ローブ・ア・ラ・フランセーズ
それからさっそく特訓がはじまった。カロラインと、ついでにダレンもエスコート役としてマーテルたちに歩き方から扇の持ち方、手を添える角度に至るまで鍛えられた。
「ミス・ドーン! 背筋はまっすぐです! 反らすんじゃありません! 顎は引いて、微笑みを忘れずに!」
「ミスター・アンガス! 腕はもっと余裕を持って! 緩めるのではありません、余裕と言っているでしょう! 一定の緊張感を忘れず所作には余裕、これをさりげなく見せるのです!」
「話をするときに大きく口を開けない! 歯を見せて笑わない! 食べる時もですよ。声が出せない? 喉ではなく腹から声を出すのです!」
「つま先まで優雅さを心掛けて! ミスター・アンガス、歩調を合わせて!」
「ドレスはローブ・ア・ラ・フランセーズですから、焦って動いては優雅さはすぐに崩れます。慣れないドレスは重くて動きにくいでしょう。体力をつけましょうね」
「他の人と挨拶をしていても常にパートナーを意識してくださいね、ミスター・アンガス。話に夢中になったり他の女性に見惚れるのはマナー違反ですよ」
はっきりいってスパルタだった。特訓の合間に貸衣装屋がやってきてドレスの調整をした。肖像画からはレディの靴が見えないため、マーテルたちと靴を選んだりもした。
十八世紀のドレスを着たいと希望する人が多いというだけあって、貸衣装屋は慣れている。パーツで分割するドレスに驚いたカロラインに笑って、手際よく試着させていった。
「でっか……いえ、大きなドレスですね」
クリームイエローのボリュームあるドレスは両脇のフリルに隠れるように小さなピンクのバラがいくつも縫い付けられていた。袖に大きなリボンが付きレースがたっぷりと重ねられていた。そのレースにも金の刺繍が施されている。
今時お目にかかれないドレスの一番の特長はなんといっても背中側にあるヴァトー・プリーツだ。ドレスと同じ布とバラ飾りが付き、マントのように引き摺る長さがある。
さらにスカート部分となるジュップは中にパニエを重ねて膨らみを出し、反対に胸部を止めるピエス・デストマが腰の細さを強調させる看板になっていた。カロラインは看板を前に垂らして店の宣伝をするパフォーマーを思い出した。
そして、デコルテである。四角いデコルテは布の多さからすると大胆すぎるほど開けられて、乳房の盛り上がりを見せつけている。貸衣装屋の使用人がカロラインの胸を、脇から背中から腹から寄ってたかって寄せてあげて作られた丸い乳房になぜかカロラインは泣きたくなった。こんなものもあります、と差し出されたパットは全力で遠慮させていただいた。カロラインにも意地がある。
「そうね。ため息がでるほど贅沢なドレスだわ」
マーテルも実際に見て、呆れたような感想を言った。
こんなドレスを着るのでは太ってなどいられない。女性らしいなだらかな曲線を主張できるのは胸と腰だけなのだ、ちょっとでも太ったらコルセットで息ができなくなるほど締め付けられるだろう。
カロラインが気が遠くなりかけているのはコルセットのせいだけではなく、貴族の財力に圧倒されたせいだ。一着のドレスを仕立てるのに、今のような幅が決まった布を購入したのではなく、おそらく生地から特注で織らせている。刺繍にレース、フリルにバラの飾りは陶器で作られていた。機械のない時代、ドレスを一着仕立てるだけで数か月はかかるだろう。
おまけに靴と扇、アクセサリーまでお揃いとなったらいったいどれくらいかかったことやら。しかも貴族ともなればそう何回も着回すわけにもいかず、かといってこれを手直しするのは難しい。さらにシーズンごとに新しく仕立てなければならないはずだ。頭の中でチャリンチャリンとコインの音が響き、ため息どころか目眩がしそうだった。
「あっ、お義姉様見つけたわ!」
試着のために部屋の一室を貸し切りにしてある。そこにミュレルがやってきた。他のマダムたちも各々ドレスを選んで試着している最中である。なおダレンは他のエスコート役のボーイと共に別室で正装の試着をしていた。
やってくるなりミュレルはドレス姿のカロラインに指さして笑った。
「やっだぁ、何そのドレス! ドレスから首が生えてるみたいだわっ」
ここ数日、カロラインとダレンは特訓でミュレルの相手などしていられなかった。いかに図太いミュレルでもマダムたちの厳しい指導に割って入ることはできず、というより巻き込まれるのはごめんだと逃げていたのだ。鬱憤が溜まっているらしい。
「……」
カロラインは言い返さなかった。自分でもそう思うし、なにしろコルセットがきつくて呼吸するだけで精一杯なのだ。
「はじめてはそんなものですわ。ご心配なく、着慣れればきちんと着こなせるようになります」
代わりに貸衣装屋がカロラインをフォローした。慣れている。こうした見物人の茶々はよくあることなのだろう。
マーテルはというと、うるさい小雀ね、と言いたげな笑みだ。自分の企画にけちをつけられて笑っていられる胆の据わりっぷりが頼もしい。
「あら、これレディが着ているのと同じドレスなのね? ふーん、古臭いけどさすがに豪華ね」
ジロジロとぶしつけに眺めるミュレルは生き生きと毒舌を吐いている。それから部屋を占拠するドレスを見て回った。ローブ・ア・ラ・フランセーズの他にもバッスル・スタイルのドレスもある。こちらはマーテルたちマダム用なのでやや落ち着いたデザインだ。
「どれも古臭いわねぇ。お義姉様のドレスが一番ましって、十八世紀の貴族もたいしたことないのね」
このいいぶんにはカロラインが目を剝いた。一見地味なドレスでもそのぶん刺繍などの細かい部分が凝っている。『貴族夫人』をイメージしたドレスなのだから、むしろ令嬢向けより手が込んでいるのだ。豪華なら良いというものではない。
貸衣装屋もムッとしている。申し訳ありません、と謝罪しそうになり、カロラインはハッと言葉を呑みこんだ。
「仕方ないからお義姉様のドレスで我慢してあげるわ」
「出ておいきなさい」
ミュレルの言葉にかぶせるように、カロラインが命令した。
「――は?」
これまで義姉に叱られたり代わりに謝罪されたことはあっても命令されたことのないミュレルは一瞬何を言われたのかわからなかった。まして人前だ。ミュレルが他人に迷惑をかけても気分を悪くさせても後始末はカロラインだった。それがミュレルの中では当然の役割になっていた。
「聞こえなかったの? 出て行きなさい、ミュレル。不愉快です」
「なっ、何よ、お義姉様のくせに……っ」
カロラインは体の軸をぶれさせないようにミュレルを見た。そうしないとバランスを崩しそうだったからだが、ミュレルには威嚇に見えたらしい。わずかに怯む。
「部外者のあなたが招かれてもいないのに、ノックもせずに入ってくるなんて何事です。お義姉様のくせに、何? あなたこそ、何様のつもりなの?」
「……っ」
さっと周囲に目を走らせたミュレルだが、女だけの部屋で猫をかぶり忘れていた。ドレスを貶められた貸衣装屋は顔をそむけ、マーテルはカロラインに満足そうにうなずいている。マダムたちも冷ややかな目だった。
味方がいないのを見て取ったミュレルが憤怒に顔を赤くした。
「お義姉様のくせに! 最低よ、もう知らないんだから……きゃあっ」
走り去ったミュレルの悲鳴に何事かとマーテルが見に行くと、尻餅をついたミュレルが呆然としていた。どうやら靴のヒールが折れたらしい。スカートがまくれあがり膝が見えていた。
「あらあら。お嬢ちゃん、走ったら危ないわよ」
失笑されたあげくにお嬢ちゃん呼ばわり。ミュレルは真っ赤になりながら立ち上がった。ヒールの折れた靴では走ることもできず、よたよたと逃げていく。
「よく言ったわ、ミス・ドーン。それで良いのよ」
部屋に戻ったマーテルがカロラインを褒めた。
「はいっ。マダムたちの教えのおかげですっ」
ちなみにミュレルはマーテル主催の晩餐会に招待されていない。ホテルが準備でさわがしいのでミュレルも気が付いたのだろう。あたりまえに参加するつもりでいるようだが、ミュレルはマーテルだけでなく他のマダムたちにもレディにふさわしからぬ人物として一顧だにされなかった。
ドレス描写めっちゃ生き生きしてるな……と自分でも思います。ローブ・ア・ラ・フランセーズについては『ポンパドゥール夫人の肖像』を参考にしました。