもその後の散々な難行苦行にもとうとう私の肌をはなれず、現在まで残っていて私の昔を偲ぶ唯一のよすがとなっているのも不思議と言えば不思議なえにしではある。

時刻はどんどん過ぎて行く、愈々出発十数分前になった。

突然、後から私の肩を叩く者がいる。

ふり返って見ると予て駐屯地在隊中一方ならぬ御世話になった炊事班長桜井軍曹である。同軍曹は何気なく私の傍に寄ると低い声で

「おい通訳、俺の車が一番調子が好いから俺の車に乗れよ、構わんからきっとだよ」

と特に念を押すと笑顔を見せながら元の方向へ引返して行った。

同軍曹が駐屯地在勤中にもよくあった事だ、つまり行軍の際私に道案内をさせる為と現地人との通訳をさせる為にだ。

どうせ出発となればトラックの荷台上でゆられて行かねばならぬ、しかし班長の隣なら助手台だ、どれだけ助かるか知れない。

私もこの話には大いに喜んで早速それに従う事とした。

しかし後日考えるとこれが私の其後の運命に大きな変化を与える素因となっていたのであるが、当時の私にはそれを予測出来る筈もない。

愈々部隊は出発した。

私は言われる通り桜井班長の隣りに席を占め大いにその幸運を喜んでいた。

忘れもしない、昭和二十年八月十二日午後二時三十分である。

部隊は総車輛二十四輛人員二百十余名の部隊総員であった。

私の乗った桜井班長の指揮する車輛分隊は、従来からも炊事班として最後尾につくことが慣例になっていたが、その日も最後尾班として出発した。

つまり桜井班長の車輛は後尾より三輛目だが続く二車輛はいずれも同班長の分隊員として行動する事になっていた。

車隊は一直線に市街地を横切り郊外に出て一路南方に向け車を走らせている。

あと三キロ程で路は三叉路となり、そのまま南下すれば寧安、東京城を経て間島省方面或は鏡泊湖、敦化に達する縦貫道路で、我々の目指す弾薬庫はその三叉路を左折して東方に進路をとる筈だ。

だが私の乗った桜井班長の車は、その少し手前左方から小高い丘が張り出し路は完全な半円径の迂回道路となり、前方の視界からすべて遮蔽される地点に差掛ると車はその儘その位置に急停車してしまった。

何事ならんと不審気に下を覗きこんだ車上の兵達には無関心に、暫らくエンジンの調子を試していた桜井班長はやおら運転台から降り立つと車上の人達に向って

「おいみんな、エンジンの故障だ、修理には十五、六分かかるからその間みんな車を降りて休んで居れ、そしてその事を後続車の連中にも伝えろ」と言って修理に取掛ったが修理は仲々進まないらしくエンジンを覗きこんでいる班長の後姿はいつまでもその儘だ。

無論先頭部隊はもうとっくに三叉路を通り越している筈だ。

班長の言った通り正味十五分位たつと車は又エンジンを轟かして故障は直った様だ。

早速出発したが元より先頭部隊の車は影も形も見えない。

そして先頭部隊の通った筈の三叉路の東行きの道路上には、既に着剣した数名の哨兵が配置されて周辺を警戒している。

その上我々に対してこの道路はもう朝から絶対に通行禁止になっていると言う。

我々がついさっき二十余台の車輛隊が弾薬受領の為この道を東寧方面に向けて通った筈だがと言うと、飛んでもない我々は早朝からこの地点で立哨を続けているが、そんなものは絶対に通した覚えはないと頑張る。

尤も直行して南方へ向う車は軍用と民間用とを合せ何十台も通ったからその方なら我々も気をつけていないと言う。

それでは一体本隊もそのまま南下してしまったのか、勿論桜井班長は当初から、例え本隊が隊命通り弾薬庫に向っても自分の分隊だけにはそんな自ら死地に飛び込む様な愚は絶対にやらせまいと既に出発以前から万般の準備を整えていたことは後刻すぐ判った事だが、本隊も亦隊命通り動いていないとすれば、又方途も考えなければなるまい。

だがこの道は一端この儘南下してもすぐ途中右折して一面坡、ハルピン方面へ向う道と更に南行の道とに岐れている筈だ。

果して本隊はどのコースを選んだだろうか等と話合っていると傍にいた哨兵が、

「弾薬受領なら温春の飛行場ではないか、あそこなら今飛行隊が総動員で武器弾薬を東京城に運んでいると言う話だが」と言う。

格別信頼出来る話でもないがこの儘ここに止まっているわけにも行かないから、一応その飛行場へ行って見る事とした。

このまま進めば丁度寧安に出る途中の左手にある筈だ。

我々は又一路縦貫道路を南方へ向け走り出したが目指す飛行場は思いの外遙か遠隔の地に在った。

両側を小高い丘に囲まれ丁度自然の門構の様な同飛行場の入口に辿りついたのは、既にその日も夜半に近い頃であった。

全然初めての地域しかも夜半暗闇の中であるから、兵舎其他建造物が果してどの方面に在るか皆目見当がつかない。

何かしら遠い飛行場の一隅から騒々しい人声が盛に聞えてくるのだから兵隊のいる事だけは間違ないがさっぱり様子が判らない。

見れば門入口近くに哨舎がある。

中に入って懐中電灯で照して見れば仮眠室には数枚の布が敷いた儘になっているし、又今しがたまで人居た気配もする。

何にともあれ仮眠室があるから、少し様子の判るまで休憩でもとる事にしようか等と話合っていると、突然飛行場の東北隅あたりからヘッドライトを照らした二、三の車輛がこちらに向って一目散に走り出して来るのが見える。

全員が慌てて哨舎外に飛び出して見ると、これがトラックかと思われる程の猛烈なスピードだ。

我々も駭いたが、ヘッドライトに照らし出された我々の姿を見た車上の人達も駭いたらしい。

直前でつんのめる様に急ブレーキをかけた車輛の上からいきなり

「何だッ、お前達ッ何をうろうろしてるんだ、何処の馬鹿共だッ」と怒鳴りつけるように言う、早速班長が

「弾薬受領の為車輛が二十余輛この飛行場に来ている筈だが」と話すと、

「馬鹿言うな、何が弾薬受領だ、この飛行場は間もなく爆発するんだぞ、我々はその為に来た工兵隊だ、愚図々々してるとお前達も一ころだぞ」と言い終えず門外目掛けて走り出してしまった。

我々もようやく事の重大さを悟り命あっての物種と、それに続いて一目散安全地帯に逃げ出したが、その時望見した爆破の光景だけは終生忘られない凄じいものであった。

即ち私達がようやく安全地帯と覚しい小山蔭に車輛を乗り入れた瞬間だった。

突然東北方の空が真赤に染ったかと思うと、例え様もない巨大な火柱がもくもくと沖天にあがり、それが一瞬止ったかと思うと地軸を揺がす様な大轟音と共に叩きつける様な爆風の嵐が我々を襲ってくるのだ。

砲爆撃其他多様の火薬類の爆発はそれまでにも度々見もし聞きもし、して来たがこの爆薬の大量爆発だけは全く前代末聞の凄じい光景であった。

しかもその巨大な火柱が間断なく次々と舞上っているのだ。

我々は全く生きた気持もなく、その叩きつけられる様な爆風から命からがら逢々の思いで逃げ去ったのであるが、途中逃げ乍らも万一時間が少しでもずれて工兵隊の撤退後にでも現場に入っていたら一体今頃はどんな結果になってるだろう等と考えると思わずに背筋の寒くなる様な気持であった。

寧安に着いたのは其日の夜明け頃である。

我々は何分にも心身共綿のようにつかれ切っている。

早速この街に適当な個所を求め一応仮泊する事にした。

見れば成程北鮮に大分近くなった為か、相当に朝鮮人も居住して居るらしい。

だが我々を一番に駭かしたのはこの未明に不拘、我々の到着を知ると方々から安白粉をつけた一見してそれと判る朝鮮人婦女子達が、笑顔を浮べて近づいて来た事である。

勿論日本人は一人も居る筈はないし、大部分の満人もみな近辺部落に避難して殆んど空家の様だが、この一群だけは平常の営みをそのまま続けているのだ。

しかもその媚を売らんとする相手が日本の敗残兵なのだ。

民族の根強さと言うか或は商魂の逞しさと言うか、兎に角私には一驚に価する光景だったが、更に駭いた事にはこの一群に迎えられて別に悪びれもせずそのままこれについて行った数名の勇士の現れた事である。

出発当時兵士はいずれも各手榴弾三発、携行食糧一日分との命令を受けていたのであるが、遠謀深慮の桜井班長は炊事班の名目によって出発当時既にシートの下に白米数俵、缶詰、清酒等相当量準備した外騎銃も数挺忍ばせる綿密さだったので、我々は其後の行動では何等給与上の心配は要らなかったのである。

小憩後今後の行動について色々意見が述べられたが結局誰が考えても元来た方向へ帰る人もあるまいから、私も極力この儘南下して京図線沿線方面に出る事を主張した。

或は私自身の心の奥底には知らずしらずに勤務地であり、又家族も住んでいる筈の間島省に一歩でも近づきたい心情がひそかに潜んでいたのかも知れない。

しかし何分にも土地の状況に少しでも通じている者は、私の外やはり現地召集兵でハルピン育ちの林一等兵より外には一人も居ないのだから、行先については余り論議の余地もなかったのだ。

我々は同地に於て数時間の休養をとり、元気も恢復したので正午少し前、次の行動に移ることとした。

行先は東満の一要地東京城である。同地には軍の貨物廠もある筈だ。

方向は依然南下の儘の縦貫道路だ。

僚友達は駐屯地出発以来数日を経過しているのだし、又安全地帯、安全地帯へと後退を続けているのだから相当ソレン領からは遠のいた様な錯覚を起しているらしい。

事実は満ソ国境沿いにその儘南下を続けているのだから、ソレン領との距離には幾許の違いもないのだが、先刻寧安で充分の休養をとり又朝鮮美人の御出迎えなどと言う思わぬ余興も伴ったものだから、段々と陽気を取戻しついには久々の軍歌なども車上から飛び出してくる状態となった。

運転台に座り続けの桜井班長もこれには少々苦笑の態であったが、全然安全地帯などではない事の判っている私には、到底他の人達の様にゆっくりした気分など起ろう筈もなかった。

東京城には午後三時頃着いた。

そしてその街に見られる爆撃の惨状には、車上の僚友達も再び現実の世界に呼び醒されるより外なかったのだ。

或は貨物廠がある為に特にソレン機の狙うところとなったのかも知れない。

街は半壊どころか殆んど全壊の姿で住民の姿も殆んど見えぬ。

一先ず貨物廠に行って見ることとした。

しかしそこに見られた光景に私は改めて人知れぬ憤懣の情にかられた。

何もソレン機にひどく破壊されていたからではない。

そこに見られる状景は当時内地に住む一般国民の方達には到底見せる事の出来ない意外な光景だったからである。

即ち当時一般国民にとっては最も貴重品だった衣料品、それもその頃には見るも珍らしい純毛のシャツ類が、大梱包のまま数限りなく坭にまみれて放置され、又砂糖の山が砂丘の如くうず高く積重ねられ、更に何十となく放り出された一斗缶入りのミルクの乳汁が大きな溜りを作っていたり、又我々一般兵士には縁もゆかりもない様な上等羊姜が足の踏場もない程取り散らばされているその隣には、特に直撃弾を受けたのか粉々に壊された箱詰の清価の残骸が山を為してる状態だ。

つまり貨物廠と言うものは軍のものではあるが、直接に戦争に関係するものや我々末端の兵隊共には殆んど無縁のものばかりの集積所と判ったからだ。

私が初めて召集を受けて入隊したのは虎林の山奥の四国丸亀部隊であった。

全く人里はなれた山奥で転属するまで半年間殆んど兵隊以外の人の顔を拝んだ事がない。

兵舎は半分土中に潜ったもぐら兵舎で隊内に堀抜き井戸があったが、冬期は炊飯用の水を汲み上げるのが精一杯で我々初年兵などは歯を磨く水や顔を洗う水にもありつけなかった事が再々だった。

一週間も二週間も毎朝晩同じ菜ばかりが続き、それも大半は干メンタイばかりで又お茶代りには楊柳の葉を干燥したようなものを出された、それに酒保と言うものが無かったので甘味品など拝んだ事もない。

古年兵達はこのもぐら兵舎で初年兵特に他国者の初年兵を苛めるのが唯一の娯しみとしているようだった。

私は万事動作が鈍いので毎日のようにこの古参兵達のオモチャにされた。

往復ビンタなどは毎日の日課になっていたので殆んど感覚がない位になっていた。

そして半年後被召集初年兵百名中入隊直後のリンチで頭を割られその儘入院を続けている男と目に一丁字もない通称熊さんと言う全身黒毛の大男を除く九十八番の序列で一等兵になると途端に現部隊に転属となった。

幸いに現部隊にはそんな蕃習もなく又召集前の職能も生かされて結講愉快に過せたが、こんなものを見るとつい入隊当時の地獄生活が思い出されてヒガミたくなるのだろう。

兎に角一応の情勢を知りたいのでまだちらほら見えている現地人を求めて近づいて行くと、言い合した様にみな一散に逃げてしまう。仕方がないので班長に話し私一人で街の様子を見てくる事にした。

まず市警察署前に行って見ると意外にも門前にはまだ日章旗が飜っている。

さては警察署員はまだ残っているのかと急いで門内に入って見ると、がらんとした事務室内には武装した二人の男が居り卓上には一升びんが二本並べてある。

そしてその男達は入って行った私の顔を見ると不思議そうな顔で

「おい兵隊、お前一人でまだ残っていたのか」と訊く。

それで簡単に事情を話すとその男達は大いに我意を得たりと言った顔付になり

「ああそうか、それは丁度好かった、我々は当東京城に最後まで残った日本人で今街を引揚げる為最後の乾杯をやろうという処だよ、さあ君も仲間に入って一杯やり給え」と言い更に

「言い後れたが俺はこの街の日本人会長でこの人はこの街の警察署長だよ」と言って私の目の前に卓上のコップを差出した。

情勢を訊くとこの東京城も矢張り開戦早々にソレン機の爆撃を受け全壊の状態になったので居留民は勿論駐屯部隊も既に鏡泊湖畔に撤退してしまった後だと言う。

様子が判ったので私も早速出されたコップを受取って乾杯の仲間に加わったが、何分にも国家の安泰を祈って一杯、国土の安全を願って一杯、更にお互の前途の無事を祝って一杯と僅か十数分の間に卓上の二本を平げてしまったのであるから、これが後刻ひどい思いをする素因とも知らず取敢えず会長達に御礼と別れの言葉とを述べ車隊に帰って早速この事を話したが班長としても格別の方法も考えられないので結局此儘で他部隊と同様鏡泊湖畔に行く事にした。

だが此地帯は今までの平坦道路と違って名にし負う山間の七曲り道路だ。

車輛の動揺も殊の外はげしい。

先刻の急激な乾杯々々がようやく効き目を顕して来たらしい。

段々胸の具合が変になってくる。

だが車隊の者達にはそんな事には無関係だ、屈折の多い山間道路を依然猛烈なスピードで走って行く、とうとう助手席にもたれかかった儘半分意識を失ってしまったらしい。

お蔭でその峻険な山坂道の難行軍も半ば夢うつつで通り抜けられたが後で桜井班長から、折角の道案内人が人事不省では困るよと一本釘を刺されてしまった。

鏡泊湖は由来山紫水明の仙境である。

日本の昔話にある竜宮城は実はこの湖であると真剣に伝えられているし、又私もかつてこの土地の故老からここが竜宮城跡であると言う古蹟に実際に案内された事がある。

だが我々の着いた鏈泊湖畔は凡そ仙境の名とはかけはなれた超々俗塵の凡俗の姿であった、つまり見渡す限りの地点にはすべて敗残兵の群が陣取りその騒音が山を覆い、見るに堪えない狂態が随所に繰り展げられているのである。

即ちどこの何隊は知らないが兵隊ばかりの一団が、半裸の姿で乱酔の上馬鹿騒ぎを演じているかと思えばその隣りでは着のみ着のままで逃げて来たらしい附近開拓団の婦女子達に酔態をさらけ出してふざけかかり、泣き出しそうな様子になるとこれに拍手を送って喜んでいる愚劣な兵の一群もいる。

全くこの光景には我々も一驚したがしかし考えて見ると、我々にしてもこの兵達と一歩三歩でただ逃げるだけで軍隊としての行動など何一つして来ないのだから、何も他を言う必要もなかろうと一先ず適当な地点を求めて宿営する事とした。

天幕こそ持たないが各車輛の防水カバーを拡げると丁度手頃な座席が出来上った。

糧食其他は既述の通り桜并班長の応変の処置によって充分に間に合っている。

又炊事の方はそれこそ本職の炊事班が全員そのままだ。

久々で味わった飯盒炊きの暖い飯の味は、駐屯地出発以来実に五日目で初めて味わった天の味だった。

周辺の乱痴気騒ぎは尚も続いているが、肝腎の必要な情報は全然何も判らない。

翌十五日はしよう事なしに鏡泊湖の底まで見える清澄な水で久々の戦塵を洗い流したり、童心に帰って湖心まで泳いで見たりしてこれまでの痛苦を忘れた一日を過したが、その日の夕刻湖畔散策中全く思いがけなくも思いがけない場所で思いがけない旧友に邂逅したのも忘られない其日の思出となった。

即ち元間島総領事館時代の同僚で其後北満に転勤となり既に数年を経過した同郷の友猿谷辰次郎君にばったりと会ったのだ。

同君は元々音に聞えた酒豪且つ柔道の達人で、数々の逸話を残していたが、特に三年制の弘前高校を四年で卒業し又幹部候補生として入隊した同僚が全部少尉に任官して帰ったが、本人だけは伍長の儘だったと言う話は、かねてから耳にしていた事であったが、湖畔で会った同君はやはり噂の通り肩に伍長の階級章をつけていた。

尤も階級の話になると向うはそれでも下士官様だがこちらは只の一等兵だ。

普通なら到底対等の話も出来ない筈だが、何分にも思わぬ場所で思いがけない旧友に会ったのだ。

私達は「あっ」と言ったまま暫らくは言葉も出ない程駭いたが、忽ちお互の肩を抱き合ってその奇遇を喜んだ。

話をきけば同君も数ケ月前召集を受けて東満の某部隊に配属になったが、一昨日の戦斗で部隊がばらばらとなり自分は兵四名と共にこの地区に紛れこんだが、多分本隊はまだ同方面にいるだろうから明朝再びその方面に引返して行くと言う。

それで私は極力自分達の通って来た途中の状況を話し、戦況も決して好くはないのだから何も今更ら元の方向へ行く必要もないだろうと言うと同君曰く、

「君、日本は不滅だよ、今少し位戦局が混乱していても終局の勝利は我方に来るのは絶対に間違いないからな、決して憂うるには及ばんよ」と昂然として言う。

これを聞いて私は「ははあ、やはり昔の儘の猿谷君だな」とそれに気がつくとこの名物男にはこれ以上自説を主張しても絶対に無駄だと悟ったので、その話はそれで打切りせめて一夕の別れでもと特に桜井班長に事情を話し、清酒一本の特別配給を受けこの英雄と鏡泊湖畔の夕闇の中で積る話に時の移るのも忘れる楽しい一刻を過す事が出来たが、これがゆくりなくも同君との今生の別れとはなったのである。

湖畔の狂態は其夜も終夜に続いた。

しかし翌十六日ともなれば周囲の状況も少々違って来た。

もっとも到着後三日目ともなれば、流石に乱痴気騒ぎに嫌気のさして来た者もあろうし又自分達の運命に一抹の不安を感じ出してきた者もある筈だ。

正午頃誰からとなく日本は休戦を受諾したとの噂が流れ出してきた。

だが大勢はそれを否定しむきになってそれを反発する兵も出ている。

「そんな事がある筈がないよ、誰かスパイが這入って態とそんな噂を言いふらしてるに違いないよ」

「階級は曹長だったが、そう言えば何だか顔付が変だったと言う人もあったよ」

「ああそれじゃ間違なくスパイだ、どっちへ行ったんだ捉えてやろうじゃないか」

等々の話声が聞えてくる。

何分にも当時の兵達にはまだ日本が降服する等と言う事は、夢にも考えられない事だったからその様に解釈するのも亦やむを得なかったであろうが、一切を無にして視れば一概にスパイの流言ばかりとは片附けられないものもある筈だ。

第一我々自身数年前に考えられた皇軍の精鋭などと言う言葉とは縁もゆかりもない徒輩に過ぎないのではないか、又物量戦と言われる現代戦に我々に支給される兵器の量が、質がどうであったか、更に銃後に於ける一般国民の生活状態はどうであったか。

私は応召前国境地帯に勤務して特に治安業務を担当した数年の経験があるが、当時既に一ケ分隊程度のゲリラ隊の蠢動に一ケ中隊の兵が釘付けになり、又密林地帯の行動には一ケ大隊の兵と雖も手も足も出なかった実例は十六年冬安図奥地に於て警察大隊全滅又翌十七年秋安図より引揚途中の八重桜部隊が福満村南方の峡谷に於て機銃掃射を受け全滅、その何れもがソ連の援助による金日成(現北鮮首相)一派のゲリラ隊の手によってであった。

決して日本の国力を過信してはならない。

其夜私は今後の情勢に対し独り充分に熟考してみた。

敗戦となれば事態の推移は明白である。

先ず戦争行為の停止と武装の解除、そして我々は差当り現在地に於てソ連軍の捕虜となり終局はシベリヤ行となる筈だ。

事態はもう絶対に猶予ならない。今の中に安全地帯への脱出を図る事のみだ。

幸い車輛もあるしこの儘敦化に向け路をとれば夕刻前には必ず京図沿線につく筈だ。

恐らくある地点まではまだ鉄道も開通しているだろうから群衆に紛れて新京方面に出れば後は何とかなるだろう。

外には絶対に活路はない。

しかし他の僚友達には恐らくこれに反対する人もいるだろうが万事は当って砕けろだ。

私は意を決してこの計画を班長に打開けて見る事に意を決した。

処が意外にも班長も又実は今同じような方法を考えていた処だと言う。

班長がその気なら外に誰も異存を述べるものもあるまい。

早速全員にその旨が伝えられ我々は明十七日早朝を期し、現在地を出発京図線沿線へ脱出を図る事に決定した。

周辺は色々な風評が飛び出してる為か、前夜とは違い全くの静寂に納っている。

しかし明朝の事を考えると仲々寝つかれないのか各兵共盛に寝返りをうっているようだ。

私としても同じ事で今度の事については言わば発起人のようなものだからみんなに対する責任もある、殊に善良な銀行員である班長に対し万一汚点をつけさせるような事があっては二重に申訳ない。

あれやこれやで眠られぬ数刻を過したが愈々決行の十七日午前四時が近づいて来た。

思いは同じらしく外の僚友も全部起き上っている。

装備はみんな昨夜の中から身につけているので出発は至って簡単だ。

無論外の部隊員に感づかれてもみんな各隊別々の行動をとっているのだから別段差支えもないだろう。

我々は互に顔を見合せ無言で頷き合い乍ら車輛をつらねて宿営地を出発した。

だが西南に伸びる湖畔に沿いまさにあと三百米位で湖畔を去ると言う地点にかかって第一の難関に遭遇した。

遙かに見える道路上の一点には、既にバリケードが築かれ通行禁止になっている模様なのである。

しかもその周辺には五、六名の憲兵が配置されているらしく、白い腕章の兵が見える。

先頭車に並んで座っていた桜井班長と私とは思わずも顔を見合した。

最早や万事休すか。

万一将校でも乗って居れば又何とか言い抜けも出来ようが下士官兵ばかりではなあ、と思った瞬間私の脳裡にある一計がひらめいた。最早や一刻の猶予はならない。

官名詐称だろうが何だろうがどうせ命がけの仕事だ。

えッ儘よと私は桜井班長の脇腹を肘でつついて合図をすると自分の上衣をまくり上げて穿いてる長袴を見せた、

将校用ズボンである。

普通の常識では考えられない事だが、当時の軍隊などでは規律は全部表面だけのもので、要は要領次第の世の中だったから私達経理部関係の兵などはいずれも軍衣も新品軍靴も新品で、中には私のように将校用ズボンをつけている不埓な兵もいる。

だが火急であれば手段は応変の外にない。

私の意図を察した班長も一瞬にやりとしたが、それでもまだ成算があるとは思っていないらしい。

しかし万事はその結果だ。

私は大急ぎで上衣を脱ぐと殊更らに何事もなかった様な顔付で車をバリケードから約五十米位手前の位置で停めて貰い、運は天に任してずかずかと歩哨線に近づき相手に口を聞く間も与えぬうちに

「おい、司令部の者だ、敦化地区司令部に急用があって行く、すぐそこを開けろ」と言い終るや否や再び相手の返答には一向御構いなく、そのまま後方をふり向いて結果や如何にかたずをのむ車隊の人達に行進開始の合図をした。

車上の人達も結果の意外さに一瞬ざわめいている様子だったが、万事心得た桜井班長は更に又その上の芝居の巧さで徐々にバリケードに近づくや、全く上官に対するその儘の態度で私を座席に招じ入れ、又そのまま何食はぬ顔付で車を走らせて行ってしまったのである、だが私にはその時の班長の落付いた動作と私達の車がバリケードを過ぎる時、慌てて私に対して挙手の礼を返した憲兵隊の若い見習士官の純真な横顔とが奇妙なコントラストとなって今でも目に浮ぶ記憶の一つとなって残っている。

もうこれでしめたものだ、別に官名詐称にもなりますまい。

向う様が勝手に錯覚を起したまでの事、など、そんな事を考え乍らその時はそこを通ったのであるが、後日判明したところによると私達の脱出は全く危機一髪とも言うべきもので我々の脱出後数時間も経たない中に、途中の道路も橋梁も全部部隊兵士の移動を防ぐ為に自軍の手で爆破されてしまったとの事である、がうまく脱出はしたがそれからの我々の行手には、決して平穏な社会が待っていたのではなかったのだ。

私達はその日の正午頃ようやく山峡地帯を走破して平坦地帯についた。

見れば眼前には平野がひらけて至近距離に満人の集団部落がある。

何はともあれ小休止をする為その部落に入ろうとした。

処がこれを見つけた部落民はすぐさま門内に馳け入ると、部落の大門を閉めたきり呼べども叩けど音もない。

こうなったらもう絶対である、一度この態度に出た場合のこの民族にはもう絶対に妥協の余地がないからだ。

仕方なく我々もこの部落内での休養は諦め、其儘敦化に向け車を走らせる事としたが、三時頃着いた敦化の街の混乱も亦意想外のものであった。

即ち京図線の列車はまだ日本軍の手で運行されている様だが、駅頭に溢れる避難民の群はまさに身動き一つ出来ぬ程の物すごい雑踏ぶりである。

そして又我々同様部隊を離れた兵士の集団が路上至る処に右往左往して、その捨て去った兵器或は装具などが路傍至る処に数限りなく散乱している。

我々もこの光景には暫し呆然と我を忘れて見とれているより外なかったが、班長の意見によって一応地区本部を尋ねて大略の情況を聞いて見る事とした。

ところが私達の探して行った地区本部の混乱ぶりも亦殊の外だった。

我々の来意を血走った目差しで聞いていた参謀肩章の老少佐が、いきなり我々の頭上に雷鳴を轟かした。

「何だッ、二七〇部隊がどこにいるかって?馬鹿言うな、誰に判る、東部二百台の部隊なら北満の牡丹江かハルピンだろう、行きたければ自分勝手にそこへ行けッ」

そのまま門外に放り出されてしまったのである。

理屈は簡単だが我々はその地域から一週間以上もかかって、ようやく今ここまで辿りついたのではないか。

全く何をか言わんやだ。

我々も致方なく再び街頭に戻って来たが、見れば街頭の状況も少しづつ様相が変って来ている。

満人商店街にはもう軒並に青天白日旗が飜っているし、路上にはちらほらソレン軍の先駆車が走り出してきている。

もう絶対に余裕がないから京図線が自軍の手に管理されている中に、早く吉林方面へ脱出しようと口を酸くして奨めるが、いざとなると班長以下仲々その決心がつかぬらしい。

そのうち二、三輛の車輛を連らねた兵士の一団が我々の傍を通りかかり、いきなり大声で

「おい、お前達、何を愚図々々してるんだ、車のあるものはみなこれから食糧を積んで長白山に入る事になっているんだぞ、お前達も早く行かんか」と言う。

嘗ては日本軍がゲリラ隊の出没で散々に悩まされた長白山脈に、今度は逆に日本軍が立籠るつもりなのか。

成程地域的には一応一番手っ取り早く考えつかれる手段なんだが我々には真平だ。

更に繰返し繰返し吉林方面への即時脱出を説いたが、依然みんな何となく成算がなかったらしい。

又自由行動となれば地理を知っている私や林一等兵だけが安全圏へ逃げこめても他はどうなるかとの考えもあった様だ。

それで私は特に私の行こうと奨めている吉林、新京方面は私の任地とは全然正反対の方向で私自身決して自分の身だけを考えているわけではないと色々に話して見たが、結局その日は一応行動を見合してもう一日様子を見る事に話が一決した。

だが考えて見ると一日様子を見るその事が既に可笑しい事だ。

平常の一日とは全く違う、一日の違いがどんな結果を生むか誰しも予測出来ない事だ。

現にソレン先駆隊も段々数を増して来ているし、鉄道の管理権も早晩ソレン軍に接収される事も自明の理だ。

あまりの事に私と林一等兵はそのままにも居たたまれず、都合によっては二人だけで脱出しても仕方ないと覚悟を決め、一先ず班長の許可を得て街の状況を調べる事とし夕閣の街へ出て行った。

しかし事態が事態だから夕闇に包まれる頃になると灯火を洩らしている家屋など一軒もない。

用心深い満人商家は勿論の事日本人居住区域などは殆んど空屋同然だ。

その暗黒の闇を縫って当時の私達にはその呼名も知らなかったソレン軍のジープが時々巡羅して見える。

又我々同様の敗残兵の集団がそこここに屯しているのか、何やら知れぬ人のざわめきのみが地を這うように遠くから夜のしじまを破って絶間なく流れてくる。

但し眼前の街は完全に死の街の様相だ。

半ば諦めて私達が帰りかけると意外にもある街の一角に煌々と電灯をともし、しかも門燈までつけ四囲の暗黒と殊の外はっきりとした対照を見せている明かに日本人の居宅と見られる一戸の建物がある。

あまりの事に我々も一瞬わが目を疑ったが急いで門前まで行って見ると夢ではない。

中からは疑いもなく日本人の話声が聞えてくるし又堂々と玄関まであけひろげた一見建築士か土木業者の住宅らしい門構である。

少々狐につまされた様な気持であったが思い切って中に入って見た。

玄関に立って案内を乞うと一瞬中の人声がやんだがやがて恰幅の好い、一見して請負師と判る五十才位の男が浴衣がけのままの姿で現れて来た。

そして我々の来意を無言のまま聞き終ると、一端座敷に引返したが再び現れて、

「遠慮はいらんから中に入って来い」と言う、しかし私達は何分風態が風態だからしばしためらいを見せてもじもじしていると更に命ずるように

「構わんからその儘で入れ」と可成り強い語調で言う。

仕方ないので恐る々々何日ぶりかの坭靴を大急ぎで脱ぎ、招じられるまま奥座敷に入って行くと、正面には矢張り浴衣がけの客らしい長身面長品の好い四十男が悠然と座って我々の様子を見詰めている。

いよいよ貰い子の様な格恰になったが度胸を定めて主人の差出すコップの酒を頂くと、それまで我々の様子をじっと見詰めていた件の客が

「何だお前達○に部隊の兵隊か」

とさも意外だったと言った顔付をして言う。

勿論胸に○にの部隊章はつけているが普段は減多に使はれぬ部隊略号だ。

私達も不審に思ってその顔を見直すとその客は急に打ちとけた態度になって

「実は俺もお前達と同じ部隊の者だよ」と言う。

しかし我々には全く見た事もない顔だし、又風采年配から見れば間違なく将校のようだがそれにしても全然見覚えがない。

一瞬ぽかんとしていると、

「尤も俺は本部病院に居た軍医だからお前達には馴染がないがそれにしてもこんな処で同じ部隊の兵隊と逢うとは全く不思議だな、一体お前達はどうしてこんな処に紛れこんで来たのかね?」と訊く。

それで私達は大体のこれまでの経緯をかいつまんで話した処じっと聞いていたその軍医が

「成程聞いて見るとお前達もこれまで随分苦労して来たんだな」と前置して

「だが俺の苦労は又格別だよ、まず第一に部隊が病人のいる病院を忘れて(本部は我々の隊から二キロ位離れ病院は更に一キロ先)自分達だけ勝手に撤退したら後はどうなるのか俺は四名の衛生兵と七名の患者を抱えて全く死ぬ程の苦労をしたよ。

仕方がないので自費を出して現地人と馬車を雇って密山まで出て後は列車と車に乗れたが俺の行く先々は全部撤退した部隊跡ばかりだったよ、患者は幸い一面坡の軍病院に頼めたが俺だけは牡丹江から一面坡ハルピン、新京吉林と全満を一周した事になるよ、しかしまだ本部の所在は一向に判っていないのだ、つまり俺は軍から見放された事になるから俺も今度は軍を見放す事にしたよ。

もう今日限りで廃業するつもりでいるから、お前達ももう適当に解散したらどうか」と私達殊に私にとっては全く願ってもない有難いことを言ってくれる。

我々はこの言葉に勇気百倍、自隊の将校からかくもはっきり言われたからにはもう何も心配する事はないからと心からその御好意に感謝の意を述べ早速車隊に帰ってこの旨を逐一班長に報告したが、余り話が飛躍している為か流石の班長も仲々その儘話を信じようとしない、そして取敢えず自分も一度その軍医に会って若しその話がほんとうなら又その時の事にしようと言う。

勿論班長の立場としてはそれが当然の事だから私もその返事には何の不満もなく其夜は車上に最後の夢を結ぶ事としたが班員の中にはこれとは反対に今ここで解散されても西も東も判らぬ自分達にはどうにもならぬ、それよりもむしろ二十七名とは言え一つ纏っていれば又何とか方途もあろうと全然反対の意見があり又これが主として古年兵達の意見であった為結局最後になってはその通りに事が運び翌日の解散式は即俘虜収容所入所式となってしまったのであるが、当夜の私には全然夢想も出来ぬ事柄だったので何の屈託もなく其夜は充分に安堵して睡眠を貪った。

翌朝我々は早々に朝の炊餐を済まし全員揃って昨夜の日本人宅に出掛けて行った。

早朝ではあったが大いに気持よく出迎えてくれて解散式をやるなら家の庭先を提供しても好いと言う。

又昨夜の軍医も俺は昨夜廃業式をやったが、君達が解散式をやるならもう一度やり直しても好いと仲々に上機嫌だ。

私の報告が事実と判って班長もようやく安心したらしいが、いざ解散式をやるとなると又いろいろな問題が起き上ってくる。

まず第一に全員の飲代だが残っている日本酒はもう二本しかない。

それに携行食糧の缶詰類も到底全員の口腹を充たすには不充分だ。

何とかして徴発したいが格別の算段もない。

勿論多少の現金は皆各自持合しているが、これもこれから先のことを考えれば到底このまま費消してしまう訳には参らぬ。

あれやこれやと話し合ったが結局解散すれば不要となる車輛を一台投げ売りする事に話が決った。

早速私がその売却を引受け適当な商家を見つけ話を持出して見たが、狡猾な満人の事我々の足許を見て仲々話に乗らない。

そのうち自動車は買っても運転が出来ないがタイヤなら商品として売れるからタイヤだけなら買つても好いと言う。

値段を訊くと一本七拾円だと言う。

見えすいた話だ、タイヤだけ取ったら自動車はその儘そこに置き去りになる筈だ。

「馬鹿野郎」と怒鳴りつけたいがまだ見込もあるかと色々値段の点で交渉を続けていると外から急いで入って来た中年男がその店の主人の耳許に何事かを囁いた。

すると途端に顏色を変えたその家の主人が急に空々しい態度になり

「何も要らない、何も要らない」と言う。

もうこうなれば没出子(メイハアズ)である。

私は勿々にその店を飛び出し更に適当な買主を探したが仲々に相手になる者がいない。

ようやく六、七ケ所廻って得た戦果が予備品の軍用毛布と取換えた、鶏四羽と白酒二本だけであった。

まだ若干足りないがもう贅沢も言っていられない。

早速請負師宅に戻って仕度に取掛ったが、人手が多いからたちまちに準備が出来上った。

そして我々は外見に似合わず真に心からいろいろな世話をやいてくれた其家の主人の好意と、階級を度外視して上手に座を取りもってくれた軍医の態度にすっかりこれまでの労苦を忘れ愉快な数刻を過す事が出来たが、最後に全員で万歳を参唱し目出度く式を終ったつもりの私の行手にはまだ全然予想もしなかった意外な結果が待ち受けていたのである。

即ち私は解散式も終って一応の挨拶も取交したのだから此上は当然各個自由に行動しても差支えないと思い二、三僚友を誘って一刻も早く敦化駅に馳けつけたい気持で急いで門外に一歩踏み出した処、続いて出て来た桜井班長に「君達一寸」と声をかけられそして更に「実は君達に少し頼みたい事があるんだが、それは外でもないが我々は今ここで解散式は済ましたが兵器を車輛だけは何とか仕末したいと言うみんなの意見があるんだ。

それで先を急いでいる君達には済まないが地区司令部が飛行場に在ると判ったから一応全員でそこまで行って兵器と車輛を返納した上自由行動をとりたいが君達も是非そうしてくれないか」と言う。

一応もっともな話であるから私にも否応の言いようがない。

言われるまま再び車上の人となったが、実はこれが運命の岐れ路で我々の飛びこんだ敦化飛行場には、その時刻頃とんでもない状景が展開されて居ったのだ。

即ち同時刻同飛行場にはソレン最高指揮官搭乗機が着陸して、当時同方面軍司令官だった富永陸軍中将初め同地区駐屯各部隊の全将校が滑走路上に整列して、恭々しくソレン指揮官の出迎を為しているその真最中だったのである。

勿論それ以前に両軍の間には

「軍は即時凡ゆる抵抗を停止し、武器を放棄又兵は現在より一歩も移動せしめず」云々の停戦に関する諸協定などは当然既に交されていた筈であるが、何分終戦の事実すらまだ明確には判っていなかった我々の事であるから、知らぬが仏の気易さで何の気もなく車輛を連ねてしかも微弱とは言い乍ら小銃も数挺携帯して堂々飛行場の正門から場内に這入りこんでしまったのであるから、それからの事態などはもう説明の必要もあるまいが、とにかく我々は門内に這入ると同時に、それこそ全く血相を変え特別製の般若の面をつけたような御面相になった一老少佐殿に腹の真底からしぼり出した様な怒鳴り声で

「馬鹿共ッ、さっさと消え失せろッ」

と浴びせかけられてしまったのである。

狐につまされた様な気持ではあるが事態の容易ならぬことはその場の空気ですぐにうけとれた。

転ぶ様に指さされた兵舎の裏側に逃げ込んだが気がついて見るとはや飛行場の周辺はすべてソレン兵によって哨戒されている。

つまり我々は「飛んで火に入る夏の虫」をそのまま地で行ったわけである。

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